中国東北地方の六日間の旅で、長春、瀋陽、旅順、大連、ハルビン(哈爾賓)を見学してきました。
「長春、瀋陽、旅順、大連、哈爾賓 旧満州・鉄道紀行 6日間」(新潟日報旅行社)
2011年
第一日目 6月8日(水) 新潟発 9:30(CZ616)哈爾賓着 13:40
哈爾賓駅発 18:14発(ローカル列車)長春着 19:21
(長春 金都飯店泊)
第二日目 6月9日(木) 長春市内観光(偽宮廷、旧関東軍司令官官邸、旧関東軍司令部、旧満州国国務院、旧日本人街)
長春発 15:18(高速鉄道)瀋陽着 17:33
(瀋陽 瀋陽凱莱大酒店)
第三日目 6月10日(金)
瀋陽市内観光(瀋陽故宮、北陵公園、旧奉天病院、旧横浜正金銀行。旧満鉄総局、旧警察署)
瀋陽北駅発 13:20(特別快速列車)大連着 17:57
(大連 大連中山大酒店)
第四日目 6月11日(土)
旅順観光(旅順博物館、旅順監獄、旧関東軍司令部、粛親王旧址、203高地、水師営接見所、東鶏冠山、白玉山展望台、旅順駅、SLアジア号見学)
(大連 大連中山大酒店)
第五日目 6月12日(日)
大連市内観光(中山広場、旧大連フェリーターミナル、満鉄本社ビル、旧総裁室、路面電車体験乗車)
大連発 13:30(CZ3603)哈爾賓着 15:00
哈爾賓市内観光(ソフィア教会、中央大街)
(哈爾賓 馬迭爾賓館泊)
第六日目 6月13日(月)
哈爾賓発 8:05(CZ615)新潟着 11:15
本来は別な方面のツアーを申し込んでいたのですが、予定人数に満たずに中止になったため、桂林に引き続いて中国を訪れることになりました。
この旧滿洲一帯は、日露戦争や日本軍の侵略、敗戦に伴う入植者の引き上げなど、歴史の記憶もまだ生な状態のため、観光気分で訪れるのに気乗りがしませんでした。
しかし、この滿洲地方は、清王朝の発足と終焉の地であり、映画「ラストエンペラー」の後半の舞台になります。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」、浅田次郎の「蒼天の昴」の続編である「中原の虹」や「マンチュリアン・レポート」の舞台として、実際の目で見たいという知的好奇心が旅の動機になりました。
新潟空港からは、中国南方航空でまずハルビンに向かい、列車で長春、瀋陽、大連へと南下し、大連からは飛行機でハルビンに戻りました。
ハルビンと日本を結ぶ航空路は、大阪関空と新潟の二つの路線しかありません。新潟空港からの定期路線は、現在、韓国・仁川、中国の上海とハルビンの三つしかないので、路線維持のためにも利用する必要があります。
機内は八割ほどの席がうまっており、まずまずの利用率のようです。
窓際に座ることができましたが、残念ながら雲が厚く、下界を眺めることはできませんでした。
機内食はまずくて食べられないという人もいますが、私はいつも美味しく食べております。しかし、この中国南方航空は、最低クラスのものでした。
昼食に相当する機内食です。ビーフということで配られたものですが、肉はほとんど入っておらず、味付けも薄いものでした。
特に減点は、ビールが無いといってもらえないことでした。国内線やイスラム圏の飛行機ならビールは出てきませんが、国際便でこれはないだろうという大問題です。
参考までに、帰りの際の朝食。パンにつけるバターとジャムも入っていません。
中国発の帰りの便では、ビールをもらうことができました。
想像するに、中国南方航空は、ビール代の節約のために、わずかなビールしかつまずに中国を出発し、そのまま補給せずに引き返すため、中国行きの便では、ビールは売り切れ状態になっているということだと思います。
経費の節約をするなら、最近はやりの格安空港会社のように、弁当などは有料でということにしてくれた方がありがたいですね。そうなったらで、また文句を言うでしょうけど。
2時間半のフライトでハルビンに到着。中国は近いです。
ハルビンの駅前広場です。
