かぶれの世界(新)

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先祖の小さな名誉回復

2018-10-02 14:20:34 | 日記・エッセイ・コラム
暫く前に住職から我が家の祖先がこの地に住むようになった経緯を聞いた。それは私の理解とは違っていた。我が家に残された家系図の書き出しは次のようになっていた。

「攝津守源頼光末裔也池田太郎兵衛元忠者土佐国主長曾我部元親ノ臣トナリ慶長年中故アリテ本領ヲ放タレテ后當地ニ来テ農民トナリ子孫数戸ニ分カル因テ其霊ヲ祭ル」

私はこれを読んで、「徳川家康が天下平定し、山内家が土佐入りし長曾我部家臣は、下士として仕えるか、反逆して殺されるか、逃げるか選択を迫られた。この時我が家の先祖は伊予の国大洲藩の山間部に逃亡し生き延びた。」と理解していた。坂本龍馬を始め明治維新で活躍した多くの志士の先祖は下士あがりだった。我が家の先祖は土佐藩から逃げて百姓になりひっそりと生き延びたと。

だが、和尚の説明はそうではなかった。戦国時代末期に秀吉の支持を得て、長曾我部元親が四国統一を計りこの地を征服した時、我が家の先祖は主の許しを得てこの地に残った。ネットで調べた限りでは祖先の名前は出てこないから、多分名もなき下級武士だったのだろう。何れにしろ徳川の世になった時に新しい大洲藩主の許可を得て、刀を置いて百姓として許され山中に住んだという。

つまり和尚の説明が正しければ、先祖は土佐藩の圧政を恐れて命からがら逃げて来た訳ではなかった。会社勤め時代に取引先に山内家の直系の子孫がいて、買う立場に立った私に図らずも頭を下げたとずっと前に書いた。祖先の恨みを少しは晴らした積りだったが、どうもそうではなかった。同時に恐怖で逃げたのではないと祖先の名誉が少し晴れた気がした。■
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孤独の慰め

2018-09-30 17:55:03 | 日記・エッセイ・コラム
台風24号の嵐の中、書斎のインターフォンが鳴った。こんな時どんなお客かとビデオを覗くと書留めだという。1階に降りて玄関のドアを開けるとずぶ濡れの中年男性が郵便物を持って立っていた。もう局員かどうかもはっきりしないが、取り敢えずサインをして封筒を受け取った。

2か月前にNTT系列からKDDIに光回線を変更し支払った解約金を間接的に補完する為替証書だった。そういえばこれがあったと思い出しメッチャ嬉しくなった。なるべく早く郵便局でお金を受け取る積りで必要事項を記入した。説明書を読まないで記入し、後からチェックして間違いに気付いた。

余り考えもせず直ぐにコールセンターに電話して指示を仰いだ。郵便局に行き事情を話せ、念の為に印鑑を持って行け、という予想通りの答え。白状するとあまり考えもせず電話したのは誰かと話したかったからでもある。彼女は東京にいた。こちらの天候が如何に酷いか説明し、東京は覚悟した方が良いとか何とか言って軽口をたたいて電話を終えた。今日初めて女性と口を利いた。

20年前米国に単身赴任した時がそうだった。当時はまだネット社会前の時代で、多くの活動は電話で済ませていた。シアトルにいた時は小切手を郵送していたが、カリフォルニアに転居してからは家賃から電気・ガス・電話・CATVまで全て電話で済ませ小切手を切るより便利になった。

異国で孤独な私には滅多にない誰かと喋る機会だった。相手を笑わせようと事前に考えた冗談を片言の英語で言って相手を笑わせ、直ぐに電話を切られないよう工夫したものだ。例えば、当時は国際線フライトに乗る時は搭乗数日前に、リコンファームといって確認の電話を入れる決まりだった。

受付のコールセンターはデンバー等の内陸部が多く、普段は話すことがない女性と話す機会だと思っていた。事務所はどこか、雪が降るのか、寒いのか、などと関係ないけど難しくない英語で喋りかけた。それで英語が上手くなったなんてことはない、第一忘れてしまった。

だが他にそんな客はいなかったはず。一度も電話を切られたことはない。理由は常に相手にプラス思考で何とか喜ばせようとアプローチしたからだと思う。その性癖は田舎の孤独な生活をするようになった今、結構役に立っている(たまに嫌がられるけど)。今日も彼女は気持ちよく電話を切ったはずだ。だが、これはやむを得ず身に着けた後天的性格、場合によっては嫌な性格も出てしまう。■
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秋虫生殖の頃

2018-09-29 21:59:05 | 日記・エッセイ・コラム
昨日午前中にベンダー変更して古い光モデムの返却の為、郵便局と実家の間の堤防沿いの道を往復した。往路では気付かなかったのだが、復路を辿ると堤防の周りをバッタが飛びかい、道の上にも何百匹もいた。不思議なのは近づいて行っても私を無視して動かないバッタが沢山いたことだ。何で?

