かぶれの世界(新)

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統一地方選マトリョーシカ症候群

2015-03-29 22:18:16 | 国際・政治
統一地方選の主要な争点は「アベノミクスの地方への浸透」を測るものとして注目されており、中日に当たる週末は与野党幹部が遊説などで各地を回って支持を訴えた。背景にはアベノミクスが全国津々浦々まで浸透するには時間がかかるという実態がある。一方で、地方選が反対派勝利に終わり沖縄普天間基地の辺野古への移転を巡る論争が、地方自治と国の安全保障政策の在り方という全く別次元の捉え方に注目した。

この論争には政治プロセスか信念(或いはイデオロギー)かという噛みあわない議論がある。辺野古基地移転反対が「沖縄の心」であり選挙結果は無視できないと主張がある。一方で国の安全保障を一自治体の判断でひっくり返して良いのかと問いかける。全体利益が一部利益のどちらを優先するかだ。この問題に双方の主張をテーブルに置いて何故か真摯に議論しない一部マスコミの報道姿勢に私は深く失望している。

実は民主主義制度下でこの全体と一部の利益が相克する例はいくつもある。基地問題についても、国と県の対立と同じように県と普天間市に対立はないのだろうか。何故辺野古の反対のみ伝わるのか。普天間市の住民の意見が全く聞こえないのは不思議だ。反対派やマスコミの中には意図してそういう意見を報じない様に私には感じる。普天間の誰も移転を望んでいないのか。本当に「普天間の心」と「沖縄の心」は矛盾していないのか。

視線を世界に向けると人類は二つの伝染病と戦っている。エボラ出血熱とイスラム過激派だ。これ等は人類の敵であるというのが現在の「世界の心」だと私は思う。世界各国と貿易をして日本は豊かな社会を築いた。その世界各国で殺戮を続けるイスラム過激派にどう立ち向かうのか。世界の誰かが血を流してやってくれるという「日本の心」で良いのだろうか。私には一時期盛んに言われた反グローバリゼーションを思い出す。

世界レベルから自治体レベルまで見通すと、全体と一部の相反する利益の対立だらけだ。正に世界は大小のマトリョーシカから成り立っている。当事者やその利益代表が自己の利益を主張するのは浅はかかも知れないが許される。民主主義は多数決で決まる、一部利益は受け入れられない場合が多いのは必然だ。

結果的に受け入れられない一部利益の主張を鮮明にしよりよく理解させる為には、全体利益と同じ土俵に立たせ議論することが極めて重要だと私は考える。私は安全保障に関わる問題になるとこのような立場にたって論評をする報道姿勢が欠落しているように感じる。このプロセスを怠って報じるマスコミはジャーナリズムを名乗る資格が無いし国民は不幸だと思う。来るべき統一地方選をこういう視点で見てはいかがだろうか。■
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職場旅行の勧め

2015-03-28 18:47:49 | 社会・経済
60年代末に私が会社勤めを始めた頃は定期的に職場内の飲み会とか旅行があった。課単位で親睦会があり書記さんが給料日になると毎月会費を徴収し、最低年1回は職場旅行と忘年会があった。入社数年の若手が幹事になって旅行や飲み会のアレンジをした。私も2,3年目に幹事をやった。

四国の田舎から出て来たばかりの私には関東近辺の観光地のホテルを選び、交通の便を調べ食事を決め概算の費用を計算し、一緒に仕事をしている取引先を含め課内に通知し意見を聞いて日程等を調整し、参加者を確認し計画を確定させ予約する。書記さんや前年度の幹事の助けを借りないと何も出来なかった。

旅先は定番の伊豆箱根とか日光や近場の温泉で大抵は現地集合だった。当日は早目に行って員数確認をし場合によってはホテルに変更をお願いしなければならなかった。30-40人の参加者がいると病気やケガなど何かが起こる。突然の不参加の場合は事前ルールを決めておき、旅行代金の一部を返却した。

田舎者の私には知らないことばかりで大変だったが、今思い出すと凄く役に立った。職場のあらゆる人と話をした。その結果、誰それはどういう性格の人か、何かと助言してくれる世話焼きの人だとか、とっつき難い人だったり、口をきいたこともなかった上司やエリート社員と話をし、憧れの都会の女性社員と初めて話をした。

観光地のホテルの相場がどんなものか、何を頼めるか、経験豊かな先輩が色々と教えてくれた。取引先の社長が参加した時は驚かされた。芸者を呼んでくれたり、悪い(?)所に連れて行ってくれたり、田舎者の私には驚くことが多かった。こういう世界があるんだと毎日電車で通うサラリーマン生活とは違う社会勉強した。

これ等の多くは職場旅行で幹事をやったおかげだ。忘年会の幹事をやった時も同じで、仕事と直接関係ないが職場の人を知り人間関係が円滑になった記憶がある。その頃は高度成長時代で毎年多くの新人が採用され、職場がうまく回るようにする実利的な効果もあった。会社の運動会で近隣の人達を招き親睦を図るのも同じ延長線上にあったのかも知れない。

