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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 終戦63年によせて 悲惨な戦争体験を忘れずに平和の持続を祈願する

2008年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 65年
kan-haru blog 2008

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終戦63年を迎える
8月15日は終戦63年で、ブログを記述してから3回目の終戦の日を迎えます。
63年前の1945年(昭和20年)8月15日は、朝から太陽が照りつけ暑い日でした。当時は12歳の小学6年生で、疎開先の栃木県の国民学校(現在の小学校)の校庭に集合して、ラジオの前で昭和天皇の玉音放送を聞いたのですが、その頃のラジオの性能では声が全員に届かないため何の放送かも分からず、放送終了後の解散により帰宅して敗戦を知った(「大森町界隈あれこれ 手記第3編 終戦前後目黒にて(第6回)」2006年8月15日掲載参照)のです。


 東京大空襲で焼け野原となった亀戸天神付近(東京大空襲・戦災資料センター出展2006.4.22承認)

当時国民は、日本は戦争には絶対負けない国であるとの統治者の暗示を全員が信じ込まされて、多くの国民が戦地に召集され多数の戦死者を出す大きな被害を受け、戦中・戦後の生活ではまさに餓死寸前の状態にまで追い込まされたのです。
戦争の体験は、父が大森に転入したのが1937年(昭和12年)で、それ以来現在まで大森の住民として過ごし、1941年に大森町で無知無謀な戦争に突入し東京大空襲の戦災や戦闘機による機銃掃射にも遭い、物資不足の耐乏生活を強いられ、その間小学4年から卒業寸前までは学童疎開生活を体験しました。戦後の生活も戦中に劣らずの悲惨なその日暮らしで、食糧難での配給のみの食事を摂り餓死者も出て、国民全体が栄養失調寸前という凄惨な生活をおくりました。

大森町周辺戦災空中写真(国土地理院公開空中写真から、USA-M371-83東京都大田区2倍画像 1947年(昭和22年)米軍撮影)

終戦63年後の現在、戦争体験世代である65歳以上の人口は、2006年の総務省統計局『国勢調査結果』統計によると20.5%であり、戦争を体験して悲惨な目にあった国民は10人に2人のみの少数となりました。最近、女子大で昭和史の授業時の学習の学生や、あるご子息のW大学院生を靖国神社の遊就館に連れて行った際に、若い人は「日本がアメリカと戦争したことを知らなかった」という話題を知り、大変なショックを受けました。


 東京大空襲被災の10万5千人の遺骨が納骨堂に納められている東京慰霊堂

幸い、これまで日本は戦後から、なんとか平和を維持してきましたが、これからの世代も日本が平和を持続させて行くには戦争の悲惨さを知り、かっての日本の軍国主義やドイツのヒットラーなどの様な無知な統治者の暗示を受け、国民を戦争へと駆り立たされない様に、戦争の無謀さを知り惑わされない強い信念を持つことです。
それには、先ず日本の一般国民が終戦の年の8月の原爆の洗礼を受けたことや、3月の東京大空襲無差別爆撃で1夜にして死者10万人の死者を出した戦災の事実を知り、国民を不幸に落としいれる悲惨な戦争を繰り返さずに、平和の尊さを知り、平和の持続を強く願う気持ちを持つことが必要です。


 戦時中の大森町6丁目隣組防空演習風景

若山武義氏の悲惨な戦災体験の手記
kan-haru日記ブログは、2006年3月から開始しましたが、投稿の内容は記録記事を主体に掲載することを目的で始まり現在に至っており、若山氏の戦災体験手記を基にした実記録記事と、大森町が中心にある交通機関の京浜急行の高架化工事の歴史的記録記事の2項目を主テーマとして、その他大森町界隈の様々な出来事や、大森町以外での記録の他、見学記、イベント報告、旅行記などを纏めて掲載しています。

大戦記録記事のブログを始めた理由は、私の父の勤務先の同僚の若山武義氏が、戦中に大森、中野、目黒などで東京大空襲の戦災被害を受け、戦後の食糧難・物資不足の生活などの貴重な記録の手記が残されており、遺族の方からこれをブログに掲載して貰えないかとの話がありましたので、10人に8人が戦争を知らない世代の方々に、日本が無知・無謀な戦争に突入して大衆国民に悲惨な目に遭された出来事を、若山氏ご遺族の趣旨と私自身の戦争体験者として、あの忌まわしい戦争記録の断片の少しでも語り告げられればとの強い思いから掲載を始めました。

若山氏の手記は第三者個人の記録記事です。そこで、kan-haru日記にその手記の転記転載の掲載のみでは、個人ブログの目的趣旨に沿わないので、連載掲載の方法として個人の戦争体験や関連情報などを収集して解説記事を毎回作成し、それと実録の手記記事を組み合わせた形で掲載を始めており、現在もまだ未完で連載を継続中です。

・若山武義氏手記構成
若山武義氏の貴重な戦争体験の手記(原本写真)と解説付きの戦中・戦後の実録記事掲載は、戦争編と戦後史編で構成してあります。
戦争編は、第1編 鎮魂! 大森町大空襲 が11回連載、第2編 戦災日誌中野編 が7回連載、第3編 戦前戦後目黒にて が9回連載で終了しています。
戦後史編は、第1編 太平洋戦争の終結 が8回連載、第2編 天皇制の問題集 6回連載、第3編 我等の生活談義 6回連載で継続中です。

戦争編と戦後史編に掲載の記事には、若山氏の東京大空襲の悲惨な爆撃戦災体験や惨めな戦後生活の貴重な実体験の手記と、これらに関する解説記事用に集めた情報が記録してあります。まだ、未完ですので記録掲載を続けていきます。
是非、次に記載の総目次を検索して、戦争の実記録記事に触れて頂き、ご関心をお持ちでしたら口伝えに紹介して下さいますようお願い致します。
特に、1945~46年(昭和20~21年)頃の戦後直後の記録手記は殆んど無い記録史で、大変貴重な実録の手記記事です。

戦争編 第1編 総目次
戦争編 第2編 総目次
戦争編 第3編 総目次
戦後史編 第1編、第2編、第3編 総目次

・その他の世界大戦関係記事
kan-haru日記では、以上記載の通り戦争を語り継ぎたいとの目的が一つにありますので、時代経過の節目の折りに開催された戦争関連のイベントなどにも参加して記事を掲載しております。ご参考まで、その目次を以下に記載させて頂きます。

・戦争関連のイベント記事
 イベント あれから62年「東京大空襲を語り継ぐ集い」 2007年3月19日
 イベント 63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1~4 2008年3月14日

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