私にとって理由は簡単だった。馬乗りになったバッタのペアを堤防の道1kmの間に3つ見つけた。彼等にとって昨日は生殖の頃だったのだ。その時期になると彼等は生殖に集中して私に気付かないか、私の存在に鈍感になったようだ。彼等は日照時間とか気温とかの条件で一斉に体が反応したのだろうか。これが人間なら大変なことになると思った。

視線をあげるとトンボのペアが飛んでいた。トンボのペアは言葉では説明が難しいアクロバチックな体位で器用に飛んでいた。同じ1kmの間に2ペア見つけた。昨日は秋の虫にとって一斉「生殖の日」だったようだ。今迄そういう風景は見なかった。昨日だけピンポイントで起こったのか。■
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身近に迫る友の死

2018-05-13 15:13:25 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日いつもの様に川沿いの道を散歩していると、見知らぬよぼよぼのお年寄りから声をかけられた。声の主をよく見ると懇意にしていた集落に住む先輩だった。私より3歳年上の運動万能の野球部の先輩で、私が中学に入学した時卒業したので一緒にプレーしたことはない。

その後地元の大学を出て農業試験場で働き、退職後は長く地区長を務め母もお世話になった。近年余り見かけなくなり、癌の手術を受けたと聞いていた。近況を確認したのち、彼は熱心に我が家の家系のことを聞き出した。実は義母の法事に行った時も同じような質問を受けた。

こういう言い方は失礼だが、人は自分の将来が見えて来ると逆に身近な人の家系や歴史を知りたくなるのではと思った。今度は肺気腫になり医者からそう長くないと告げられていると彼は淡々と言った。話しているうちに体力が続かなくなったようで、彼は堤防の斜面に座り込んでしまった。彼の話は大袈裟ではなかったようだ。

実は2週間前に彼と同い年で、懇意にしていた先輩が2月に急死したと聞きショックを受けた所だった。彼は松山市で先端電子部品の輸入商社を経営しており、何度か事務所に伺ったことがある。昨年、偶然会った時も元気な様子でどこにも異常がある様には見えなかった。

聞くところでは本人も含め亡くなる前までそんな気配はなかった。孫の運動会を見に行きその場で心筋梗塞で倒れ亡くなったという。子供は4人とも女性でやっと後任の社長が決まったそうだ。彼を良く知る人は若い頃松山市の盛り場で遊び惚けたのが遠因ではないかという。噂とはそういうものだ。

私の散歩コースはこういう話があちこちで聞ける情報源の塊だ。加えて話好きで誰とでも友達になると自称する私は、普段なら聞けない深い話も漏れ聞くことがある。先日脳梗塞になってリハビリ中だという老人につかまって、聞きもしないのに発症から治療を受けリハビリまで詳細に説明してくれた。

私が死ぬのもそう遠くないかも知れない、いつかそうなる可能性があるのは認識している。彼の経験は貴重で参考になると思い最後まで彼の演説を聞いた。二人の先輩の話を聞くまでもなく、彼等の死は単なる話題ではなくなった。だとすれば何をやる?その答えは見つからない。■
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法事が続いた宴の後

2018-05-06 16:32:36 | 日記・エッセイ・コラム
華やかな暴風
先週初めから家内に加え子供達とその家族が東京からやってきた。義母の一周忌に合わせ7月に死んだ母の三回忌を頼み込んで前倒しして貰い、4日5日に連チャンで実施する法事に参加するためだ。孤独な私の田舎暮らしが花が咲いた華やかさと暴風が吹き荒れた騒ぎで賑わった。