80年代のバブルの時代になって旅行や宴会が派手になった気がする。あのころの会社は変だったと思う。その頃から職場旅行や宴会がつまらなくなった記憶がある。バブル破裂後は新人採用が絞られ親睦会の目的が変わっていったかもしれない。私自身も家族ができ職場旅行より家族旅行というように変化した。

今、職場内の気の合うグループだけの飲み会はあっても、いわゆる職場に関係する全員が参加する宴会や職場旅行が余り人気が無いと聞いたことがある。楽しくやろうという目的だけならその通りだろう。だが、職場旅行の幹事をやって初めて、職場には色んな人がいて一緒に仕事をしているのだと実感し、その後私の人生にとても役立ったと思う。職場旅行の幹事は貴重な体験をする機会を与えてくれた。■
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理想の死に方

2015-03-25 21:50:29 | 日記
長男の嫁さんのお父さんが亡くなり、家内と娘と一緒に埼玉県上尾市で行われた葬儀に出席した。朝お母さんが仕事から戻ると彼はまだ布団の中で冷たくなっていたらしい。念の為、救急車を呼んだが死後2時間と言われたという。死因は急性間質性肺炎という悪性の病気だったらしい。

昨年末から兆候があったらしいが家族に詳しい病気の説明をしてなかったという。つまり家族にとっては突然の死だったらしい。彼は家族や周囲の誰にも負担をかけず静かに死んでいったということだ。それを聞いて私は理想の死に方だと思い、葬儀の参列者に漏らした。失礼かと思ったが、誰かが参列者の人達も皆そう言っていると言われた。

私の父が脳梗塞で倒れた時は1か月以上危篤状態が続き、母はその間ずっと病院に泊まり込み親戚や近所の人達に留守番などで助けて貰った。私は毎週末飛行機で東京と田舎を往復した。日曜夜に疲れて自宅に戻った寝入りばなを電話で起こされたことも何度かある。彼は誰にも迷惑をかけず逝った。

多分そのせいだと思うが、お母さんも嫁さんも涙が止まらなかったが肉体的に疲れた様子は感じられなかった。私はそれを見て少しホッとした。私がどういう死に方をするか全く予想がつかない。周りの人達を疲れ果てさせるような死に方はしたくないと思ってもどうなるものでもない。だが、是非とも彼のような死に方をしたいと思った。

享年74才というから長寿社会の今では長生きとは言えない。だが、現役を引いて暫く経っているので葬儀の参列者は思ったより少なく寂しく感じた。私も早期退職し10年以上経っている。仕事関係の友人知人とも疎遠になった。今死んだとしても葬儀に来ててくれる人はもっと少ないかも知れない。気にしないが。

いつもそうじゃないと駅までのタクシーの運転手は言ったが、昨日の上尾は晴天だったが風が強く肌寒かった。家族に迷惑をかけずポックリ行くのが理想の死に方だが、それだけでは不十分だ。順番を間違えてはいけない、私の場合は母より先に死ぬわけには行かないと思いながら帰途についた。■
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人生は冒険旅行!

2015-03-23 23:06:18 | 日記・エッセイ・コラム
朝の連ドラ「マッサン」は好評のうちに最終週を迎えるという。私も好きな番組で毎日楽しみに見ている。「人生は冒険旅行」というこのドラマのメインテーマが私にピッタリくるのだ。テレビのような大冒険旅行じゃないが、私なりの小冒険旅行をしたという思いがある。

主人公と違って田舎者の私は生来「臆病者」だと自認していたが、30を過ぎてただ一度の人生なら思い切って冒険してみようと徐々に考えるようになった。学生時代の夢だったコンピューター技術者になり10年後技術者から管理者になった頃、「やりたいことをやった、これからは仕事以外に限らず新しいことをやろう」と、何でも面白いと思ったことをやろうという気になった。最初に熱中したのは趣味で、バイク・バドミントン・登山で、週末になるとそのどれかをやった。仕事がうまく行かない時に憂さ晴らしになった。

バイクは地元のお祭りで50ccのバイクを買ったのがきっかけではまり、毎年排気量の大きい機種に買い替えた。単独行で週末は河口湖とか軽井沢等近場への日帰りツーリング、長く休みが取れる時は四国の実家まで往復したこともある。バドミントンは職場の同僚に誘われ昼休みのレクリエーションから始め、クラブに加入してコーチを受けローカルな大会に参加するようになった。Cクラスから始め数年かかけて世田谷区のAクラスまで上った。

会社で管理職になると技術者として生きていける道は限られ、入社当時は考えもしなかった分野の仕事をこなすことが求められた。資材調達交渉や商品計画などの未経験分野で仕事をし、海外向け商品で現地法人との交渉することもあった。やってみると若い時絶対と思っていた技術開発じゃなくても面白かった。そこそこの仕事ぶりが評価されたのか、遂には20日に投稿したように米国で現地生産の責任者を打診され受けた。自分が適任かどうかやって行けるか等グズグズ考えなかった。