最近の中国は、地方都市でも高層ビルが立ち並んで驚かされますが、ハルビンでも同じでした。
今回のツアーは、旧満州・鉄道紀行という名前が付けられており、鉄道での移動やアジア号の見学、路面電車の体験乗車などが含まれていましたが、その割には鉄道マニアは入っていませんでした。
駅前のヤマトホテルの見学をまず行いましたが、日本占領時代の建物として後でまとめることにします。
一応、有料の待合い室に案内されたようですが、大混雑でした。列車が一本出発して少し空いたとこでで撮影した待合室の写真です。
ヨーロッパの鉄道はずいぶんと体験してきましたが、中国の鉄道は、乗り込むまでの大混雑がひどく、鉄道を利用した個人旅行は、私には無理だなと思っています。
中国では、列車の到着の少し前になってからプラットホームへの入場が始まります。駅の中に入るのにも、X線による荷物検査が行われます。
有料待合室から出たところの1番線プラットホームに、伊藤博文の暗殺現場があります。
1909年、初代韓国総督を務めていた伊藤博文は、ハルビン駅に下りたったところで、朝鮮の独立運動家安重根の撃った銃弾によって暗殺されました。
三角マークが安重根の立った位置とのことです。
伊藤博文は、四角マークの位置で撃たれました。奥に三つ、右に二つ動いた場所が狙撃位置です。
安重根は、現在も韓国で抗日の英雄とされていますが、日本からみればテロリストです。さらに中国からすれば、ささいな事件でも侵略の口実になりかねない時代に、とんでもない事件を起こして迷惑千万ということになるでしょうね。
安重根は1910年に旅順の刑務所内で処刑されますが、その5月後に日韓併合が行われます。伊藤博文は、日韓併合には反対であったようで、伊藤博文の死によって日韓併合の時期が早まったという考えもあるようです。
伊藤博文の最後の言葉は、犯人が韓国人であることを知って発した「ばかな奴だ」であったといいます。
この暗殺の真相については、銃弾が拳銃ではなくカービン銃のものであったとか、弾丸の発射角度が安重根の立ち位置と違っているとかいう説もあるようです。ケネデー大統領暗殺事件と同じですね。
ハルビンから長春へは、普通列車で3時間の旅になりました。
列車のプレートをみると、内モンゴルのパオトウ行きでした。パオトウの名前は知りませんでしたが、調べるとチンギス・ハン陵が見どころのようです。
指定席をとってありましたが、硬座席でした。3人と2人が横に座ることになり、非常に狭く、すわり心地は悪いものでした。
列車が出発したところで、待合室の売店で買ったビールを飲んでひと息付きました。
このような車内販売は頻繁にやってきて、その他に果物や弁当も売りにきました。中国人乗客は、列車内にある給湯器を使ってカップ麺を食べていました。
車窓からは、一面の畑が広がっていました。トウモロコシや米作が盛んなようです。
長春到着は17:21であったため、途中で真っ赤な太陽が地平線に沈んでいきました。
列車に揺られていくと、「北帰行」の歌が浮かんできました。
窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず
作者の宇田博は、旧制一高の受験に失敗し、建国大学予科(満州国新京)に入学しますが半年で退学となり、開校したばかりの旧制旅順高等学校に入学しました。ところが、女の子とデートして戻ったところを教官に見つかって退学処分となってしまいます。同校への訣別の歌として友人たちに遺した歌が、この「北帰行」でした。そのため、同校の広義の寮歌として歌われてきました。
1961年に、この歌は日本コロムビアのプロデューサーや小林旭に見い出され、レコード化され、さらに映画「渡り鳥シリーズ」の主題歌になって大ヒットします。
その際に歌詞が少し変わっていますが、元歌の方が作者の気持ちが出ているといえます。
建大一高旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(ああ)ほすに由なし