義兄の17回忌を兼ねた義母の法事は昔風の儀式で坊さんが3人もいて長いお経が続き、お経の途中から焼香が始まった。家内の実家は我が家に比べると多産系の一族で、参列者は数人の親戚と義母の子供・孫・曾孫の七割程度でもお堂が一杯になった。一方我が家はその逆で子供お孫も合わせて両手で足りる上に家族葬の流れで親戚も呼ばずこじんまりしたものだった。

近況を確認
義母の法事では施主の義兄から、我が家の法事を前倒しをしてくれたので東京からの家族も参加してくれたと感謝された。実際は子供達には無理をしなくともいいと伝えていたが、子供達が自発的に参加してくれたもので私も彼等に感謝した。彼等や孫達も同じ年頃の人達と一緒に楽しめたようだ。

私も参列した方々に挨拶し、話の合う同い年の義兄と近況を確かめた。彼は退職後プロ並というかそれ以上の農業活動をしているらしい。また薬品会社に勤める家内の甥からシャイアーの買収について議論を戦わし、同年配の親戚の方に聞かれ我が家の一族の歴史について詳しく説明した。

私は長曾我部氏が滅亡し山内氏が土佐の支配者になった時逃げて来たと説明したが、後出する和尚は法事のお経の後で一族のお墓の前で歴史を語り、長曾我部氏四国統一時に当地に来てそのまま土着したという。米子から転地されてきた大名加藤氏は刀を捨て農民になる条件で許したと言われている。

住職とは寺の庭を石庭風に作り変えたのを褒めると、次々と面白い話を聞かせてくれた。東福寺の副議長に出世した今故郷の小寺と京都の東福寺を行ったり来たりと忙しいらしいが、私には京風の白砂の入手が彼の最大のテーマみたいに聞こえた。色々な人と話が出来ただけで良かったと思う。

和尚と施主の競争
翌日は我が家の母の三回忌で、出席者は私達夫婦と子供2人と孫3人に義弟のみで質素で静かな法事だった。いつもの様にお経の後何も言っているか定かでない説教を聞き、西側の山にあるお墓に向かい急な階段を昇って行った。79才になる住職の足元は定かじゃなかった。

聞くと登りが特にきついらしい。私も膝が痛いが彼は息が続かないようで、短い坂の途中で休みを入れて何とか我が家の墓まで辿り着いた。先年癌の手術をしたはずだが、今度は肺気腫だと自分で言われた。次の法事(七回忌)は和尚も私もないなと思った。今まで冗談で次はどっちかと言い合っていたが、どうも和尚が先になりそうだ。私も自信はない。後は子供たちの判断に任せるしかない。

暗転
家族との最後の夜イタリアン(と思っていた)を食べに出掛けた。ところが、メニューにはミートソースとクリームパスタだけ、ピッツアが5種類もあり、カレーライスとかなんでも出す洋食屋に変身しておりちょっとがっかりした。味も期待した通りではなかった。そこから運勢が変わった。

その帰りに家内が言い出してワインを買いにショッピングセンターに立ち寄った帰り、高速道路下の通りに出る信号が黄色から赤に変わる時強引に交差点を左折した。そのとたん後方に点滅する光が見え、途端に今迄の楽しい家族との会話が暗転した。その先の広場に停められ信号無視の9000円の罰金を命令する切符を切られた。2点減点でゴールドカードカードから青色に変わる。

パトカーに乗せられ事情聴取された後、罰金を払っても3ヵ月間注意せよと警告を受けた。免許証の情報を書き取っているのを見て米国ではその場でコンピューターで免許証を確認していると言うと、聞かれてワシントン州とカリフォルニア州だと答え当時の経験を説明した。話をしているうちにがっかり気分が普段の話好きに戻り少し立ち直った。最後に私らしく「お仕事ご苦労様です」と言って家に向かった。家内も嫁も同情する言葉の裏で下を向いて少し笑っていると勘ぐった。

孤独な生活を再開
家族全員が東京に向け夫々に我家を出て行き、田舎の家で孤独な一人暮らしを再開した。家内や娘と嫁が汚いとか臭いと言いながら実家の気付いたところを清掃し綺麗にしてくれた。残してくれた食料や残り物で暫くは手抜きしても食事には困らない。

賞味期限は気にしない。気を付けるべきは好物の甘い物を沢山残してくれたことで、少しづつ注意して食べて行く積りだ。私の気分を反映したかのように午後から雨が降り始めた。夫々に東京に戻ったり、松山の旅館に一泊したりした家族からLINEが入った。一安心した。■
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