田舎に来て新聞とCATV無しの生活を半月過した。今、極端な意見に傾きがちな自分を感じている。外出自粛で会話する人が限られ、テレビ漬け生活を過したせいかもと疑っている。天邪鬼な私が言訳をすると、原因はコロナ報道を連日見て考え方が少し狭まり偏って来た気がする。
東京にいた時読んでいた日本経済新聞は、2面以降にヘッドラインのサイド情報とか反論を読み、多様なものの見方に触れ視野を広げることが出来た。極端に言えば哲学よりお金で判断基準が簡単だ。一方で、田舎でのこの半月間は地デジ放送を見る限り全く毛色の違っていた。朝夕のニュースバラエティ番組で素人が生半可な感想を延々と見続けうんざりした(全てではなかった)。
特にコロナ報道では素人のコメディアンとかタレントが、専門知識不足で具体的なデータに基づかない個人的感想(多分テレビ局に吹き込まれた)を繰り返し聞かされうんざりした。異なる意見の専門家に議論させ、素人の疑問や意見を挿み視聴者に考えさせるようなスタイルが本来あるべき姿だと思う。最近では都合が悪いと偽ニュースと決めつける某大統領もいるが。
私には忘れられないエピソードがある。ベトナム戦争時にNYタイムズの名物記者が問題を指摘する記事を3面に載せ、NYタイムズは戦争に反対したと言い訳をした、だがそれでは反戦のメッセージは伝わらなかったと記者は後年反省の弁を述べた。最も大事なことを明確にして伝えることがいかに大事か、コロナ報道を見ると時々このエピソードを思い出させる。
言い訳に戻ると、こんな番組を見るたびに私は一人で反発した。コロナ対策は一貫して人命重視、換言すると死者を減らすことだった。その為には医療崩壊を防ぐ、更にその為には感染のオーバーシュートを遅らせ、緩やかに増える感染者を限られた医療システムで対応、という専門家が提案したシナリオに沿って始まり、その時々の状況変化に沿って対応が変化していった。
その次のステップはコロナ感染を終わらせる為、人と人の社会的距離をとり感染を防ぐという凡そ原始的な対策をとった。治療薬がなく打つ手は限られていた。それが我国最高の専門家が考え、政治が緊急事態宣言した対策で、現在はその効果が徐々に出始めたという状態だ。だが、上手く行き始めると報道の優先度が変わったかのように、個別対策の問題に時間をかけ他国と評価するようになった。元々の人命重視の対策が機能しているかが後回しで報じられイラついた。
基本シナリオを十分理解せず日々の出来事にバタバタと反応し、感染者数も死者数も桁違いに多い海外の対応策を称賛するか如き報道を続ける連中の姿を毎日見るのは辛かった。このシナリオを実行する過程で不幸な犠牲者が出るが、我が国はその犠牲者が遥かに少ない。検査数が少ないといって今までの報告を否定できない、最低でも統計学的に根拠ある数字で議論すべきだ(実はそういうレポートも紹介され始めた)。素人の数学的バックグランドでは理解は難しいかもしれないが。
タレントの感想を毎日聞かされてイライラし、しかもそれに代わる情報がネットに限られる半月だった。実際にはネット情報はもっと酷く、更に極端な自己主張が散見されて参考にならなかった。結果的に天邪鬼な私は一部ニュースバラエティ番組の極端な主張とは逆の意見に傾いて来たと感じる。報道には適切な指摘や提案もあるが、私も偏見があったと感じた時がある。ホント情けない劣化だ。
最近の特にデジタル世代の人達は新聞を読まなくなった、主たる情報源はインターネットと聞く。世界的な傾向だ。私の子供達も新聞はあまり見ていないようだ。彼等はどう情報を入手しどう判断しているのだろうか気になる。米国では人々は活字離れから更に進んでテレビ離れが進んでいるという。彼等は見たいニュースだけを見、意見を交換せず対立して分断が進んだ。塩野さんが指摘した「人は聞きたいことのみ聞く」という人間の性(さが)だが、我々が絶対に避けたい道だ。
脱線したが、新聞レスと偏りテレビでも何とか大局観を失わないでいます。気に入らないテレビニュースを見るよう努めてます。日本は米国みたいに分断して欲しくない。報道を公平に評価する第三者組織が欲しい。この先も事態は変化し重大な局面を迎えると思う。一方、いつかコロナは終わる。東日本大震災や西日本豪雨の時でも責任追及から復興を評価する報道で人々は前向きになれた。コロナ後の世界は、復興より別の新世界に向かう競争になる。新世界で働く子供達を後押したい。
