これまでにも安楽死についての記事を
紹介してきた。過去エントリー ↓ 参照。
2012年4月8日 安楽死先進国の実状
2012年7月18日 安楽死における医師の役割
今回、Washington Post 紙に掲載されたのは、
安楽死先進国オランダのアムステルダムに住む
経済学の退官教授 Mars Cramer 氏による
自身の夫人の安楽死についての追想文である。
決断に至るまでの苦悩が詳述されている。
Euthanasia was the right decision for my wife 妻にとって安楽死は正しい決断だった
By Mars Cramer,
私の妻 Mathilde(マティルデ)が71才の時 Waldenstrom 病(ワルデンストローム病:骨髄形質細胞の癌)の診断を受けた時、私は彼女と快適な退職後の生活を送っていた。このまれな骨髄の癌の主たる脅威は、それが血液の主要な構成要素の産生を妨げ、ついには破壊してしまうということである。
数年に一回、2、3ヶ月間、周期的な化学療法を行うことになっていた。そして長い期間、私たちはこの治療法のもとで生活を送っており、慢性的に体調の優れない人たちと同じように、診察や検査のために癌の病院に毎月通い、いつも病気のことを気にかけていた。しかしこれもまもなく日常の一環となり、長い期間、私たちはひどく危険に脅かされているようには感じなかったし、次の化学療法の時がやってくれば短い休暇をとっていた。倦怠感や加齢に伴う影響を除けば、Mathilde はあまり苦痛を感じていなかった。
それから7年後、突然癌が悪性転化し、治療はもはや効果を示さなくなった。病気はやがて感染を防御する白血球を多く破壊するようになり Mathilde の抵抗力はほとんど失われた。彼女がインフルエンザやその他のありふれた感染症で死ぬのは数週あるいは数ヶ月以内かもしれず、まさに時間の問題だった。病院では彼女に輸血が行われ、次の週に来るように言われ、それからさらに輸血が行われ、また一週間後に来るように言われた。そして彼女が病に倒れない限り、あるいはさらなる治療を拒絶しない限り、彼らは明らかにこのやり方を続けていたことだろう。
しかし私たちはオランダに住んでおり、この国では私たちの言い分は少し異なるものとなる。人が治る見込みがなく、やがて痛みと憔悴のみが待ち受けている私の妻と同じような病状となった場合、患者の意思による安楽死によって自身の生涯を終えることが全く合法となっているのである。
その柔らかな物腰にもかかわらず、Mathilde は強い意思を持った人間で、自身の非依存性や自由意思を大切にし、自分の思うように自身の人生を生きることに決めていた。1970年代前半に安楽死が初めて国民の争点となったとき、彼女はその理念の強い支持者となった。私たちは Dutch Association for Voluntary Euthanasia(オランダ安楽死協会)に加入し、嘆願書に署名し、法制化を求めて議会のメンバーに手紙を書いた。まず最初に、裁判所が安楽死を容認できるようにする要件を示したとき、まだ40才代だった Mathilde は、その時期が来たときには安楽死を受けたいと明言する書類に同団体とともに記入した。
2001年、安楽死はついに完全に合法化された。それを望むものは家庭医の協力を確保しておく必要があった。私たちの村の医療に参加していたすべての医師が私たちの希望を知っておくようにし、彼らが安楽死を施行してくれるかどうか前々から尋ねていた。さらに前もっての対策として、もし事故が起こった場合に備えて、どこに行くときにもハンドバッグの中に書類と宣言の厚い束を持ち歩いていた。
ほとんどの医師は私たちの要求に応じてくれた。ただしそれは若い世代の人たちだった。安楽死を施行することに気がすすまないのは主として年齢の高い医師たちだった。少数の人は主義に基づいて拒否したが、単に関わりたくないという理由のものもいた。しかし、最近の大規模な調査では、すべてのオランダの家庭医の80%以上は少なくとも一度は安楽死を実行したと報告しており、積極的な医師においては、平均2~3年に一例の頻度となっている。
当国では安楽死は今や広く受け入れられている。国民、医療従事者、および政党の圧倒的多数によって支持されている。そのための費用は、私たちの強制健康保険の負担となっており、生命保険証券を無効にする自殺の条項から外されている。しかし、主治医にとっては重荷となる作業であり、さらに文書業務や慎重な計画が要求される。安楽死の要求は安易に行われるべきものではなく、準備が不十分な例が多く、許可されるより拒否される方がしばしばである。
