中国新聞
天気図掲載
1950年2月6日
今から65年前の1950年2月6日、
中国新聞にはじめて天気図が掲載された。
新聞に天気図が掲載されるのは当たり前じゃん、
と思うかもしれんが、それまでは
気象台(当時は「測候所」)から民間へ配布するという形を取っとったそうじゃ。
広島県立広島測候所(現:広島地方気象台)は1928年、
印刷した天気図を官庁や新聞社・学校などに配布することになり、
広島駅と県立商品陳列所(現:原爆ドーム)に天気図が掲示されとった。
同じ年の7月には、ラジオでの天気予報の放送も始まった。
そのころのメディアといえばラジオじゃったし、
駅と陳列所は人が集まる場所じゃったんじゃろうの。
太平洋戦争が始まった1941年12月からは
天気予報は軍事機密になり
一般への発表は禁止された。
1945年8月6日の広島への原爆投下、
その直後の9月17日に広島を襲った枕崎台風に遭いながらも、
欠くことなく観測は行われた。
ラジオでの天気予報は、1945年8月22日から再開された。
広島の中国新聞に天気図が掲載されるようになったのが
1950年の2月6日ということじゃ。
たかが天気予報じゃが、これを当たり前のように
ラジオで聞いたり、テレビで見たりすることができるのは、
今が平和いうことなんじゃの。
【参考文献】
『被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年』(広島市 1996年)
ほいじゃあ、またの。
天気図掲載
1950年2月6日
今から65年前の1950年2月6日、
中国新聞にはじめて天気図が掲載された。
新聞に天気図が掲載されるのは当たり前じゃん、
と思うかもしれんが、それまでは
気象台(当時は「測候所」)から民間へ配布するという形を取っとったそうじゃ。
広島県立広島測候所(現:広島地方気象台)は1928年、
印刷した天気図を官庁や新聞社・学校などに配布することになり、
広島駅と県立商品陳列所(現:原爆ドーム)に天気図が掲示されとった。
同じ年の7月には、ラジオでの天気予報の放送も始まった。
そのころのメディアといえばラジオじゃったし、
駅と陳列所は人が集まる場所じゃったんじゃろうの。
太平洋戦争が始まった1941年12月からは
天気予報は軍事機密になり
一般への発表は禁止された。
1945年8月6日の広島への原爆投下、
その直後の9月17日に広島を襲った枕崎台風に遭いながらも、
欠くことなく観測は行われた。
ラジオでの天気予報は、1945年8月22日から再開された。
広島の中国新聞に天気図が掲載されるようになったのが
1950年の2月6日ということじゃ。
たかが天気予報じゃが、これを当たり前のように
ラジオで聞いたり、テレビで見たりすることができるのは、
今が平和いうことなんじゃの。
【参考文献】
『被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年』(広島市 1996年)
ほいじゃあ、またの。