【言い訳】書き出しとは違う結びになりました。申し訳ありません。新聞購読を止めたらテレビの影響(正しくは反発)が増えたという訳です。
東京にいた時読んでいた日本経済新聞は、2面以降にヘッドラインのサイド情報とか反論を読み、多様なものの見方に触れ視野を広げることが出来た。極端に言えば哲学よりお金で判断基準が簡単だ。一方で、田舎でのこの半月間は地デジ放送を見る限り全く毛色の違っていた。朝夕のニュースバラエティ番組で素人が生半可な感想を延々と見続けうんざりした(全てではなかった)。
特にコロナ報道では素人のコメディアンとかタレントが、専門知識不足で具体的なデータに基づかない個人的感想(多分テレビ局に吹き込まれた)を繰り返し聞かされうんざりした。異なる意見の専門家に議論させ、素人の疑問や意見を挿み視聴者に考えさせるようなスタイルが本来あるべき姿だと思う。最近では都合が悪いと偽ニュースと決めつける某大統領もいるが。
私には忘れられないエピソードがある。ベトナム戦争時にNYタイムズの名物記者が問題を指摘する記事を3面に載せ、NYタイムズは戦争に反対したと言い訳をした、だがそれでは反戦のメッセージは伝わらなかったと記者は後年反省の弁を述べた。最も大事なことを明確にして伝えることがいかに大事か、コロナ報道を見ると時々このエピソードを思い出させる。
言い訳に戻ると、こんな番組を見るたびに私は一人で反発した。コロナ対策は一貫して人命重視、換言すると死者を減らすことだった。その為には医療崩壊を防ぐ、更にその為には感染のオーバーシュートを遅らせ、緩やかに増える感染者を限られた医療システムで対応、という専門家が提案したシナリオに沿って始まり、その時々の状況変化に沿って対応が変化していった。
その次のステップはコロナ感染を終わらせる為、人と人の社会的距離をとり感染を防ぐという凡そ原始的な対策をとった。治療薬がなく打つ手は限られていた。それが我国最高の専門家が考え、政治が緊急事態宣言した対策で、現在はその効果が徐々に出始めたという状態だ。だが、上手く行き始めると報道の優先度が変わったかのように、個別対策の問題に時間をかけ他国と評価するようになった。元々の人命重視の対策が機能しているかが後回しで報じられイラついた。
基本シナリオを十分理解せず日々の出来事にバタバタと反応し、感染者数も死者数も桁違いに多い海外の対応策を称賛するか如き報道を続ける連中の姿を毎日見るのは辛かった。このシナリオを実行する過程で不幸な犠牲者が出るが、我が国はその犠牲者が遥かに少ない。検査数が少ないといって今までの報告を否定できない、最低でも統計学的に根拠ある数字で議論すべきだ(実はそういうレポートも紹介され始めた)。素人の数学的バックグランドでは理解は難しいかもしれないが。
タレントの感想を毎日聞かされてイライラし、しかもそれに代わる情報がネットに限られる半月だった。実際にはネット情報はもっと酷く、更に極端な自己主張が散見されて参考にならなかった。結果的に天邪鬼な私は一部ニュースバラエティ番組の極端な主張とは逆の意見に傾いて来たと感じる。報道には適切な指摘や提案もあるが、私も偏見があったと感じた時がある。ホント情けない劣化だ。
最近の特にデジタル世代の人達は新聞を読まなくなった、主たる情報源はインターネットと聞く。世界的な傾向だ。私の子供達も新聞はあまり見ていないようだ。彼等はどう情報を入手しどう判断しているのだろうか気になる。米国では人々は活字離れから更に進んでテレビ離れが進んでいるという。彼等は見たいニュースだけを見、意見を交換せず対立して分断が進んだ。塩野さんが指摘した「人は聞きたいことのみ聞く」という人間の性(さが)だが、我々が絶対に避けたい道だ。
脱線したが、新聞レスと偏りテレビでも何とか大局観を失わないでいます。気に入らないテレビニュースを見るよう努めてます。日本は米国みたいに分断して欲しくない。報道を公平に評価する第三者組織が欲しい。この先も事態は変化し重大な局面を迎えると思う。一方、いつかコロナは終わる。東日本大震災や西日本豪雨の時でも責任追及から復興を評価する報道で人々は前向きになれた。コロナ後の世界は、復興より別の新世界に向かう競争になる。新世界で働く子供達を後押したい。
【言い訳】書き出しとは違う結びになりました。申し訳ありません。新聞購読を止めたらテレビの影響(正しくは反発)が増えたという訳です。