さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 張掖 その1

2019年10月23日 | 海外旅行
張掖では鼎和国際大酒店に二泊しました。

このホテルは、旧市街地のはずれで、街歩きを行いやすい所にありました。

張掖の歴史は、漢の武帝のときに霍去病が匈奴に勝って張掖郡を置いたことに始まります。以来、シルクロード交易の中継都市として栄え、祁連山脈を越えて青海省へと至るルートとの交差点にもなっています。

匈奴征伐に功績を上げた霍去病の名前を聞くと、シルクロードの物語に一気に引き込まれますね。

ただ、今回張掖に泊まったのは、七彩丹霞といった自然景観のためで、シルクロード沿いの古都を見学するには、自分で努力する必要がありました。



部屋の設備も整っていました。



部屋からの夜景。張掖は、歴史を持った古都ですが、新しいビルの建設も進んでいます。



張掖の街の見学はツアーに含まれていなかっため、早朝の街歩きを行いました。

ホテルの前の県府街を北に少し進むと、大仏寺前の広場が現れました。池を越した先の牌楼の奥に大仏寺があります。



大仏寺は、1098年の西夏王国の時代に造られ、宏仁寺とも呼ばれています。広場の通りに面して西夏寺と書かれた石碑が置かれています。



大仏寺の奥には金剛宝座塔(土塔)の先端が見えていました。

この日は、時間の関係で、大仏時周辺の見学は後回しにして先に進みました。



県府街をさらに進むと、万寿寺木塔が現れました。



八角九層の塔で、高さは33mあります。もともとは隋代の582年に創建されたものですが、その後何度も修築され、現在の塔は1925年に再建されました。一層から七層までの塔身の内壁はレンガ、外回りは木で組んであり、八層と九層は全て木製で壁はありません。この塔は釘を一本も使っておらず、すべて木組だけでできています。



東に進んでから南街を北に進むと、鎮遠楼が現れました。



鎮遠楼は、1507年に造られ、鍾鼓楼とも呼ばれ、張掖の街の中心としてのシンボルになっています。現在のものは1668年に修復されたものです。



鎮遠楼を一周しました。





鎮遠楼を見学した後は、西大街を進みました。



明清街という古い街並みを再現した通りが現れました。入り口に立派な牌楼が置かれていました。





再建されたものか判りませんが、古く見える家が並んでいました。



交差点部に、ひときわ目をひく二つの建物が並んでいました。





その先で甘泉公園の入り口。



甘泉公園の入り口から西に進むと、交差点の中央にマルコ・ポーロの像が置かれていました。



東方見聞録で知られているマルコ・ポーロは、張掖に1年住んでいました。

一日目の朝食前の早朝歩きは、時間の関係でここまでとなり、急いでホテルに戻りました。



二日目の朝は、大仏寺の周囲を見学しました。南巷街から反時計周りに歩きました。



古い街並みが広がっていました。



金剛宝座塔(土塔)の前に出ました。高さ33mのチベット式の仏塔です。



その隣にも古い建物がありました。



山西会館と書かれていました。



山西会館腰に見る金剛宝座塔(土塔)。



民主西街へ。



大仏時と前の広場の間に通っている大仏寺街に進みました。大仏時の外壁のようです。



大仏寺(宏仁寺)の入り口。残念ながら早朝のために入場できませんでした。内部には古い建物が並んでいるようです。この大仏寺は、マルコ・ポーロの東方見聞録にも記載されており、元の世祖フビライが生まれたところとしても知られています。



これは、張掖の駅に掲載されていた写真ですが、体長34.5mの涅槃像が置かれていることが大仏寺の由来になっています。



大仏寺前の牌楼。広場の裏側からの長めになります。



大仏寺街。



広場側からの牌楼の眺め。



大仏寺前の広場では、市民が朝晩の運動を行っていました。音楽に合わせて、広場の周りをウォーキング。二グループがぐるぐると回っていました。



中国雑技の練習ではなく、これも毎日の運動のようです。



郊外に向かうと、甘州と額が書かれた城砦が現れましたが、歴史あるものではなく、観光用のレジャー施設のようです。どうせなら、霍去病の像を正門に置いて欲しいものです。
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