かぶれの世界(新)

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祝アジアカップ優勝

2011-01-30 23:21:37 | スポーツ

ジャパンの劇的な勝利を見て寝たのは今朝3時半頃だったのに、何時ものように6時過ぎにはもう目が覚めた。年のせいだ。朝からアジアカップの勝利を伝えるテレビ番組を何度も見た。ザック監督の手腕を高く評価する声が多い。聞けば成る程と思うことが多い。だが、勝てば官軍。良い事しか聞かれなくなって、次の失敗の原因になる。

シリア戦を除いて全て中継を見てジャパンの勝利に興奮した。今、冷静になって私なりの個人的な印象を紹介したい。テレビ解説者の意見が刷り込まれたところが多分あると思うが。

1)日本のゲームは汚いプレイの無いフェアなゲームだった。寧ろ日本選手の手を使うファールが気になった。国内リーグで手を出すプレイにもっと厳しい審判をして習慣付けた方がいいと思う。実際、決勝戦ではゴール前の不用意なファールを意識して減らし、危険なセットプレイを豪州に与えないよう気をつけたという。やれば出来るのではないだろうか。

2)最後まで選手とチームのスタミナが続くようになったと思う。南アのW杯でも感じたのだが、今大会の韓国戦と豪州戦で延長戦を戦い抜いて更にその思いを強くした。W杯では前線の選手が無駄走りするような防御(フォアチェック)をセーブしたのが良くなった原因と推測した。今回は更にスタミナが長く続いたような気がする。その理由は攻める気持ちを持ち続けた為と推測する。かつて弱気になって引くと守りきれないことが良くあった。専門家の意見を聞きたい。

3)これに関連して指摘されているように精神的な強さを感じた。先制されても慌てず追いつき、リードしても後半の猛攻に耐え切る強さを感じた。想像するに、強さの源泉はリーダーとなる選手の精神的強さ(特に欧州でもまれた選手の)、それに引っ張られて選手全体に自信をつけた、加えて監督の的確な指示などがあげられる。

4)不測に事態に対応できる組織としての柔軟性があった。チームがゲーム毎に成長、試合中でも状況の変化に対応して行った。今回最初から守備が弱いと予想され、実際予選リーグから思わぬ失点があったが、決勝では豪州を完封した。退場者が出てリードされても逆転した。ポイントゲッターの香川が怪我で出られなくなっても「戦いのパターン」が機能した。

2、3項については今後専門家の詳細な評価が出て来るはずなので、こういう考えがあるのか注目してみたい。4項目目は、もし本当にそういうことが起こったのなら、組織論としてビジネスでも参考になるかもしれない。今まで欧州リーグで活躍する個人の力があれば日本サッカーはもっと強くなると思っていたので凄く興味のある結果だ。これも監督の手腕なのだろう。スポーツ以外の専門家の目を通して分析してみると、共通する何か面白い結果が出て来るかもしれない。■

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国債格下げの意味

2011-01-29 17:32:23 | 国際・政治

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&P(スタンダード・アンド・プアーズ)が27日日本国債の信用格付けをAAからAA-に引き下げたと報じられた。分かり易く言うと、もうワンランク引き下げられると国債を買うのはギャンブル(投機)と同じと見做されるところまで来た。その理由は、GDPの2倍という異常な財政赤字を現在の政治状況は対応できず、経済も低成長が続くからと説明されたという。

これを受けて発表直後に為替市場は円安が進んだが、今朝方は1ドル82円にまで一気に値を戻し、引き下げ前の水準に戻した。予想されたことではあるが、日本国債の9割以上はS&Pの格付けなど気にしない国内で消費されるので、「当座」の市場への影響は無かった。

市場の反響は極めて予想通りだったが、国債格付け引き下げが伝えようとしている重要なメッセージは政府や国民には到達しなかったように感じる。日本の財政赤字に対して欧米の見る目は我々が考えるより厳しく緊急度が高いことを、もっと真摯に受け取るべきだと私は思う。

界の反響は、しかし、残念ながら極めて近視眼的で短絡的なものだったと思う。折から通常国会が召集され施政方針演説と野党党首の代表質問が戦わされていた時だった。しかし、自公など野党の主張はマニフェストの訂正、首相退陣と解散総選挙を繰り返すだけだった。

S&Pの格付け引き下げ発表に関しては、首相コメントの揚げ足取りだけとは、まさに政治の貧困さを象徴するニュースだった。野党が野党なら、民主党も小沢派・反小沢派の抗争では声高に喚いた議員諸君の発言は全く報じられなかった。君らの仕事は一体何だという気分になった。

国債格付け引き下げのメッセージは、単に政府に対する警告ではないと私は考える。深刻な財政赤字という国難をどう解決して行くか、「日本の政治システム」のトータルな能力が問われていると。つまり、日本の議会制度の下で政府と与野党がどのように解決策を見つけ対応していくか、だ。

大方のメディアは菅内閣の力とか首相のリーダーシップに対する問いかけで終っているが、その中で日本の政治システムに対する疑問符(日本経済新聞1/28)と捉えているのは正しい。しかし、社会保障と税制の一体的見直しというと、増税路線と言い換えて報じるのも彼らであり国民は迷走する。私は「政治システム」の中にはメディアと国民を含み、我々の責任の重さも強調したい。

