かぶれの世界(新)

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安倍首相の7年8カ月

2020-08-30 15:42:11 | ニュース
安倍首相は28日記者会見で退陣の意向を示し、7年8カ月の日本最高位の職歴を終えることになった。私が見る限りメディアの評価は毀誉褒貶相半ば、つまりマチマチだったと思う。概して私が普段マスコミ批判するように概して目線が低く近視眼的な評価が多かったと思う。その傾向が強いTBSのサンデーモーニングを見たが、今朝は比較的バランスの取れた発言が多かったのは救いだ。

内閣の起点をどこに置くかで安倍首相の評価は変わる。私のように民主党政権時代の「どん底」からスタートしたら、誰でもそれより悪くはならないかも知れない。その頃は二度と民主党に政権を取って欲しくないと思っていた。一応その議論は置いといて、天邪鬼な私としては安倍政権の7年8カ月、特に前政権がばら撒いたゴミを清掃した前半の4年間をより高く評価する。

安倍政権をトータルで見ても悪くない。第2次安倍政権が始まる直前の日本は二つの危機に襲われ下手をすると2流国からさえ滑り落ちる危機にあった。東日本大震災による経済危機と、日米・日中関係悪化による安全保障の危機だ。民主党政権の未熟な対応で手痛いダメージを受けた経済と安全保障は、大胆な金融政策と日米関係を軸とする外交戦略で立て直したと高く評価する。

トランプ大統領との良好な関係が指摘されるが、傷ついた日米関係を修復し環太平洋経済連携協定(TPP)の発効にこぎつけ、両国のトップが戦争の傷跡が残る広島とハワイを訪問したのはオバマ大統領時代だ。トランプ大統領下で米国が離脱後、残る11か国でTPPを発効させた日本のリーダーシップは他の誰もが成しえなかった成果で素晴らしかった。この頃の安倍政権は破竹の勢いだった。

私から見ると後半の安倍政権は前半で築いたレガシーを生かせず確たる成果を出せなかった。少子高齢化の下で社会保障の財源を作るための消費税増税には漕ぎ着けたのが精一杯だった。社会保障も安全保障も自助努力無くして成立しないと理解が進んだ。憲法改正や中露・北朝鮮との関係修復は道半ばだった。ただ、誰がやっても結果が出せたか、むしろ悪化させた恐れもあると考える。

森友・加計・桜を最初に出して首相の評価をするマスコミや評論家を見かけたが、彼らは国の運営にとって何が重要か全く分かってないと私は思う。長期政権に取り入って私腹を肥やそうとする官民の輩がいるのは恥かしいことだし、首相に責任の一端を問うのは間違いではない。だが、それだけで一国の宰相の評価とするのは小人のすることだ、国の舵取りをする船長の評価の物差しに使うようでは国を亡ぼす行為だ。

多分、私の評価は諸外国の安倍首相評価の高さと似ているだろう。彼らの評価はより客観的で、国のトップとして何が大事か高い視線で物事を見た結果であると考える。安倍首相が国際社会で何をやり何が出来なかったか、冷静な評価をしているはずだ。安倍首相の7年8カ月の任期は日本の国際政治における影響力を高めたのは間違いない。批判するマスコミも評論家の誰もそれ程の国際評価を得ていない恥ずかしい現象だ。

これだけ諸外国のトップと日本のマスコミとの間に評価の差があるもう一つに理由は、度々指摘するように毎日接触し細部を追及するうちに目線が下がり大局を見失ったせいだと思う。確かに、海外のトップにとって森友・加計・桜の重要度は低い。民主主義システムの危機につながるベルラーシのような共通問題ではない。それでさえ自国問題とのかかわりによって各国に対応に温度差がある。つまりそんなものかもしれない。■
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やりすぎポンコツジーサン

2020-08-29 16:29:18 | 日記・エッセイ・コラム
先週バドミントン練習で腰を痛めた時は、しばらく無理をしないでおこうと思った。クラブで声をかけられ完治するまで無理をしない積りだった。だが、昨日投稿したように散歩だったら良いだろうと思い、歩き始めると「いける」と感じ、その繰り返しで終いに「ガンガン」歩いた。

それでも腰痛は悪化しなかったので、バドミントン練習の再開に備えて昨日素振りとフットワークをやり小一時間歩いた。シャワーを浴びて居間の座卓に座った時、再び腰に強い違和感があった。「やり過ぎた」と思ったが後の祭り、昨夜は寝返りを打つたびに痛みがでてよく眠れなかった。一晩寝て大人しくしていれば何とかなると思ったが今朝も腰痛が続いた。

この歳になってどうして馬鹿みたいなことを繰り返すのか。70過ぎの高齢者が一旦失った体力を回復するのは無理との恐れが馬鹿をさせたと思う。実際、腰は痛いけどそれ以外の部分は正常、だったら正常な部分を動かそうと運動を始め、痛みを感じないところまで少しずつ可動部分を広げた。

