NHK連続ドラマ小説『ブギウギ』は、
「ブギの女王」といわれた歌手
笠置 シヅ子をモデルにした、
花田鈴子=福来 スズ子(演:趣里)
の活躍を描く物語。
↓『ブギウギ』については、こちら↓
「ブギウギ」NHK
第1週「ワテ、歌うで!」は、
鈴子が小学校卒業後の進路として、
「花咲歌劇団」の入団試験に挑むも、
不合格。
道頓堀の「梅丸少女歌劇団」に
押しかけ同然で直談判して
入団を許可されるという話。
花咲歌劇団とは、
笠置 シヅ子が1927(昭和2)年に受験した
宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)
のことで、その8年前の
1919年(大正8年)に設立された。
そして、宝塚歌劇団は、
1913年(大正2年)に結成された
宝塚唱歌隊(のち、宝塚少女歌劇団)
を前身とする。
↓宝塚歌劇団については、こちら↓
宝塚歌劇公式ホームページ
宝塚少女歌劇団の成功を受けて、
各地で少女歌劇団が作られた。
そのうちのひとつが、
広島を拠点にした
羽田(はだ)別荘少女歌劇団である。
今日は、
君知るや、羽田別荘少女歌劇団
についての話でがんす。
羽田別荘は、
1900(明治33)年に
実業家の羽田 謙次郎が創業、
広島市中区舟入町に今もある料亭。
↓羽田別荘については、こちら↓
料亭 羽田別荘
少女歌劇ブームを受けて、
宝塚少女歌劇団の結成から5年後の
1918(大正7)年に
羽田別荘少女歌劇団を結成、
12月3日に初公演を行った。
羽田別荘の少女歌劇は、大正七年に
(略)
三十人の少女歌劇団を連れて窮状を訴えてきたのがきっかけで、経営者の羽田謙次郎氏が肝入りでできたものであった。
(薄田太郎『続々がんす横丁』たくみ出版 1973年 67ページ)
羽田別荘少女歌劇団は、
一時は約50人の団員を抱え、
「港の唄」「夢のわ」「宮島譚」
「クレオパトラ」「カフェーの線」
などの演目が人気だったという。
1930(昭和5)年、東京進出を果たすが、
その際「ハダカゲキ」騒動が起こる。
五十余名の乙女歌劇団が、遠く広島から東上して、来る十一日より新宿松竹座に公演する、
(略)
名も「ハダカゲキ」と改称し、大いにエロ感を煽る圧倒的エロ・レヴューを以てフアンに見ゆる事となった
(『読売新聞』1930年9月6日)
これは、羽田歌劇が、
羽田歌劇→ハダ カゲキ
→ハダカ ゲキ→裸劇
と読み替えられたものであろう。
時代的にも、
昭和の初めころに流行した
エロ・グロ・ナンセンス
に影響されているのかもしれない。
それはともかく、
羽田別荘少女歌劇団は、
東京や大阪、京都、神戸、
遠く台湾や満州でも公演を行ったが、
太平洋戦争が始まる直前の
1941年に解散した。
↓羽田別荘少女歌劇団については、こちら↓
「[ヒロシマの空白 被爆75年] 戦前 踊る少女たち 羽田別荘 歌劇団の写真200枚」ヒロシマ平和メディアセンター
「[[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 踊り子や宴会 心弾む世界 壊滅前の羽田別荘」ヒロシマ平和メディアセンター
【参考文献】
被爆70年史編修研究会/編『広島市被爆70年史 あの日まで そして、あの日から 1945年8月6日』広島市 2018年 83ページ
今日は、
君知るや、羽田別荘少女歌劇団
について話をさせてもろうたでがんす。
ほいじゃあ、またの。
「ブギの女王」といわれた歌手
笠置 シヅ子をモデルにした、
花田鈴子=福来 スズ子(演:趣里)
の活躍を描く物語。
↓『ブギウギ』については、こちら↓
「ブギウギ」NHK
第1週「ワテ、歌うで!」は、
鈴子が小学校卒業後の進路として、
「花咲歌劇団」の入団試験に挑むも、
不合格。
道頓堀の「梅丸少女歌劇団」に
押しかけ同然で直談判して
入団を許可されるという話。
花咲歌劇団とは、
笠置 シヅ子が1927(昭和2)年に受験した
宝塚音楽歌劇学校(現:宝塚音楽学校)
のことで、その8年前の
1919年(大正8年)に設立された。
そして、宝塚歌劇団は、
1913年(大正2年)に結成された
宝塚唱歌隊(のち、宝塚少女歌劇団)
を前身とする。
↓宝塚歌劇団については、こちら↓
宝塚歌劇公式ホームページ
宝塚少女歌劇団の成功を受けて、
各地で少女歌劇団が作られた。
そのうちのひとつが、
広島を拠点にした
羽田(はだ)別荘少女歌劇団である。
今日は、
君知るや、羽田別荘少女歌劇団
についての話でがんす。
羽田別荘は、
1900(明治33)年に
実業家の羽田 謙次郎が創業、
広島市中区舟入町に今もある料亭。
↓羽田別荘については、こちら↓
料亭 羽田別荘
少女歌劇ブームを受けて、
宝塚少女歌劇団の結成から5年後の
1918(大正7)年に
羽田別荘少女歌劇団を結成、
12月3日に初公演を行った。
羽田別荘の少女歌劇は、大正七年に
(略)
三十人の少女歌劇団を連れて窮状を訴えてきたのがきっかけで、経営者の羽田謙次郎氏が肝入りでできたものであった。
(薄田太郎『続々がんす横丁』たくみ出版 1973年 67ページ)
羽田別荘少女歌劇団は、
一時は約50人の団員を抱え、
「港の唄」「夢のわ」「宮島譚」
「クレオパトラ」「カフェーの線」
などの演目が人気だったという。
1930(昭和5)年、東京進出を果たすが、
その際「ハダカゲキ」騒動が起こる。
五十余名の乙女歌劇団が、遠く広島から東上して、来る十一日より新宿松竹座に公演する、
(略)
名も「ハダカゲキ」と改称し、大いにエロ感を煽る圧倒的エロ・レヴューを以てフアンに見ゆる事となった
(『読売新聞』1930年9月6日)
これは、羽田歌劇が、
羽田歌劇→ハダ カゲキ
→ハダカ ゲキ→裸劇
と読み替えられたものであろう。
時代的にも、
昭和の初めころに流行した
エロ・グロ・ナンセンス
に影響されているのかもしれない。
それはともかく、
羽田別荘少女歌劇団は、
東京や大阪、京都、神戸、
遠く台湾や満州でも公演を行ったが、
太平洋戦争が始まる直前の
1941年に解散した。
↓羽田別荘少女歌劇団については、こちら↓
「[ヒロシマの空白 被爆75年] 戦前 踊る少女たち 羽田別荘 歌劇団の写真200枚」ヒロシマ平和メディアセンター
「[[ヒロシマの空白 被爆75年 街並み再現] 踊り子や宴会 心弾む世界 壊滅前の羽田別荘」ヒロシマ平和メディアセンター
【参考文献】
被爆70年史編修研究会/編『広島市被爆70年史 あの日まで そして、あの日から 1945年8月6日』広島市 2018年 83ページ
今日は、
君知るや、羽田別荘少女歌劇団
について話をさせてもろうたでがんす。
ほいじゃあ、またの。
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