さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
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さすらいの風景 瀋陽 その2

2011年06月27日 | 海外旅行
瀋陽故宮の東路に続いて、中路の宮殿を見学しました。実際には、順路の関係で、東路の後ろから見学していきましたが、建物の配列順に入れ替えて表示します。

中路の宮殿は、ホンタイジ時代に造られました。まず崇政殿が現れます。崇政殿は、ホンタイジが日常の軍務や政務の処理、外国の施設との謁見に用いました。清代には、歴代の皇帝が御幸の際に、ここで政務をとりました。



崇政殿の額は、満洲文字と漢字で書かれています。現在では、満洲文字を書くことができるのは、100名に満たなくなっているようです。



崇政殿の左前には、乾隆10年 (1745年) に建てられた、石灯籠のような形をした当時の枡(容積)の原器の「嘉量」が置かれています。
また、右前には、日時計があり、これも「乾隆」10年 (1745年) に置かれたものです。



崇政殿に続いては、鳳凰楼が現れます。

鳳凰閣は、軍政を議論したり、宴会を行った建物で、当時は瀋陽で最も高い場所であったようです。



階段を上がって鳳凰閣の下を抜けると、広場に出ます。



鳳凰閣には、「紫気東来」の扁額が掛かっています。

乾隆帝の手によるもので、「高貴な気は東からやって来る」と言う意味だそうです。



広場の正面には、ホンタイジと孝端文(ボルチジ)皇后の居室だった清寧宮があります。



清寧宮の扁額。



清寧宮の内部では、満州族の伝統的なシャーマニズムの祭祀が行われました。



コの字型にオンドルが設けられています。



建物内部には、祭祀用のものなのか、大竈も置かれています。

シャーマニズムの祭祀はシャーマンが神歌を歌いながら踊って天の神や関帝を称え、続いて生け贄(豚)を殺して竈で煮ました。煮えた肉はまず神龕に供え、皇帝、家臣がともに肉を分け合って食べて一族としての絆を確かめたといいます。



清寧宮の天井。新しく描かれたもののようです。



広場一帯は、皇帝の私的領域の内廷に相当し、清寧宮の左右には、側室達の寝室だった関雎宮、麟趾宮、衍慶宮、永福宮が並んでいます。

これは、右手にある関雎宮。

広場の片隅には、竿が建てられており、これは神竿あるいは索倫竿と呼ばれます。

シャーマニズムの祭祀で、屋内の儀式が終わると、皇室の祖霊とされているカササギに捧げるため、生け贄の豚肉に米などを混ぜて、この竿の上に括り付けられている碗に入れたといいます。

清代にはカササギが一種のトーテムとして神聖視されていました。これは、カササギがくわえていた赤い実を食べた天女が身ごもり愛新覚羅氏の始祖を産んだという始祖神話や、先祖が反乱者に追われたとき「神のカササギ」に助けられたという伝説によるもののようです。



広場の左にも同じような建物が並んでいます。



関雎宮

ホンタイジの寵妃、宸妃(海蘭珠)の住居でした。



寵愛を得て男子をもうけたが僅か半年余りで病死してしまい、宸妃も33歳で病死します。

満洲族伝統のゆりかごが展示されています。



宸妃(海蘭珠)のベッド。



宸妃(海蘭珠)の肖像画



こちらは、召使いのベッドのようです。

ホンタイジの妃の中では、孝荘文皇后を忘れることはできません。順次帝の生母ですが、ホンタイジ亡き後の跡目争いをうまくまとめ、順次帝さらに康熙帝を補佐し、清朝が漢民族を支配する基礎を作りました。清を終末に導いた西太后と比較されることもあります。



清寧宮の背後には、オンドルの煙突があります。

このオンドルの煙突が十二段であることから、清朝が十二代で終わることを予言しているといわれているようです。



内廷の背後は、小さな庭になっています。



この一帯は、厨房になっていたようで、これは粉ひき小屋です。



中には、大きな臼が置かていました。



東路との境の門。実際には、東路を見学した後に、この門を通った、逆の順に見学を行っていきました。



入場口の前には、西路と呼ばれる建築群が並んでいますが、閉鎖中でした。四庫全書を収めた文溯閣などがあります。

瀋陽故宮は、ようやく満洲族をまとめた清朝発足時の宮殿であるため、北京の紫禁城と比べるとこじんまりしていますが、歴史を感じることはできます。
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