そう考えながら強度を上げてエクササイズを続け、気が付くとやり過ぎて痛みが出た。この悪循環を避けるにはどうすればいいのか。初めてのことではない、何度も経験したのに繰り返す。今朝もテレビ体操をやってみたら「ほぼ全て」実行できた。

だが、今回それ以上は踏みとどまった。こんなに「ポンコツジーサン」シリーズを続けるとは思わなかった。何のことはない私の性分というか資質を露わにしているだけだ。多分、直せない。■
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田舎暮らし雑感2020(10)

2020-08-28 16:14:10 | 日記・エッセイ・コラム
私の田舎暮らしの食事の基本ルールは(1)生存(2)コスパ(2)時短だ。つまり、生きて行く為に安く手軽に作れる最低限の食事だ。美味しいかどうか味の優先度は低い。しかも私は性格的に徹底追及する問題がある。目標を立てそれ以外は犠牲にしてでも徹底的に追及してゆく。

典型例は夕食用の味噌汁のユニークな作り方。一口大に切ったイモ・ニンジン・カボチャを冷凍して使う。昼食後に鶏肉と豆腐に昆布を追加して温め、最後に出汁入り味噌を加え火を切って放置する。夕方温め直して食べる。出汁が行き渡って美味しいと家内に教わった。だが、私がやると毎度安定してマズイ。

同じ手数なら美味しい方がいいに決まっている。コスパ改善の目的で使っていた鶏肉を、最近本来の豚肉に戻し旨味も戻った。豚肉は多少高いがこの程度で味が良くなるならいい。鶏肉でも美味しくなる料理法があるかもしれないが、時間をかけて調べる気もない。

冷凍食がお店並みに美味しいと家内に教わり、最近では週1-2回はパスタ等の麺類とか餃子など冷凍品を頂いている。だが、失敗例もある。ハンバーグ等は纏めて業務用を買う。以前業務用の冷凍サバを買ってその臭さに辟易したことがある。今回は8個380円のキューイを買ったら酷い味、食べたくないが「基本ルール」に合致しているので食べない訳には行かない。まだ、5個残っている。

徹底追及する「やりすぎ」性格は家族がいない田舎生活で発揮される。何をやっても文句を言われないのでついついやり過ぎるのだ。

先週バドミントン練習で腰を痛めて以来、代わりに「寺巡り」で始まった故郷の「未踏の地」を歩き倒している。3日前に自宅から肱川の下流に歩き、五郎を過ぎ春賀で橋を渡り戻る、途中五郎駅の対岸の小高い洒落た住宅地に立ち寄った。約2万歩、2駅の距離なのに坂を上る時ふくらはぎがつった。自慢すると、今年の春も高尾陣馬縦走往復の約5万歩30km歩けた足なんだけどな。

翌日は実家から2km離れた中学校の裏山にある神社に行った。途中参道前の集落で聞いたお年寄りは神社があると知らず、逆に若い娘が道を教えてくれた。それだけで最近は参拝する人がないと思った。かつての舗装道を登るレアな体験をした。舗装道路の先に小さな神社が今にも壊れてそうにたたずみ、石柱や石灯ろうのみ健在だった。万歩計を見ると15千歩だが山歩きは思ったより厳しかった。

山道から高い目線で故郷を見ると、山影のあちこちに見たこともない集落を見つけた。どういう人が住んでいるのか、空き家かも知れない、その周りの田畑が放棄されているかも、どうなっているのか気になる。だが、どうやってそこに辿り着くのか道がわからない。Googleマップではわからない。後2-3か月故郷にいるので機会があればトライしてみたい。

実家の修理を建設会社にお願いして完了したはずだったが、裏側の1回の雨樋の修理漏れがあった。今週月曜日に大工さんが来て素早く修理してくれた。たわんでいた雨樋を水平に補強し、落ち葉で詰まっていた縦の樋を掃除してくれ、雨で腐っていた柱を補強してくれた。短時間で仕上げる職人技に感心した。営業や大工さんと懇意になり、又お世話になる関係を築けたと思う。■
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私の「戦後」体験記

2020-08-27 11:36:52 | 日記・エッセイ・コラム
8月15日の終戦記念日と前後してNHKの特集番組で興味ある幾つか戦争体験記を見た。日本は何故負ける戦争をしたかは、若い頃の仕事以外の最大のテーマだった。主として大人の責任を追及する若者の気持ちだった。20代は昭和史から始めて当時話題になった有名な戦記物を読み尽くした。神田の古本屋通いをして日本が何故戦争をしたか、戦争をどう戦ったか関連する本を探した。

私は昭和22年生まれ、戦争直後に生まれたいわゆる団塊世代なので、戦争時代を体験してないし責任もない。物心ついたのは日本の景気回復のきっかけとなった朝鮮戦争が終わり、世の中が落ち着いた頃だ。私の子供の頃の思い出はそんな世の中を反映して、テレビが報じたような戦時の人がバタバタ死んだ悲惨な体験は活字や映像でしかない。

