さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 エチミアジン大聖堂 その1

2016年10月12日 | 海外旅行
ホルヴィラップ修道院見学の後、エレバンの西にあるエチミアジン大聖堂に向かいましたが、その途中のMasisの町でコウノトリを見学しました。

町中に並んでいる電柱のそれぞれに巣がのっている様は壮観でした。



日本では兵庫県で人工繁殖によって増やしたコウノトリの自然放鳥が試みられている状態ですが、ヨーロッパでは、民家の庭などで普通に見かけます。



ただ、ヨーロッパで見られるのは、日本でいうところの狭義のコウノトリの近縁種であるシュバシコウであり、別種です。狭義のコウノトリの分布域は東アジアに限られ、また、総数も推定2000~3000羽と少なく絶滅の危機にあるのに対し、シュバシコウは数十万羽と多く生息し、絶滅の危機からは免れています。

シュバシコウの特徴はクチバシが赤いことで、「コウノトリが赤ん坊を運んでくる」という伝承の主はこちらです。



エチミアジン大聖堂の入口に到着。

エチミアジンの町は、創立された117年当時は、アルメニアの首都でした。



エチミアジン大聖堂の入口に描かれているのは、右はキリスト教の布教者聖グレゴリウスで、左はティリダテス3世です。ティリダテス3世は、はじめはキリスト教を弾圧し、聖グレゴリウスをホルヴィラップ修道院の牢に13年間閉じ込めましたが、重い病気に罹った際に妹の忠告に従って聖グリゴールを解放すると病が治ったことから、キリスト教徒に改宗したという伝説が残されています。301年にアルメニアは、世界で最初にキリスト教を国教としました。

エチミアジンは、アルメニア語で「キリストの降臨」の意味で、聖グレゴリウスが夢で見たキリストが地上に降りてきて火の小槌で地上を打ったというお告げに由来しています。



門から入ると、奥にエチミアジン大聖堂が見えてきました。



エチミアジンは、アルメニア使徒教会の総本山ということで、広い敷地に幾つもの建物が並んでいました。

左手に見えるのは古文書館。



右手には神学校寄宿舎。



参道沿いには、ハチュカル(十字架石)が並べられていました。



現在は、トルコ領になっている東アナトリア地方から運ばれてきたものもあるようです。



細かい彫刻が施されており、信仰心の深さがうかがわれます。











神学校の奥に見えるドームは、洗礼堂。





近づいてきたエチミアジン大聖堂には、補修工事の足場が組まれていました。この工事はかなりの期間続いているようです。シートがかぶされていないだけ、良かったということにしましょう。





エチミアジン大聖堂を右に回り込んだところには、トルコによるアルメニア人虐殺50周年の追悼記念碑が置かれていました。左は洗礼堂。

ロシアの南下政策に伴って生じたコーカサス戦争や露土戦争などの結果によって、ムスリムのアナトリアへの集団移住が行われました。これによって、ムスリムとキリスト教のアルメニア人の間で軋轢が生じ、1894年にはハミディイェ虐殺と呼ばれる大規模の衝突が起きるまでになりました。

この衝突は一旦は終息に向かいましたが、第一次大戦が勃発してロシアと戦うことになったオスマントルコは、1915年に、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、ロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメニア人をシリアの砂漠地帯の町デリゾールの強制収容所へと強制移住させる死の行進政策を開始しました。

この強制移住の際に、集団殺害、移動中の衰弱死、現地のトルコ人・クルド人部族の民兵による「報復」によって、もっとも少なく見積もるトルコ人の推計で20万人、もっとも多く見積もるアルメニア人の算出で200万人が亡くなったとされています。



奥には、カトリコス(総主教)の住居がありました。
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