JR広島駅
駅舎の歴史
原爆被災説明板
JR広島駅の南口にある南改札から出て、
地下道におりる階段の手前、右側に
原爆被災説明板が据え付けてある。
広島駅(爆心地から約1.9キロメートル)
人類史上最初の原爆投下により駅構内の屋根は崩れ落ち、正面玄関の前に建てられていた待合室も倒壊しました。
駅舎は炎に包まれて全焼し、旅客や駅職員に多くの死傷者が出ました。
しかし、生き残った職員の懸命の努力によって復旧がすすめられ、翌8月7日に宇品線が開通、8日には山陽本線が部分開通し、被災者の避難や物資の輸送に大きな役割を果たしました。
(旧広島駅本館と駅前広場 1945(昭和20)年10月頃 川本俊雄氏撮影
(原爆被災説明板より)
↓原爆被災説明板については、こちら↓
「原爆被災説明板」広島市
今日は、広島駅の駅舎の歴史を振り返ってみようと思う。
先日、広島駅ビル 開業50周年の話をしたが、
神戸から馬関(ばかん。現:下関)までの山陽道に
鉄道を通す山陽鉄道の駅のひとつとして
広島駅は1894年(明治27年)6月に開業した。
開業後間もない7月、日清戦争が勃発し、
広島駅と宇品港(現:広島港)を結ぶ宇品線(うじなせん)が開業。
全国から鉄道に乗って広島にやってきた兵隊は
宇品港から大陸へと出征(しゅっせい)していった。
以後、広島は兵站(へいたん)基地としての役割を
果たすことになっていくんじゃ。
のちに、
軍港のある呉(くれ)を結ぶ呉線(くれせん。1903年(明治36年))、
県北の三次市(みよしし)を結ぶ芸備線(げいびせん。1915年(大正4年))
が開業。
広島駅の駅舎は、開業に間に合わせて建てられた
木造2階建てのものじゃった。
駅を利用する人が増えるのに伴って手狭(てぜま)になり、
1922年(大正11年)、日本初の鉄筋コンクリートの駅に建て替えられた。
1943年(昭和18年)には、正面玄関前に張り出す形で2階を増築、
待合室と出札室が設けられた。
1945年(昭和20年)8月6日、アメリカによる原子爆弾投下によって、
建て増しの待合室が倒壊。
駅舎の屋根も押し下げられて変形、破損。
その後に起こった火災によって、駅舎は全焼。
焼け跡から78人の遺体が収容されたが、
その中には、待ち合わせ中の陸軍幼年学校(ようねんがっこう)の
生徒約20人も含まれていたそうじゃ。
余談じゃが、陸軍幼年学校いうのは、
戦前にあった、陸軍の幹部将校候補を養成するための教育機関。
13歳から15歳までの男子が3年間の教育を受け、
卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学できたという。
広島駅の職員は、全926人中、
11人が死亡、201人が重軽傷を負った。
そんな中、原爆投下の翌7日には宇品線、
8日、広島-横川間、
9日、山陽本線と芸備線が開通。
その列車を使って、
原爆による負傷者を郊外に運んだということじゃ。
また、戦後、任を解かれた兵隊たちが自分の故郷に帰る途中、
列車から原爆投下後の広島の街を目にしたんじゃの。
↓列車で負傷者を運んだことについては、こちら↓
「(61)被爆直後 列車が走ったって本当?」中国新聞社
当時の鉄道は電化(でんか。電気を動力にする)されとらんで
石炭で動いとったけぇ、
線路と列車、そして運転手が無事であれば
運転を再開することができた。
反対に、電気で走っとった広島電鉄の電車が
広島市内で復旧一番電車を走らせたのは、
3日後の8月9日じゃった。
↓広島電鉄の復旧一番電車についての関連記事は、こちら↓
復旧一番電車が広島を走った
広島駅の本格的な復旧は、
戦後4年後の1949年(昭和24年)から始まった。
1958年(昭和33年)には、広島駅を
民衆駅(みんしゅうえき)として建設することで、
地元と国鉄が合意。
1965年(昭和40年)12月、商業施設はもとより、
ホテル、展望浴場、映画館を併設する
広島民衆駅が完成したんじゃ。
訪問日:2015年12月6日
【参考文献】
被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)
今日は、広島駅の駅舎の歴史について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
駅舎の歴史
原爆被災説明板
JR広島駅の南口にある南改札から出て、