だが、後から思い出すとこれが戦争の傷跡かと思ったことは沢山あった。まだ小学校に入学したかする前かは思い出せないが、夕方に停電になり蝋燭の火の下で食事した記憶がある。赤い蝋燭の炎が忘れられない。小さい頃は麦を1-2割混ぜ、我が家ではそれを「麦飯」といって食べた。

だが我が家は恵まれていた。当時小学校での昼食は弁当で、私はお米のご飯に梅干し卵焼きとかだった。クラスの中には麦飯にタクアンという子もいた。食事時に教室の席にいない子もいた。多分、イモとかが弁当だったと想像する。それは低学年の頃でやがて給食になったと思う。

我が家は田舎の地主でそれなりに恵まれていた。父は田舎の地主の跡取り息子で家族は祖母一人、配慮され徴兵後国内(岐阜の連隊と聞いた)に配属され無事生還した。戦後地域の宴会があると外地で戦った兵士達の武勇伝を、父は隅で黙って聞いていたと漏れ聞いたことがある。お酒で宴が乱れると当時は普段柔和な感じの大人が酔って日本刀を抜いたという噂を聞いた。

戦争中田舎で一人家を守った祖母はさぞ心細かったと思う。戦後農地解放で小作地がすべて無くなり、所有地は1町歩にも満たなくなり彼女が「田んぼを盗られた」と何度も言うのを聞いた。私はいまだに法的に全ては処分できておらず、かつての小作が払う「年貢」を毎年受け取っている。私が処理できなければ息子が受け継ぐことになっている。

戦争直後に父は伊予市下灘(海に近い駅で有名)のミカン農家の娘と結婚した。彼女は農業系の女学校を卒業したばかりで、10代で私を生んだ。母は子供の頃に松山によく連れて行ってくれた。五郎駅から蒸気機関車(Cxx?)で松山に行き、路面電車に乗って大街道へ、そこから銀天街で買い物をした。街には米軍兵が見かけられ、背より高い巨大なタイヤが路肩に飾ってあった。

母は銀天街を行ったり来たりして商品を品定めし中々買わなかった。子供の足には辛いお付き合いだった。役場勤めの父が仕立てるテイラーや、父が食事する洋食屋を教えてくれた。今はもうない。「あれっ、我が家は金持ちか?」なんて子供が頃に思った記憶がある。その後、東京の会社に勤めが決まった時、母が頼んで仕立ててもらった背広の出来は正直好きじゃなかった。

こんなところが戦争の記憶の残る私の幼児の頃の思い出だ。父が死ぬまで戦時の思い出を全く話してくれなかったのは、今になれば理解できなくはない。彼は仕事漬けで滅多に見かけずたまの休日は居間で寝っ転がっていた。私が東京で会社勤めをするようになり、必死で働いた頃の仕事の話を全く家族にしないのと似ていると思う。

家族は父親の私が接待漬けになり滅多に見かけず、たまに早く帰宅すると会社の若い女子社員達を招き朝まで酒を飲んだとかいうことだけ記憶に残っているだろう。子供達の驚いた目つきは忘れられない。戦後75年を通してマクロに親子関係を見れば、子供等にとってバブル時代の思い出、遡って同じ年頃の私には「戦後」だったのかもしれない。■
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幻の濃霧

2020-08-24 17:26:40 | 日記・エッセイ・コラム
今朝7時過ぎに2階から外を眺めると南側の山の中腹が霧で隠れていた。いつもより遅めの朝食をとって週初めのゴミ捨てに向かうと、いつも見る南側の風景が白くかき消されていた。もしかしたら20日前に見た濃霧かもと思い、引き返してポケットにスマホを入れてゴミ捨てに向かった。

最初見た時そうは思わなかったもは、濃霧にしては全体風景が明るかったからだ。初めて濃霧を見て以来、毎夕食後30分かけて堤防沿いの道を散歩し濃霧の兆候があるかチェックしていた。昨夜の散歩時には遠景が霧で滲む訳でもなく、普通通りの汗をかいただけで、兆候らしきものはなかった。

ゴミ捨て場のある表通りに出ると、前回驚かされた濃霧はなく山の中腹にたなびく「層雲」だった。全体の景色が明るく、山の裾野や頂上は雲に隠れてなかった。東側と西側は白い雲で覆われていたが、以前のような暗い「冬景色」ではなかった。

暫く堤防から山と層雲を見つめていると、雲は極めてゆっくりと川の流れと同じ方向に(東から西に)流れていた。山の西端を通り過ぎると層雲は薄くなり、遠景の山々が淡く見えた。これは秋冬や台風時に見かける現象で川の上流で発生した霧が西側の河口に向かって流れてる現象だ。

ということで、今回の層雲は地球温暖化が引き起こした現象ではなかったようだ。私の推測では季節の変わり目、いよいよ酷暑の夏から秋の始まりを告げる現象だったと思う。多分それは昨日の雷雨で上流に降った雨が、今朝霧になって海に向かって流れていった。幻の濃霧だった。■
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