しかし Mathilde の場合、準備に抜かりはなかった。Waiting to fall ill 具合が悪くなるのを待つ
Mathilde の命が終わりに近づいているのが明らかとなったとき、私たちは即座に主治医に会いに行き、安楽死を行うという以前の約束を再確認した。どのようにして行われるのかを私は彼に尋ねた。彼は私たちに、過去において患者は致命的な薬を飲んでいたが、この方法は最終的に本人の自由意思を示すことになると告げた。しかしこれは不確実な方法である。時には患者が嘔吐し、前より悪い状態で生き延びることもある。より確かなのは積極的手段であり、医師は2本の注射器を準備する。最初の注射は深い昏睡を起こすものであり、2本目の筋弛緩薬によって心臓が止まる。このすべての過程は数分のうちに完了する。
その状況に至るまで、まだ私たちには数週、ひょっとしたら1、2ヶ月あった。私たちは、それぞれ成人になっていた子供たち、親族、親しい友人たちに知らせ、そうして覚悟を決めて待つことにした。
Mathilde の死の場所は3ヶ所考えられた。病院、地方のホスピス、そして自宅の自分のベッドである。彼女はこのうち3番目の選択肢を選び準備を始め、50年以上はめていた結婚指輪をはずし、しっかりと指示を出した。自分が死ぬときに私は立ち会うこと;安楽死が行われる際には、私は彼女のベッドサイドにいること;子供たちも近くにいてほしいが、それはベッドルームではなく家の中であることなどである。
さらに彼女は、当地でよく行われるように、友人や親族が死者に最後のお別れをするために数日間正装安置するようなことはせず自分の遺体を日暮れまでに運び出してもらうことを望んだ。Mathilde も私も当地の習慣を好まなかったのだ。
これらすべての事柄について彼女の望みを私は異議なく受け入れたが、私はそうすることに慣れていた。というのも、うんざりするような説明や議論を彼女がどれほど嫌っていたか知っていたからである。
Mathilde はこれまでずっと、満足した子供のように眠りにつきぐっすりと休んでいたが、彼女のまさに最後の日が近づくまでそれを続けていた。私はそれほどぐっすりではなかったが彼女のそばで休んだ。(はかない望みだったが)もし彼女が眠っている途中で死亡した場合には、すべきことについての指示を彼女から受けていたからである:つまり、目を閉じさせて、顎を支えること(“そうしなければ私の口は空いたままになって間抜けに見えるでしょう”)、そうしてはじめて医師を呼ぶこと。
毎朝、Mathilde は体温を測っていた。ある日彼女が発熱し、やがて実際にかなり容体が悪化した。初めはインフルエンザに罹っていたのだが、奇跡的に回復し、しかしその後膀胱炎になった。彼女は寝込むようになり、新たな輸血が行われることになったが、彼女はそれを拒否した。彼女は見切りをつけたのである。もはや熟睡できなくなっていたし、食べ物や飲み物も欲しがらなくなった。行動を起こす時が訪れたのである。
法律では安楽死に4つの主要な要件が記載されている。医師によって行われなければならない;患者は心からそれを望み、それが十分な協議ののちに、かつ自由意思で成された決断でなければならない;回復の見込みがあってはならない;そして法律の用語で言うところの、患者は耐えがたいほどの苦痛に悩まされていなければならない。そして主治医は、これらの条件にあてはまることを確認し、その趣旨でレポートを書かなければならない。
概して、長年にわたり患者を知っている家庭医が、彼女の状態や、彼女の要求の真剣さや独立性についての最善の判定者である。しかし、独立した評価のために、彼は、部外者である別の医師にも助言を求めなければならない。その医師もまた見解を文書にする必要がある。その後、両者のレポートが監視委員会に提出される。この委員会はさらに説明を求めたり、問題のあるケースを Inspector of Health(保健所)や Public Prosecutor(検察官)に照会したりすることがある。しかし、同委員会の年次報告では、この委員会がそういうことを行うのはきわめてまれであることが示されている。2010年にはそういったケースはレポートが提出されたケース300例につき1例しかなかった。
私たちは助言を求めた医師を呼び、彼は Mathilde とほぼ1時間を共にした。その後、彼は私たちの家庭医に電話をかけ、彼女が十分に苦しんでいることは確信できないと話した。