政赤字問題は国民が痛みを乗り越えていくしか解はない。年々増加する社会保障は誰もが認識する問題となったが、社会保障の充実を求める一方で負担は絶対反対する。企業の払う税金で補助を受けてきた農業は、世界と戦う企業の競争力を高めるのは反対する。

利害が相反しても国家の重要政策を最早先送りできない。唯一の解決策は超党派的な取り組みしかない(田原総一郎1/27日経BP)と私も思う。S&Pからのメッセージは、「超党派の財政赤字対策をさっさとやれ、そうするようにメディアと国民は強い圧力をかけよ」と私は解釈する。

格下げされたのは、「どうせ日本は出来ないだろう、そんな解決能力はないという疑い」を表現したものだ。昔から日本は黒船とか戦争に負けた時しか改革できなかった。国債が焦付き破綻すれば、論理的には年金など社会保障は大幅削減、議員や公務員も減らせる。急激な円安が進み輸出産業の競争力が高まり、アジア危機後の韓国の様に改革が進み急回復できるかも。悪くない。

だが、それはどうも安易な考え方のようだ。K. Benner(CNN 1/27)の記事によれば誰も日本を救済できないという。世界同時信用危機で米国の大銀行は「大きくて潰せない」かったが、日本も大きくて潰せないという。80年代末のバブル破裂と同じように、日本の財政問題も欧米先進国の他山の石になると注目されているという。というか反面教師になるのかも。■

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責任野党は責任を果せるか

2011-01-25 21:45:38 | 国際・政治

常国会が始まった昨日の主要新聞5紙、朝日・読売・日経・産経・毎日の社説を読み比べてみた。というのは、テレビで報じられた野党、特に自民党の動きが気になったからだ。テレビに登場する谷垣総裁や議員の発言が、予算や国の将来を決める重要政策をまともに審議する意欲のない対決姿勢であり、私から見ると無批判に流れていたからだ。

我国では依然としてテレビ報道の世論を形成する力が最も強い。だからこそ新聞はもっとしっかり筋を通して国を誤まらせない報道をして欲しいと思いながら、ネットで各社の社説を読んだ。産経を除き濃淡の差はあっても各紙とも自民党に対案を示して建設的な政策論議すべきで、政策論議より早期解散を目指す動きに自制を求めていた。特に第一野党として自民党の責任は重いと。

異色だったのは産経で、領土問題を重要運動方針とした自民党大会を高く評価する社説だった。領土問題は重要だが、通常国会が始まったこの時期にわざわざ社説で主張するテーマとしては酷くピントがボケているように感じた。普段から独自の立場で正論を吐く産経だが、一体どうしたのだろうという印象を受けた。確かに独自路線には違いないが。

要新聞各紙が真摯な国会審議を求め、野党も重い責任を共有するという主張は心強く感じた。ところが、今朝の朝日・日経の紙面を広げると、社説より広い紙面に大きな活字で報じた記事は目立った。政策よりも与党内外の政局がらみの永田町の動向を伝えるものだった。社説では見識を示し、一方で読者のレベルに合わせてバランスを取ったのだろうか。

現在の野党の力の源泉は参院の多数を握っていることだ。だが、1票の格差が5倍以上にある参院は違憲状態にあることは判例を待つまでも無い。違憲状態にある議会の決定で大臣を罷免し、国会審議を麻痺させるのを許してはいけないと私は考える。

だが、それを伝えるメディア、特に政治家に張り付いて記事を書くいわゆる番記者が、数を頼りに政局を左右する姿を無批判に伝えているように感じ、政治のあるべき姿を歪め感心できない。人間だから感情があってしかるべきだが、それが政策を決定付けてしまうようでは自らを貶めることになる。何時までたっても進歩が無い。

一方テレビニュース(バラエティ)番組では、昨日はエリカ様の騒動と政治評論家先生達の政局解説が二大メインテーマ、今日は英語教師殺人犯の逃亡記の紹介がメインだった。テレビに見識を求めるのは無理だとしても、チョット情けない。小泉政権のあと、改革を口実にしたポピュリズムが蔓延って政治の劣化が進み、真摯な論議が影を潜めた。救いは、政治家に近い評論家先生たちより畑違いの知識人が数は少ないが今回もまともな発言をしていることだ。

果たして民意は誰の声を聞くだろうか。「大胆占い」で予測したように私は期待してない。しかし、今回社説が一致して野党の責任を指摘した。又、政策に関係無い理由で国会審議を拒否する姿勢が、国民の支持を失うと恐れる「正気」が自民党の一部に残っているようだ。彼らの心の中の声に私の微かな期待がある。■

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万引き高齢者急増

2011-01-24 21:29:50 | ニュース

先日、近くのスーパーに行った時、買物は2‐3種の商品だったので店備え付けの籠を使わないで、エコバックに入れて店内を歩いていると店員に見咎められ、買い物籠を使えと言われた。意外に強い口調が詰問調だったので、万引きかもしれないと疑われたと思った。

