
中央アクロポリスにやってきました。
ティカルは、紀元前800年頃から人が住み始め、紀元前1世紀には都市が形成され、8世紀には人口8万人の大都市として繁栄しました。9世紀に人口が減少して放棄されるまでの800年の間に33人の王が君臨しました。
中央アクロポリスは、貴族の居所、行政の中心でした。古典期前から築かれ、現在残る形になった のはイキン・チャン・カウィル王の治世(734-746)と言われています。
イキン・チャン・カウィール王は、神殿1号や神殿4号をはじめとする多くの建物を建立し、最盛期を築きました。

ここは4世紀末からティカルの王の居所 でした。


学校あるいは病院であったと言われているようです。

小部屋が並ぶ、二階建ての大きな建物だったようです。

作業員が漆喰を縫って補修作業を行っていました。ティカル遺跡は、現在も修復作業が進行中で、遺跡の風景も訪問時によって変化しているようです。


中央アクロポリスの南側の歩道を西に向かいます。

南には貯水池であったという窪地があり、その奥の丘の上には5号神殿が頭を見せていました。建設当時は、ジャングルは無く、水面に神殿の影を写していたはずです。
5号神殿は、ティカルで二番目の高さを持ち、カラクムルを破ったハサウ・チャン・カウィールによって建てられました。

中央アクロポリスの西側の広場にやってきました。奥に1号神殿の頭が見えています。

広場に面した建物。

入口の上には、崩壊が進んでいますが、人の頭のような彫刻があるようです。


広場の北側に進みました。

建物の間の小路を進みます。

高台の縁に出ると、目の前に1号神殿がそそり立つ眺めが広がりました。

ティカル遺跡の核心部といえるグラン・プラサの眺めが眼下に広がっていました。

グラン・プラサの西側に、1号神殿と向かい合うように、2号神殿があります。

グラン・プラサの北側には、北アクロポリスが広がっています。

1号神殿の下には、小さな球戯場があります。
続いて、丘を下りてグラン・プラサ周辺の見学を行いました。
ティカルは、紀元前800年頃から人が住み始め、紀元前1世紀には都市が形成され、8世紀には人口8万人の大都市として繁栄しました。9世紀に人口が減少して放棄されるまでの800年の間に33人の王が君臨しました。
中央アクロポリスは、貴族の居所、行政の中心でした。古典期前から築かれ、現在残る形になった のはイキン・チャン・カウィル王の治世(734-746)と言われています。
イキン・チャン・カウィール王は、神殿1号や神殿4号をはじめとする多くの建物を建立し、最盛期を築きました。

ここは4世紀末からティカルの王の居所 でした。


学校あるいは病院であったと言われているようです。

小部屋が並ぶ、二階建ての大きな建物だったようです。

作業員が漆喰を縫って補修作業を行っていました。ティカル遺跡は、現在も修復作業が進行中で、遺跡の風景も訪問時によって変化しているようです。


中央アクロポリスの南側の歩道を西に向かいます。

南には貯水池であったという窪地があり、その奥の丘の上には5号神殿が頭を見せていました。建設当時は、ジャングルは無く、水面に神殿の影を写していたはずです。
5号神殿は、ティカルで二番目の高さを持ち、カラクムルを破ったハサウ・チャン・カウィールによって建てられました。

中央アクロポリスの西側の広場にやってきました。奥に1号神殿の頭が見えています。

広場に面した建物。

入口の上には、崩壊が進んでいますが、人の頭のような彫刻があるようです。


広場の北側に進みました。

建物の間の小路を進みます。

高台の縁に出ると、目の前に1号神殿がそそり立つ眺めが広がりました。

ティカル遺跡の核心部といえるグラン・プラサの眺めが眼下に広がっていました。

グラン・プラサの西側に、1号神殿と向かい合うように、2号神殿があります。

グラン・プラサの北側には、北アクロポリスが広がっています。

1号神殿の下には、小さな球戯場があります。
続いて、丘を下りてグラン・プラサ周辺の見学を行いました。