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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町大空襲から67年 ガス会社、特殊鋼、森ヶ崎一帯を除いて一面の焼け野原その1

2012年04月16日 | 大森町界隈あれこれ 65年
kan-haru blog 2012 戦時中の大森6丁目隣組の防火訓練      

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67年前の1945年(昭和20年)4月15日は、世界大戦終戦の同年8月15日の僅か4ヶ月前で、城南地帯が大空襲の洗礼を受けて、焼夷弾・爆弾の波状爆撃により、大森町はガス会社、特殊鋼、森ヶ崎以東と、入新井の一部を除いて壊滅的な被害を蒙り、何も残さずの焼野原となり、それは蒲田地区の六郷川まで及びました。
私は、丁度国民学校(現小学校)の6年生の時であり、終戦後の秋に学童疎開先の栃木から東京に引き揚げて、学校裏(現平和島)駅に降りて見た光景は、津波災害との違いがありますが、1年前の東日本大震災で建物が何も無くなった被災地と全く同じで、暫くは茫然としていました。何も無い焼野原は瞼に焼き付き、一生忘れることが出来ないものです。NHK朝ドラの「梅ちゃん先生」の蒲田の焼け跡画面を見て、再び思い起させられました。
67年を経た4月15日を迎えて、この時期に重要な戦災記録は後々まで多くの人に伝えて置かなければとの思いで、以前に寄せて頂いた父の職場の同僚であった若山武義氏の、大森町大空襲の実体験被爆の手記(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6~9回)」参照)に新たな資料を加え再録して、想い起し広く伝えるために再録編集しました。

 若山武義氏の大森大空襲被爆体験手記現本

東京大空襲
1941年(昭和16年)12月8日に開戦し、東京大空襲は、1942年(昭和17年)4月18日のB25爆撃機による奇襲攻撃の初空襲により、39名の犠牲者がでました。
本格的な空襲は、1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日(終戦日)に至るまでの、延べ106回に及ぶ焼夷弾を中心とした市街地爆撃により、同年3月10日未明のB29爆撃機約300機による低空絨緞爆撃による焼夷弾1,700トン、爆弾6個による2時間半にわたる爆撃で、本所、深川、浅草を中心とした住宅蜜集地の27万個の家屋が焼失し、亡くなった人は10万人を超えた世界史に残る大空襲と記録されております。
それに続き、同年4月の城南、城北爆撃、同5月の山の手爆撃と、同8月の八王子と大規模爆撃が進められ市街地は焼け野原となりました。

 東京大空襲で焼け野原となった亀戸天神付近(東京大空襲・戦災資料センター出展2006.4.22承認)

・大森町大空襲
同年4月15日の城南地帯の大空襲は、B29編隊202機が房総半島から東京湾を西北に進み、川崎、大森・蒲田方面の爆撃で、焼失6万8400戸の被害を受けました。同5月29日には大森駅付近が多量の爆弾と焼夷弾爆撃により殆どが焼き尽くされ、大森町の北は磐井神社の南方から、南は六郷土手まで見通せるといった荒涼とした焼け野原となりました。
大森町の空襲では、父と一緒の同僚の若山武義氏が産業通り際の勤務地を守り、爆撃に遭遇して被災に会い命からがら逃げた生々しい手記を再録します。

 大森町上空の戦災後の航空写真(昭和22年)

