長春駅に到着したのは夜になってからで、夕食を食べてから西安大路にある金都飯店に泊まりました。
到着の時間は遅かったのですが、ビールを買いに外に出たついでに、近くの人民広場まで歩きました。
朝になってホテルの窓から外を眺めたところです。起きた時は小雨が降っていましたが、出発の時までには止んでくれました。
窓の外を眺めていると、ビルの間から特徴的な建物が見えていました。
これは、偽満州国務院で、現在は吉林大学基礎医学院として使われています。
長春の歴史は比較的新しく、1800年に清朝政府が長春庁を置いたことに始まります。1932年に日本政府が傀儡国家である滿洲国を設立すると、その首都として、新京と改称されて、革新的な都市計画に基づいた大規模整備が行われました。
偽滿洲国務院は、滿洲国の最高行政機関で、日本の国会議事堂をモデルにしたといいます。興亜様式と呼ばれる西洋古典様式と中国古典様式が融合されています。
なお、中国政府は、滿洲国を認めていないため、滿洲には「偽」の文字が必ず加えられて呼ばれます。
長春観光は、満洲時代の建物と愛新覚羅溥儀が満州皇帝として住んだ宮殿の見学が主になります。
まずは、満州時代に日本が建てた建物の見学です。実際には、道順の関係で、途中に宮殿見学が入っています。
旧関東軍司令官邸で、現在は、ホテル松苑寶館の宴会用の別館になっています。静かな松林に囲まれています。
建物は、省の重要保護建造物に指定されています。
入り口の正面には、階段が設けられ、昭和初期の雰囲気が漂っています。
天井の照明もクラッシックです。
二階の窓の見える部屋には、毛沢東が滞在していたということです。
関東軍司令官といえば、中国にとっては敵の親玉でしょうに、その建物をありがたく利用しているのは、ちょっと意外な感じがします。
旧関東軍司令部
天守閣を乗せた建物は、異国にあって異様です。当時の実質的支配者であった関東軍が権力を誇示した様子がうかがわれます。
現在は、中国共産党吉林省委員会が、建物とその権力を引き継いでいます。
この建物は警備がきびしく、バスが徐行して通りの向こうで写真を撮っているだけで、警備員が出てきて注意されました。
地質院で、その前には広大な文化広場が設けられています。
この建物は、滿洲国皇帝になった愛新覚羅溥儀が住むための新宮殿として建設がはじめられました。第二次世界大戦によって建築は中断してしまいますが、中国政府の手によって1950年代にほぼ元の設計案どおりに完成しました。
この新宮殿の前から始まる順天大街(今は新民大街と名前が変わっています。)沿いに、官庁の建物が造られました。
順天大街の始まりの角には、偽滿洲国軍事部旧址があります。緑色の瓦を載せた三角屋根を載せた、いかつい姿をみせています。
現在は、吉林大学白求恩医学部附属第一臨床医学院になっています。
偽滿洲国経済部旧址で、現在は吉林大学第三医院になっています。
偽滿洲国交通部旧址で、現在は吉林大学新民校区として用いられています。正面の壁面には独特の装飾が施されています。
木立の間から天守閣のような建物の頭が見えてきました。
これは、偽滿洲国司法部旧址で、現在は吉林大学新民校区になっています。和洋折衷の不思議な姿をしています。
この三角屋根の部分だけを見るだけなら、日本のどこかにある建物としか思えません。
官庁関係の建物の他にも銀行など、当時の公共の建物がそのまま残されています。
これは、人民広場に面して建てられた偽滿洲国中央銀行で、現在は中国人民銀行になっています。
正面に10本のドーリア式のオーダー(円柱)が並んでいます。
これは、旧横浜正金銀行です。
入り口の上には、旧横浜正金銀行という名前が残されています。
長春の日本人街を訪れましたが、再開発中で取り壊される途中でした。
当時はモダンな建築であったことがうかがわれます。
比較的壊されていない部分です。かつては、東京の下町でみられた、どこか懐かしい昭和初期の匂いがします。
このあたりは、まだ人が住んでいるようです。
泊まったホテルの脇に老朽化が進んだ建物があり、その壁には五十鈴と日本人の名前が書かれていました。
第二次大戦の後に起きた国共内戦では、中国国民党軍によって守られた長春市に対して、中国人民解放軍による包囲作戦が行われました。長春包囲戦と呼ばれる150日間に及ぶ兵糧攻めによって、殺され人肉が高価で売られるような惨事が生じ、餓死者は30万人に及んだといいます。
地元ガイドの話では、長春を力攻めにせずに包囲作戦を行ったのは、毛沢東が滿洲国の首都であった長春を無傷で手に入れたかったからだと説明していました。
日本人には知られていない長春包囲戦の説明をわざわざ行ったのは、長春の人にとっての中国共産党に対する微妙な感じがうかがわれます。
