かぶれの世界(新)

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沈黙の初夏

2009-06-21 11:36:32 | 日記・エッセイ・コラム

田舎に着いた日から何か変だと思っていた。1週間経ち田植えが終ってもカエルの合唱が聞えない。聞えてくるのは鳥の鳴き声ばかり。東屋で朝食を取りながら新聞を読んでいると、大きな鳥が飛ぶザッザッという不気味な羽音が聞えてきた。

この辺にそんな大きな鳥がいたのかと思い、顔を上げるとカラスだった。堤防を散歩すると、河床を優雅に飛んでいく白と灰色のツートンカラーのサギを見かけた。同じ様な羽音が聞えてきた。こんなこと初めてのような気がする。羽音が反って周りの静寂さを感じさせた。

気になって先週末にいつもの散歩道を変えて、田んぼ道を歩いた。田植えから1週間経った田んぼにも用水路にも生き物が見当たらない。ドジョウやメダカ、フナ等の魚類、環境変化に耐力がありそうに見えるミズスマシすらいない。カエルもおたまじゃくしも見当たらなかった。夕方橋を渡ると、野太いウシガエルの鳴き声が聞こえたが。

そういえば昆虫も見かけない。気をつけて歩くとシオカラがたったの2匹、蝶は昨日になってやっと1匹見つけた。土手にはレンゲや野菊、タンポポなどが咲き乱れているというのに。田んぼの水やりを看ていた老農夫に聞いても、何故生き物がいなくなったか要領を得ない返事。

レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を書いたのは1962年だが、それから47年経って私は「沈黙の初夏」を田舎で実感した。だが、最近は強い農薬の使用を控え、無農薬の稲作をやっている農家も多いと聞く。それから3日後の散歩の帰りに、知り合いの2人の老農夫に同じ質問をぶつけてみた。

彼らは、かつては群れのようにいたイナゴやバッタが何時の頃からかいなくなったと認識していた。カエルも確かに少なくなったが、田んぼを良く見ると卵から孵ったばかりのオタマジャクシがいることを教えてくれた。確かにそうだが、田んぼは色んな生き物の宝庫のはずなのに、いかにも寂しい。

すると、年配の一人が用水路をセメント化した時から魚がいなくなった気がすると、ポツリと言った。稲作用の用水路は二重構造になっており、夫々は逆の勾配がつけられている。上段は田んぼに水を引いていく上流から下流に、下段は田んぼから流れ出た水を集めて上流に戻り川に返す水路になっている。

私が子供の頃は縦横に走る用水路の合流点は魚の宝庫で、夏になると良く遊んだ。網ですくうと簡単にフナやドジョウ、ナマズが取れた。しかし、用水路がコンクリートになると水の効率は良くなったが、岩や水草がなくなり、水の流れが完璧にコントロールされ、魚などの生き物が田んぼに入り込めなくなった、という意味だろうと思った。

その時は半信半疑だったが、NHKの特集番組で田んぼにメダカを取り戻そうという活動を見て、同じ構造的問題が指摘されているのを見て、老農夫の言ったことにやっと合点がいき、上記のような用水路理論を思いついた。

しかし、この理論は説明できないことが沢山ある。昆虫が少ないのは用水路では論理的に説明できるか私には分からない。昆虫を餌にする鳥は昔と同じで、減っているようにも感じない。農薬が全然影響していないとは言えないだろう。

その一方で、橋の上から見る鯉が年々増殖している。誰も魚釣りしないし、川遊びするには汚い。川藻が増殖して酸欠になりそうなのに、背びれを水面から出して悠々と泳ぐ親鯉の周りに、小ぶりの鯉が続く。天敵がいなくなった鯉は澱んだ川に居座り、繁栄の道を歩んでいる。■

コメント
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