作者の宇田博は、このような滿洲の風景を車窓から眺めたのでしょうね。
「長春、瀋陽、旅順、大連、哈爾賓 旧満州・鉄道紀行 6日間」(新潟日報旅行社)
2011年
第一日目 6月8日(水) 新潟発 9:30(CZ616)哈爾賓着 13:40
哈爾賓駅発 18:14発(ローカル列車)長春着 19:21
(長春 金都飯店泊)
第二日目 6月9日(木) 長春市内観光(偽宮廷、旧関東軍司令官官邸、旧関東軍司令部、旧満州国国務院、旧日本人街)
長春発 15:18(高速鉄道)瀋陽着 17:33
(瀋陽 瀋陽凱莱大酒店)
第三日目 6月10日(金)
瀋陽市内観光(瀋陽故宮、北陵公園、旧奉天病院、旧横浜正金銀行。旧満鉄総局、旧警察署)
瀋陽北駅発 13:20(特別快速列車)大連着 17:57
(大連 大連中山大酒店)
第四日目 6月11日(土)
旅順観光(旅順博物館、旅順監獄、旧関東軍司令部、粛親王旧址、203高地、水師営接見所、東鶏冠山、白玉山展望台、旅順駅、SLアジア号見学)
(大連 大連中山大酒店)
第五日目 6月12日(日)
大連市内観光(中山広場、旧大連フェリーターミナル、満鉄本社ビル、旧総裁室、路面電車体験乗車)
大連発 13:30(CZ3603)哈爾賓着 15:00
哈爾賓市内観光(ソフィア教会、中央大街)
(哈爾賓 馬迭爾賓館泊)
第六日目 6月13日(月)
哈爾賓発 8:05(CZ615)新潟着 11:15
本来は別な方面のツアーを申し込んでいたのですが、予定人数に満たずに中止になったため、桂林に引き続いて中国を訪れることになりました。
この旧滿洲一帯は、日露戦争や日本軍の侵略、敗戦に伴う入植者の引き上げなど、歴史の記憶もまだ生な状態のため、観光気分で訪れるのに気乗りがしませんでした。
しかし、この滿洲地方は、清王朝の発足と終焉の地であり、映画「ラストエンペラー」の後半の舞台になります。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」、浅田次郎の「蒼天の昴」の続編である「中原の虹」や「マンチュリアン・レポート」の舞台として、実際の目で見たいという知的好奇心が旅の動機になりました。
新潟空港からは、中国南方航空でまずハルビンに向かい、列車で長春、瀋陽、大連へと南下し、大連からは飛行機でハルビンに戻りました。
ハルビンと日本を結ぶ航空路は、大阪関空と新潟の二つの路線しかありません。新潟空港からの定期路線は、現在、韓国・仁川、中国の上海とハルビンの三つしかないので、路線維持のためにも利用する必要があります。
機内は八割ほどの席がうまっており、まずまずの利用率のようです。
窓際に座ることができましたが、残念ながら雲が厚く、下界を眺めることはできませんでした。
機内食はまずくて食べられないという人もいますが、私はいつも美味しく食べております。しかし、この中国南方航空は、最低クラスのものでした。
昼食に相当する機内食です。ビーフということで配られたものですが、肉はほとんど入っておらず、味付けも薄いものでした。
特に減点は、ビールが無いといってもらえないことでした。国内線やイスラム圏の飛行機ならビールは出てきませんが、国際便でこれはないだろうという大問題です。
参考までに、帰りの際の朝食。パンにつけるバターとジャムも入っていません。
中国発の帰りの便では、ビールをもらうことができました。
想像するに、中国南方航空は、ビール代の節約のために、わずかなビールしかつまずに中国を出発し、そのまま補給せずに引き返すため、中国行きの便では、ビールは売り切れ状態になっているということだと思います。
経費の節約をするなら、最近はやりの格安空港会社のように、弁当などは有料でということにしてくれた方がありがたいですね。そうなったらで、また文句を言うでしょうけど。
2時間半のフライトでハルビンに到着。中国は近いです。
ハルビンの駅前広場です。
最近の中国は、地方都市でも高層ビルが立ち並んで驚かされますが、ハルビンでも同じでした。
