さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ルアンパバーン その7

2014年12月25日 | 海外旅行
タートクアンシーの滝の見学を終えてルアンパバーンに戻り、昼食を終えてから中心部の見学を行うことにしました。

昼食をとったレストランの前にあった寺院をのぞいてみました。Wat Nong Sikhounmuangと呼ばれるようで、地球の歩き方では地図に名前は載っていますが、本文中の紹介はありません。新しい寺院なのかもしれませんが、その分、美しい建物を見ることができました。



屋根飾りにナーガの像が用いられていました。



入り口の階段脇にもナーガ像。



ナーガは五つの頭を持っていました。一般にはナーガの頭は七つと言われているので、寺院の格によって数も異なるのでしょうか。



続いて、ルアンパバーン観光の重要スポットである王宮へ。現在は、ルアンパバーン国立博物館となっており、王族が使用した調度品や各国使節からの贈り物が展示されています。

博物館の建物は、1909年にシーサワーンウォン王とその家族の住居として建築されました。

1694年のリニャ・ウォンサーの死後、後継者争いによって、ラーンサーン王国は、ルアンパバーン王国とヴィエンチャン王国に分裂しました。ラオスは分裂によって勢力が衰え、ヴィエンチャン王国は滅亡。ルアンパバーンはシャム国の属領となってしまいます。1893年、タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が起こり、その結果ラオス全領域がフランスの植民地にされてしまいました。ただ、ルアンパバーンだけは「保護領」として形式的な王政が続けられました。ルアンパバーン王国の末期の1945年、日本軍がラオスに駐留するフランス軍を攻撃、駆逐すると、シーサワーンウォン王は仏領インドシナから独立してラオス王国を宣言します。しかし、日本の敗戦後に独立を撤回。その後、1949年に再びラオス王国を建国し、立憲君主としてその初代国王となりました。ラオス王国は、軍事・外交権はフランスに握られていたため、民族主義者の反発が高まり、後のラオス内乱を経てラオス人民民主共和国の成立に到ることになります。



入り口から入って左手には、シーサワーンウォン王の像が置かれていました。シーサワーンウォン王は、庶民の人気は高いようです。



入り口から入って右手には、パバーン像安置祠が設けられています。



煌びやかな装飾が目を引き付けます。



ここのナーガは七つの頭を持っていました。



三層に重なった屋根を持っています。



屋根にもナーガの飾りが置かれていました。



壁には豪華なレリーフも施されていました。



入り口上部のレリーフ。



内部は撮影禁止でしたので、外から覗き込んだもの。

パバーン像安置祠という名前になっていますが、パバーン像は王宮内の祈祷の間に置かれています。ラオス新年には、パバーン像をワット・マイに移して、盛大な水掛けの儀式が行われるといいます。

パバーン像は、伝説によると紀元後1世紀にスリランカで作られて、クメール王国の王に贈呈されました。1359年にランサン王国のファーグム王様が彼の娘と結婚した時際に、この象はランサン王国に引き渡されました。その後、1779年と1827年の二度にわたってシャムに持ち去られましたが、戦後にパバーン仏はルアンパバーンに返還されました。このパバーン仏がルアンパバーンの名前の由来になっています。



王宮の入り口には、ラオス王国の国章が掲げられています。

三つの頭を持つ象はインドラ神の乗り物で、天蓋は王位、周囲の蛇はこの町を囲むメコン川とナムカーン川を表しています。

残念ながら、王宮内は撮影禁止で、カメラを含む手荷物を預けて入場する必要がありました。



宮殿前に置かれていた大砲。かなり昔のもののようです。



宮殿の背後には、ガレージがあり、王家が使っていた車が展示されていました。その入り口脇には、祭り用のものなのか、飾られた車が置かれていました。



自動車が展示されているガレージ。



中は撮影禁止でしたが、ルノーや日本の自動車が置かれていました。

ルアンパバーン国立博物館は、ルアンパバーン王国からラオス王国の成立までの歴史を振り返るうえで興味深いところでした。
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