「僕はそんなんじゃないから、心配することないよ」と、とっさに答えた。店員に言い難いことを言わせてしまったと後味の悪い思いをした。私の身なりも疑いの原因だった。よれよれのフリースのジャンパーにだぶだぶのトレーニングパンツ姿の私を見て、もしやと思ったのだろう。外出する時だけでももう少しマシな服を着てくれと、家内から普段きつく言われていたのだが。

今朝方ラジオを聴きながら何時ものように洗濯物を干していると、気になるニュースが流れてきた。都内で高齢者の万引きが増え全体の3割になるらしい。番組では100円ショップでの万引きを伝えていたから、単純に貧困による生活苦が原因でもないらしい。背景に何があるのだろうか。

それではと、何時ものように検索エンジンを使って調べると、高齢者の万引きはこの10年くらいの全国的な傾向だという。万引きは子供や中年女性が多いという思い込みは誤りだったようだ。

何故高齢者の万引きが増えているのか。中でも65-69歳の年齢帯にいる人達の犯罪が突出して増えている。「高齢者になって数年の60代後半の人達の犯罪が急増している、それも万引きだけでなく犯罪全般にわたっている」というのが私が見た万引き高齢者急増の全体像だ。

ネットで調べた限りでは、まだ社会全体の問題として十分認識されているとはいえず、データを収集して異常を見つけた程度だ。個別ケースを分析し総合的に具体的な対策を実行するところまでいってないようだ。しかし、刑務所は介護を受ける高齢者が増えるなど、意外なところで問題が表面化してきそうだ。

老人が社会から孤立しているところに万引きの原因を求める説があるようだ。だが、以前記事を書いたように「キレやすい老人」は万引きだけでなく、もっと凶悪な犯罪件数も増えていると伝えられており、広範でもう少し突っ込んだ調査が必要だと感じる。来るべき高齢社会の未来かも。■

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死に場所の自由

2011-01-22 16:36:10 | 日記・エッセイ・コラム

母の容態が悪化しもう長くはないかもしれないと田舎から家内に電話があった。いざという時に備えておけというアラームだろう。彼女が寝たきりになり入院した時想像したよりずっと長生きしてきたと思うが、そろそろ寿命が来たのかもしれない。

昨年見舞った時も彼女は意識がしっかりしており現実を受け入れていたと思う。だが、私の母は入院に対し激しい抵抗を示した。自分の病状はそれ程悪くない、家に戻ってやることが山ほどあると。無理やり施設に入居させた私を、それ以降母は受け入れてくれなくなった。

実母は子供たちから遠く離れた田舎で住み、この数年で体の劣化より精神の劣化が先行して、最後まで自分の希望が叶わない不幸な晩年を過すことになりそうで不憫でしょうがない。同時に、死に場所を自由に選べないのは多分母だけじゃないとも感じるが。

体が弱っていき人生の終末をどこで迎えるか、自分の死に場所を自ら決められる人は意外と少ないと思う。もっと広く考えると死に方の選択だ。母が元気な時に聞ければ少しでも希望に応えたいと努力したかもしれない。だが、母親に聞ける話ではないし、思いつかなかった。

昨年11月初め頃だったと思うが、CNNの興味ある記事をまだ記憶している。年に一度家族が集まる時期に(米国の場合は感謝祭で日本だと盆か正月だろう)、万が一死に至る病気になった時どうしたいか、元気なうちに話し合うことを勧める内容だった。

療を全て尽くした後延命治療をして欲しいのか、痛み止めはするにしても治療を中止して自然に死んでいく道(ホスピス)を選ぶか、それは病院か若しくは自宅がいいのか。予め話し合っておけば、万が一の時残された人達は希望に沿うよう努力してくれ、より幸せな最後を迎えられるといった内容だったと記憶している。

そうすれば残された人にとっても気が休まる。私は母とそんな話をしなかった。思い出せばそうすべき時はあったが、私は鈍感だった。自宅介護から始めて老人ホーム入居まで母に良かれと思って今までやってきたが、それは彼女が望んでいたことではないと思い時折辛い気持ちになった。

何時かはわからないが母の葬式は実家のある土地の習慣に従う積りだ。葬式が普通に出来るくらいの生命保険に加入している。それ程特別なことをして欲しいと願っていないと思う。我家は男が早死にする家系、二代続けて母親が息子の葬式をした家系だ。息子が母の葬式をどうするか考えるのは明治以降初めてのことになるだろう。

それじゃ私の死に場所と葬儀はどうして欲しいか、次に家族が集まる時までに考えておこう。今のところこう考える。運よく正気でいて迷惑をかけないなら自宅で家族に囲まれて死にたい。チューブだらけの延命治療は不要。死に方は私の問題、葬式は残された人の問題だ。

最後に死んだら家族葬で済ませ、残された家族は休暇をとって私の住んだ田舎や米国の家を旅行して私を感じて欲しい。骨は実家のお墓と旅先で撒いて欲しい。旅行の費用は生命保険で十分足りる、豪華なホテルに泊まり美味しいものを食べてゆっくりやって欲しい。■

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