今回のツアーは、旧満州・鉄道紀行という名前が付けられており、鉄道での移動やアジア号の見学、路面電車の体験乗車などが含まれていましたが、その割には鉄道マニアは入っていませんでした。
駅前のヤマトホテルの見学をまず行いましたが、日本占領時代の建物として後でまとめることにします。
一応、有料の待合い室に案内されたようですが、大混雑でした。列車が一本出発して少し空いたとこでで撮影した待合室の写真です。
ヨーロッパの鉄道はずいぶんと体験してきましたが、中国の鉄道は、乗り込むまでの大混雑がひどく、鉄道を利用した個人旅行は、私には無理だなと思っています。
中国では、列車の到着の少し前になってからプラットホームへの入場が始まります。駅の中に入るのにも、X線による荷物検査が行われます。
有料待合室から出たところの1番線プラットホームに、伊藤博文の暗殺現場があります。
1909年、初代韓国総督を務めていた伊藤博文は、ハルビン駅に下りたったところで、朝鮮の独立運動家安重根の撃った銃弾によって暗殺されました。
三角マークが安重根の立った位置とのことです。
伊藤博文は、四角マークの位置で撃たれました。奥に三つ、右に二つ動いた場所が狙撃位置です。
安重根は、現在も韓国で抗日の英雄とされていますが、日本からみればテロリストです。さらに中国からすれば、ささいな事件でも侵略の口実になりかねない時代に、とんでもない事件を起こして迷惑千万ということになるでしょうね。
安重根は1910年に旅順の刑務所内で処刑されますが、その5月後に日韓併合が行われます。伊藤博文は、日韓併合には反対であったようで、伊藤博文の死によって日韓併合の時期が早まったという考えもあるようです。
伊藤博文の最後の言葉は、犯人が韓国人であることを知って発した「ばかな奴だ」であったといいます。
この暗殺の真相については、銃弾が拳銃ではなくカービン銃のものであったとか、弾丸の発射角度が安重根の立ち位置と違っているとかいう説もあるようです。ケネデー大統領暗殺事件と同じですね。
ハルビンから長春へは、普通列車で3時間の旅になりました。
列車のプレートをみると、内モンゴルのパオトウ行きでした。パオトウの名前は知りませんでしたが、調べるとチンギス・ハン陵が見どころのようです。
指定席をとってありましたが、硬座席でした。3人と2人が横に座ることになり、非常に狭く、すわり心地は悪いものでした。
列車が出発したところで、待合室の売店で買ったビールを飲んでひと息付きました。
このような車内販売は頻繁にやってきて、その他に果物や弁当も売りにきました。中国人乗客は、列車内にある給湯器を使ってカップ麺を食べていました。
車窓からは、一面の畑が広がっていました。トウモロコシや米作が盛んなようです。
長春到着は17:21であったため、途中で真っ赤な太陽が地平線に沈んでいきました。
列車に揺られていくと、「北帰行」の歌が浮かんできました。
窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず
作者の宇田博は、旧制一高の受験に失敗し、建国大学予科(満州国新京)に入学しますが半年で退学となり、開校したばかりの旧制旅順高等学校に入学しました。ところが、女の子とデートして戻ったところを教官に見つかって退学処分となってしまいます。同校への訣別の歌として友人たちに遺した歌が、この「北帰行」でした。そのため、同校の広義の寮歌として歌われてきました。
1961年に、この歌は日本コロムビアのプロデューサーや小林旭に見い出され、レコード化され、さらに映画「渡り鳥シリーズ」の主題歌になって大ヒットします。
その際に歌詞が少し変わっていますが、元歌の方が作者の気持ちが出ているといえます。
建大一高旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(ああ)ほすに由なし
作者の宇田博は、このような滿洲の風景を車窓から眺めたのでしょうね。