その時は「マッサン」と同じく「人生は冒険旅行」であり、こんな機会は滅多にないと考えた。私の前に米国赴任を打診された先輩の生産のプロは子供の教育を理由に断ったと聞いた。実はそこに私の問題があった。私が素人ということではなく、3人の子供がいたのに冒険の機会を躊躇せず受け入れた。最初から単身赴任を覚悟したが、要は身勝手な親だった。悩みもしなかった。良く言えば子供の教育は家内に何とかしてくれると思った。

米国赴任後の生活も冒険旅行の精神でやりたい放題だった。地元のバドミントンクラブに単独で乗り込んで入会を申込み、積極的に各地のローカル大会に参加し州の協会長の知己を得た。(実は私を送り出した上司も趣味が出来る場所を見つけるか気にしてたと聞き感激したものだ。)同じ頃仕事の為にと勧められたマッサージにもはまった。現地の不動産屋さんに紹介されたブルックリン生まれのシングルマザーのセラピストと懇意になった。彼女のお蔭で疲労回復だけでなく、米国生活のコツを教わり英会話の練習や情報収集に役立った。

その後引っ越しして電話帳(イエローブック)をひいて、危険だから行くなと言われた地区に住むセラピストの家でマッサージを受けたこともある。更に加州に引っ越して後も同じ経験をした。マッサージは止められなくなり仕事やレジャーで海外旅行をする度にその土地毎に異なるマッサージを受けた。詳しくは10年前に「世界マッサージ紀行」と題してその頃の経験を記事にして投稿したので興味のある方はご覧になって下さい。

実は私の人生最大の冒険は会社を退職後3年余り経ってに投資を開始し、退職金の相当部分を金融資産に注ぎ込んだ。正直言うと最初はそれ程冒険をしたという意識はなかった。意識があろうとなかろうと、リーマンショックでその大半の価値を失った時は大ショックだった。賭け事はしないとか言いながら、競馬や競輪の損失とは2桁くらい違う大損だった。「人生は冒険旅行」とかいって済まなかった。だが、幸運にも取り戻せた。

元々私は子供の頃から用心深い性格で冒険など絶対にしない臆病者だった。上記の様に30を過ぎて仕事を通じて徐々に社会観が変わった。だが、冒険が失敗しても最悪ケースに備える用心深さがあったと思う。金融資産が半減した時も家族が生活できる程度の年金は貰っていた。「無鉄砲な冒険旅行」ではなかった。

実は私の子供達も非常に「用心深い臆病」な性格であり、孫もその性格を受け継いでいると長男は言うから、用心深さは遺伝するみたいだ。その意味では私は「用心深い冒険者」だった。一方で問題なのはマッサンと違って私は「自分勝手な冒険者」だった。冒険旅行のお蔭で家族は何度も内外に旅行し、美味しいものを食べ、教育の機会等と色々な経験をしたと思う。だが、彼等に感謝された記憶はない。ガン疑惑等で体調を崩した時に心配の声も聞かなかった。私は身勝手なお父さんだった。私は「人生は冒険旅行」に満足しているが、身勝手な冒険旅行の後味はちょっとホロ苦さがある。■
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人生の転機20周年

2015-03-20 19:06:05 | ニュース
その日は本社の会議に出席する為、いつもより早く起きて都心に向かう電車に乗っていた。異変に気が付いたのは調布を過ぎた頃ラジオで聞いたニュース速報だった。地下鉄霞が関駅で沢山の人が倒れていると緊急ニュースが繰り返し流れていた。その頃はまだサリンガスが原因だとは分かってなかった。

私は神保町で千代田線に乗り換え田町に向かった。事件の核心に向かっているのは分かっていたが、殺人ガスの存在など知り様もなく電車は何事もなかったように大手町を通り過ぎて行き危地を脱した。会議中は誰も話題にすることはなく、会議が終り昼食頃になって大事件が起こったのを知った。何も気付かないまま事件現場をやり過ごしたと知った。

多数の乗客や駅職員を死傷させたのはサリンガスで、オウム真理教の犯行だと分かったのはずっと後になってからだった。私は事件現場をニアミスしたのに、後年になって思い出しても恐怖感も何も殆ど感じなかった。マスコミが20周年と報じても未だに文字通り他人事のように感じた。

というのも、この年は私の人生の転機を迎えた年でもあったからだ。前年から円高が進行し、私の勤める会社は米国ワシントン州の倉庫を工場に転換し生産する決定をした。私は上司からその工場に赴任を打診された。技術者上がりで海外向け製品のマーケティング責任者で生産の素人だったが、私はたった一度の自分の人生だ、何でも経験してみたいと思いきって引受けた。中学から大学まで子供がいたのに家族に相談もしなかった。

私は事件後1か月余りで米国に向かいワシントン州の小さな町ファイフの工場に赴任した。それから米国の片田舎町の誰も知らない小さな工場で慣れない仕事の悪戦苦闘が始まった。家族はほったらかしだった。オウム真理教のサリン事件というと、同時に私はワシントン州の片田舎を思い出す。人生の転機となった年だった。■
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