[大森町大空襲の手記]
4月13日夜、池袋、大塚、巣鴨、滝野川、田端に亘って相当広範囲に爆撃され、終夜猛炎天を焦がすばかりである。京浜地帯では、今日まで大森、蒲田は被害らしき被害はないから、今度こそこっちの番だぞと不安になって来た。
敵の爆撃は今日迄の経過を見ると、丁度一週間目毎に帝都にやって来る。其の翌日から毎日毎夜、一機、二機、三機戦果偵察に来る。我が頭上四週を偵察し始めたから、こんどは大森はあぶないぞと予感もした。然し13日に大挙来たのだから、今度は20日前後だなと想定をして居った。
4月15日晩、関井さん来訪、疎開後の始末やら爆撃被害の情報を語り合って、9時の時計の音で、それではお明日と辞去された。さて寝ようかなと床をのべると、それ迄我が膝の上に、何時ものように安眠して居た「たま」は手足をのばし、大きなあくびをして、待ってましたとばかり床の中にもぐりこんでしまった。私も帯びをときかけるととたんにブザーが鳴り出した。
おやっと思ふと警報発令だ。軍情報は「敵機は八丈島東南方を西北進しつつあり、本土到達迄約30分の距離なり」と。さては来たなと、例の通り仕度を仕直して次の情報を待った。
「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」と。ははあ、それではいつものコースの通り土浦か太田かと判断した。とたんに空襲警報となった。「各家庭の防火群の皆様、切に激闘を望む」 毎度の事、すっかり準備はよいかと組内を一巡してロータリーの前に立つ。

 大森町戦災地図1

「敵機は東京湾を西北進しつつあり」。「東京湾を西北進」、さては横浜か川崎が目標だなと判断した。とたんに森ヶ崎から多摩川沿岸の探勝照灯が一勢に閃き出すと共に森ヶ崎の高射砲が轟然とうなり出した。あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!。アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面火の海。立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ動転、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。
「逃げろ」と云うた、「逃げてくれ」と云うたか、消す処の沙汰ではない。全く四方猛炎に包まれて、平素の覚悟や訓練なんかすっとんでしまって全く周章狼狽、混乱のまま我れ勝ちに安全の処、安全の処と非難するより外なかったのである。
私も一たん我が家に飛び込んで、非常袋に重要書類のみ詰め込んで飛び出した。落ち付こうと思うても落ち付けない。とにかく風の流れはと見ると、東の方からの烈風が吹きつけて、火の粉と煙が身近かに迫り、刻々猛火をあをっている。北、東、南と三方の火の海、僅に西には火がないが、第二、第三次ぎ次ぎの爆撃必至だ。とにかく森ヶ崎から東海岸に出ようとして、羽田街道を国民学校の猛火の下をくぐって一散に、一団の人々とかだまりあって駆け出した。

 大森町戦災地図2

呑川の川端迄辿り付き、一息ついて蒲田方面を見ると、之れ亦一面火の海、大森をふりかえって見ると、火の手は五ヶ処も六ヶ処も燃え盛る。敵機は波状爆撃に次ぎ次ぎ繰り返し繰り返し爆弾、焼夷弾を投下しているのが明瞭に見られる。とにかく森ヶ崎から中の島の方へ行こうと避難の人混みに押しつ押されつ行くと、背後から突然カン高い女の声で呼ぶ声がする。ふりかえって見ると佐久間君夫妻だ。赤ちゃん背に、着のみ着のまま。疎開でやっと梅屋敷のアパートに落ち着くまもなく今夜の直撃で命からがら逃げて来たとの事。先ずお互いに無事で何よりだと喜んで、励まし励まされつつ森ヶ崎の入り口の処まで来て立ち竦んだ。
殆ど何万とゆう人と荷物の波だ。この森ヶ崎には高射砲陣地がある筈、若しもここが爆撃されたら、それこそ被服廠の二の舞となる虞れがある。これならうっかり森ヶ崎には行かれないぞ、ここで暫く形勢を見ようと、河の土手に陣どって観望して居た。
此の間、敵機の爆撃は益々熾烈を極め、烈風にあおられる猛炎の火の海。大型焼夷弾は炸裂と共に花火の如き熱焔を吹き上げる。爆弾は轟然炸裂と共に黒煙を天に沖し凄惨とも悲惨とも書くすべを知らぬ。ただ「やりやがったな」と切歯するのみである。午前四時頃、やっと警報解除のサイレンで、やれやれ助かったと安心した。前後約六時間、何ものも残さず燃え盛る。火の手は中々おさまりそうもない。東の空はほのぼのとあけて昇る太陽は真紅であった。

 六郷橋から川崎方第一京浜国道を見る 

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1 コメント

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浸炭人類壊滅作戦 (電通マン)
2015-08-07 21:04:24
 大同艦隊が急速接近中。骨の捨て場所は戦場じゃ。
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