地下道におりる階段の手前、右側に
原爆被災説明板が据え付けてある。
広島駅(爆心地から約1.9キロメートル)
人類史上最初の原爆投下により駅構内の屋根は崩れ落ち、正面玄関の前に建てられていた待合室も倒壊しました。
駅舎は炎に包まれて全焼し、旅客や駅職員に多くの死傷者が出ました。
しかし、生き残った職員の懸命の努力によって復旧がすすめられ、翌8月7日に宇品線が開通、8日には山陽本線が部分開通し、被災者の避難や物資の輸送に大きな役割を果たしました。
(旧広島駅本館と駅前広場 1945(昭和20)年10月頃 川本俊雄氏撮影
(原爆被災説明板より)
↓原爆被災説明板については、こちら↓
「原爆被災説明板」広島市
今日は、広島駅の駅舎の歴史を振り返ってみようと思う。
先日、広島駅ビル 開業50周年の話をしたが、
神戸から馬関(ばかん。現:下関)までの山陽道に
鉄道を通す山陽鉄道の駅のひとつとして
広島駅は1894年(明治27年)6月に開業した。
開業後間もない7月、日清戦争が勃発し、
広島駅と宇品港(現:広島港)を結ぶ宇品線(うじなせん)が開業。
全国から鉄道に乗って広島にやってきた兵隊は
宇品港から大陸へと出征(しゅっせい)していった。
以後、広島は兵站(へいたん)基地としての役割を
果たすことになっていくんじゃ。
のちに、
軍港のある呉(くれ)を結ぶ呉線(くれせん。1903年(明治36年))、
県北の三次市(みよしし)を結ぶ芸備線(げいびせん。1915年(大正4年))
が開業。
広島駅の駅舎は、開業に間に合わせて建てられた
木造2階建てのものじゃった。
駅を利用する人が増えるのに伴って手狭(てぜま)になり、
1922年(大正11年)、日本初の鉄筋コンクリートの駅に建て替えられた。
1943年(昭和18年)には、正面玄関前に張り出す形で2階を増築、
待合室と出札室が設けられた。
1945年(昭和20年)8月6日、アメリカによる原子爆弾投下によって、
建て増しの待合室が倒壊。
駅舎の屋根も押し下げられて変形、破損。
その後に起こった火災によって、駅舎は全焼。
焼け跡から78人の遺体が収容されたが、
その中には、待ち合わせ中の陸軍幼年学校(ようねんがっこう)の
生徒約20人も含まれていたそうじゃ。
余談じゃが、陸軍幼年学校いうのは、
戦前にあった、陸軍の幹部将校候補を養成するための教育機関。
13歳から15歳までの男子が3年間の教育を受け、
卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学できたという。
広島駅の職員は、全926人中、
11人が死亡、201人が重軽傷を負った。
そんな中、原爆投下の翌7日には宇品線、
8日、広島-横川間、
9日、山陽本線と芸備線が開通。
その列車を使って、
原爆による負傷者を郊外に運んだということじゃ。
また、戦後、任を解かれた兵隊たちが自分の故郷に帰る途中、
列車から原爆投下後の広島の街を目にしたんじゃの。
↓列車で負傷者を運んだことについては、こちら↓
「(61)被爆直後 列車が走ったって本当?」中国新聞社
当時の鉄道は電化(でんか。電気を動力にする)されとらんで
石炭で動いとったけぇ、
線路と列車、そして運転手が無事であれば
運転を再開することができた。
反対に、電気で走っとった広島電鉄の電車が
広島市内で復旧一番電車を走らせたのは、
3日後の8月9日じゃった。
↓広島電鉄の復旧一番電車についての関連記事は、こちら↓
復旧一番電車が広島を走った
広島駅の本格的な復旧は、
戦後4年後の1949年(昭和24年)から始まった。
1958年(昭和33年)には、広島駅を
民衆駅(みんしゅうえき)として建設することで、
地元と国鉄が合意。
1965年(昭和40年)12月、商業施設はもとより、
ホテル、展望浴場、映画館を併設する
広島民衆駅が完成したんじゃ。
訪問日:2015年12月6日
【参考文献】
被爆建造物調査研究会/編『ヒロシマの被爆建造物は語る―被爆50周年 未来への記録―』(広島平和記念資料館 1996年)
今日は、広島駅の駅舎の歴史について話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
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