到着の時間は遅かったのですが、ビールを買いに外に出たついでに、近くの人民広場まで歩きました。
朝になってホテルの窓から外を眺めたところです。起きた時は小雨が降っていましたが、出発の時までには止んでくれました。
窓の外を眺めていると、ビルの間から特徴的な建物が見えていました。
これは、偽満州国務院で、現在は吉林大学基礎医学院として使われています。
長春の歴史は比較的新しく、1800年に清朝政府が長春庁を置いたことに始まります。1932年に日本政府が傀儡国家である滿洲国を設立すると、その首都として、新京と改称されて、革新的な都市計画に基づいた大規模整備が行われました。
偽滿洲国務院は、滿洲国の最高行政機関で、日本の国会議事堂をモデルにしたといいます。興亜様式と呼ばれる西洋古典様式と中国古典様式が融合されています。
なお、中国政府は、滿洲国を認めていないため、滿洲には「偽」の文字が必ず加えられて呼ばれます。
長春観光は、満洲時代の建物と愛新覚羅溥儀が満州皇帝として住んだ宮殿の見学が主になります。
まずは、満州時代に日本が建てた建物の見学です。実際には、道順の関係で、途中に宮殿見学が入っています。
旧関東軍司令官邸で、現在は、ホテル松苑寶館の宴会用の別館になっています。静かな松林に囲まれています。
建物は、省の重要保護建造物に指定されています。
入り口の正面には、階段が設けられ、昭和初期の雰囲気が漂っています。
天井の照明もクラッシックです。
二階の窓の見える部屋には、毛沢東が滞在していたということです。
関東軍司令官といえば、中国にとっては敵の親玉でしょうに、その建物をありがたく利用しているのは、ちょっと意外な感じがします。
旧関東軍司令部
天守閣を乗せた建物は、異国にあって異様です。当時の実質的支配者であった関東軍が権力を誇示した様子がうかがわれます。
現在は、中国共産党吉林省委員会が、建物とその権力を引き継いでいます。
この建物は警備がきびしく、バスが徐行して通りの向こうで写真を撮っているだけで、警備員が出てきて注意されました。
地質院で、その前には広大な文化広場が設けられています。
この建物は、滿洲国皇帝になった愛新覚羅溥儀が住むための新宮殿として建設がはじめられました。第二次世界大戦によって建築は中断してしまいますが、中国政府の手によって1950年代にほぼ元の設計案どおりに完成しました。
この新宮殿の前から始まる順天大街(今は新民大街と名前が変わっています。)沿いに、官庁の建物が造られました。
順天大街の始まりの角には、偽滿洲国軍事部旧址があります。緑色の瓦を載せた三角屋根を載せた、いかつい姿をみせています。
現在は、吉林大学白求恩医学部附属第一臨床医学院になっています。
偽滿洲国経済部旧址で、現在は吉林大学第三医院になっています。
偽滿洲国交通部旧址で、現在は吉林大学新民校区として用いられています。正面の壁面には独特の装飾が施されています。
木立の間から天守閣のような建物の頭が見えてきました。
これは、偽滿洲国司法部旧址で、現在は吉林大学新民校区になっています。和洋折衷の不思議な姿をしています。
この三角屋根の部分だけを見るだけなら、日本のどこかにある建物としか思えません。
官庁関係の建物の他にも銀行など、当時の公共の建物がそのまま残されています。
これは、人民広場に面して建てられた偽滿洲国中央銀行で、現在は中国人民銀行になっています。
正面に10本のドーリア式のオーダー(円柱)が並んでいます。
これは、旧横浜正金銀行です。
入り口の上には、旧横浜正金銀行という名前が残されています。
長春の日本人街を訪れましたが、再開発中で取り壊される途中でした。
当時はモダンな建築であったことがうかがわれます。
比較的壊されていない部分です。かつては、東京の下町でみられた、どこか懐かしい昭和初期の匂いがします。
このあたりは、まだ人が住んでいるようです。
泊まったホテルの脇に老朽化が進んだ建物があり、その壁には五十鈴と日本人の名前が書かれていました。
第二次大戦の後に起きた国共内戦では、中国国民党軍によって守られた長春市に対して、中国人民解放軍による包囲作戦が行われました。長春包囲戦と呼ばれる150日間に及ぶ兵糧攻めによって、殺され人肉が高価で売られるような惨事が生じ、餓死者は30万人に及んだといいます。
地元ガイドの話では、長春を力攻めにせずに包囲作戦を行ったのは、毛沢東が滿洲国の首都であった長春を無傷で手に入れたかったからだと説明していました。
日本人には知られていない長春包囲戦の説明をわざわざ行ったのは、長春の人にとっての中国共産党に対する微妙な感じがうかがわれます。