耐えがたい苦痛とは一体何なのか?それは答えようのない問題である。監視委員会はそれを定義するのをあきらめ、関わっている医師がその真剣さと誠実さを確信しているという条件下で、患者自身の判断が決め手になるとの見解を採用した。Mathilde にとって、永久に輸血に依存しながら無差別な感染に翻弄されるという先行きが耐えられなかったのである。私たちはこの趣旨で手紙を書いたがそれについての見解はなかった。Mathilde’s death Mathilde の死
それから間もなくの日曜日の朝、私たちはその時がきたことを確信した。実施計画はきついスケジュールとなった。医師は薬剤を注文しなければならず、それによって一日遅れることになった。火曜日、朝の往診のあと午後から医師の手は空いていた。また実施後私たちは検視官の訪問を待たなければない。というのも Mathilde は不自然な死を迎えることになるからである。そしてようやく葬儀屋が遺体を運び出すという手筈である。
私たちは決行の日時を火曜日の午後3時とした。子供たちは居間に集まり、私は、医師、看護師とともに寝室にいた。Mathilde は取り乱し眠れない辛い一夜を過ごしており、医師は彼女にモルヒネを投与するために訪れていた。
しかし、その時でも彼女は覚醒しており、自身の病状を完全に自覚していた。看護師に向かって「心の準備はできました」と彼女は言い、私には「怖くはないわ」と言った。私はベッドの傍らに座り、その反対側で医師は彼女に最初の注射をした。
彼女はすぐに眠りに落ちぐうぐうといびきをかき始めた。医師が2本目の注射を行うといびきは止まった。そして彼女は永い眠りについた。数分ですべてが終わった。
気持ちはどうだったって?悲しみも、苦悩もなかったか?すべては手続と計画の実行という問題に過ぎなかったのか?
ああ、そんなことはない、私はこの辛い数週間、ひどく悲しんだ。私は、50年以上もの間、毎日、世界中の誰よりも妻を愛していた。彼女が間もなく死ぬことになると知って私は悲嘆に暮れた。しかし、いよいよというとき私たちは愛情のこもった視線で目を合わせただろうか?私たちは特別な親近感や一体感によって結ばれていただろうか?
決してそのようなものではなかった。この時まで、Mathilde の容体はきわめて悪く発熱も見られていた。色々なできごとで彼女には極度の集中が求められたし、十分に理解できることだが、彼女には私に構っていられる余裕はなかった。そして私はといえば、数週間泣いてばかりで、歯科医の予約診察の時、この親切な人が何も知らずに調子はどうかと聞いてきたときに突然泣きだしてしまったりしたこともあった。そしてこの最終的局面において、最後の数週間、絶えることなく続いていて無感覚になっていた悲しみ以上のものを感じることはなかった。The aftermath その後の状況
私は医師を見送り、娘の一人が、母親が望んでいた通りに服を着せた。
それから子供たちや看護師が出て行き、私は一人居間に座っていた。医師から連絡を受けていた検視官が電話をかけてきて渋滞に巻き込まれていると言った。ようやく彼が到着し、階段をズカズカと上がり、再び降りてくると私に一束の法的文書を渡した。「それらを読む必要はありません」と彼は言った。「葬儀屋にただ手渡してください」私は葬儀屋に電話をかけ、自分たちの準備が整ったことを告げた。
そして、すべての手続きが完了し私がそこに一人で座っていたとき、死んだ妻に対し見納めをしなくて良かったのかと疑問に思い始めた。この行為で多くの人たちが安らぎや癒しを得られるということを思い起こすとともに、私と同じように高齢の妻を病気で亡くしたあるイギリスの作家の追想の一節を思い出してもいた。彼が彼女の遺体を見に行くと、死んでいる彼女が奇跡的に若いころの輝きを取り戻していたと書いていたのである。
私は3回ほど、2階に上がり妻を見た。Mathilde はそこに安らかに横たわっており、実に冷たく、その部屋より冷たいほどだった。彼女は死亡したときの彼女より若くは見えなかった。その時も私には格別な気持ちは感じられなかった。そのイギリスの作家はおかしかったに違いない。
葬儀屋たちが到着したときにはすでに暗くなっていた。Mathilde を運び出すのに長い時間はかからなかった。
そうしてその日は終わり、彼女の望みはすべて叶えられたのである。
読んでみて思うのだが、
確かに耐えがたい苦痛に悩む本人の辛さも
甚大であろうとは思うが、
安楽死を見届ける家族、特に最愛の人には
この上ない葛藤があるであろうし、
その悲しみはいかばかりかと思うのである。
日本での定着はまだまだ難しいかもしれない。
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