通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島市水道資料館 広島市東区牛田新町

2011年09月01日 | 広島の話題
「この間、広島市水道資料館に行ってきたんよ」

「広島市水道資料館いうたら、東区スポーツセンターの北側にあるやつかいね?」

「ほうじゃの。牛田(うした)浄水場内にあるんじゃ」



広島市水道資料館

「レンガ造りなんじゃね」

「1924年(大正13)に建てられた送水ポンプ室を改修したものなんじゃ。ほいじゃけぇ、入口の上にこんな石額(せきがく)が掲げてあるんよ」



送水喞筒室

「??? 堂…?」

「違う、違う。左から右じゃのうて、右から左に読むんじゃ」

「〇水〇〇堂…?」

「残念! 篆書体(てんしょたい)で、「送水喞筒(ポンプ)室」と書いてあるんじゃ」

「偉そうに言うとるけど、お父さんはこれ、読めたん?」

「こんなもん、わしに読めるわけなかろうが!? 係の人に「ちーと教えてほしいんじゃが、あの額には何と書いてあるんですかいのう?」と聞いて、教えてもろうたんじゃ」





「そういや、広島の水道はいつごろできたんかいね?」

「1898年(明治31)にできたんじゃ」

「4年前の1894年(明治27)には、日清戦争が起こっとるよね」

「宇品港(現:広島港)が軍用港に指定されたり、一時的じゃが、広島城内に大本営が置かれたりしたこともあって、広島市は政治・軍事の中心になっていったんよ」

「人が集まれば、住む所が要るし、食べ物が要る。ほいで水も要るということじゃね」

「このころはコレラや赤痢が流行しとって、1886年(明治19)には広島がコレラ流行地に指定されたということも背景にあるそうじゃ」

「衛生状態がよくないとコレラが流行するけんね。きれいな水が飲めんと困るよ」

「広島はデルタ地帯(三角州)で質のええ地下水が少なかったけぇ、川の水をそのまま飲んだりしよったんよの」

「早く水道を作りゃええのに…」

「1894年の4月、広島市はイギリス人技師のW・K・バルトンに水道を敷くための計画を依頼したそうじゃ。ところが、広島市にはそれだけのお金がなかったんよ」


宇品が兵站拠点となり、広島が軍都として急速に発展していく中でより上水が必要となり、早急な軍用水道布設の必要に迫られた。

そこで1895年(明治28年)「明治天皇の勅令」という異例の形で軍用水道布設が決定された。
あわせて市水道も整備されることになり、これにバルトンの布設計画案が用いられた。
軍用水道は1896年(明治29年)5月起工、1898年(明治31年)8月12日竣工。
同年8月25日軍用水道および市水道の通水式がここ「牛田水源地」で行われた。
ちなみにこれは、横浜・函館・長崎・大阪に次いで5番目の近代水道創設であった。

「牛田浄水場」ウィキペディア



「広島市の水道は、全国5番目になるんじゃね」

「実際に給水が始まったのは、次の年の1899年(明治32)の1月1日じゃったんじゃがの」

「軍いうたら、呉には海軍があったよね。呉に水道が通ったのはいつ?」

「1889年(明治22)のことじゃ。といっても、これは軍用専用の「呉鎮守府水道」じゃったんよ。呉市民に水道水が供給されるようになったのは、1918年(大正7)4月のことじゃがの」

「なんで呉の方が先じゃったん?」

「その年に呉鎮守府が開庁したこともあるし、海軍の船には清潔で日持ちのする水を積み込む必要があったんじゃ」

「あぁ、そうか」

「それにしても、軍の事業とはいえ、水道を敷くために天皇の勅令が出るということは、それまでに例がなかったそうなんよ」

「へぇ…」

「ほいで、このことには伊藤博文(いとう ひろぶみ)と児玉源太郎(こだま げんたろう)が深く関わっとられるそうじゃ」

「伊藤博文いうたら、初代内閣総理大臣じゃん」

「天皇の勅令が下された1895年は、第2次伊藤内閣のころじゃの」

「児玉源太郎って、政治家? それとも軍人?」

「陸軍で、大将まで務められた方なんよ。1895年11月には、「臨時広島軍用水道布設部長」を兼任されとったそうじゃ。ちなみにお2人とも山口県出身の方なんよの」




深仁厚澤

「……。お父さん、これ、何て読むん?」

「「深仁厚澤(しんじんこうたく)」と読むんじゃと」

「どういう意味?」


この石額の「深仁厚澤」は、本市水道の創設(明治31年)にゆかりの深い伊藤博文が書いたものです。
この4文字は、中国の古言に源をたどることができます。
深仁は、広大な仁徳という意味で、明治天皇の深い恵みにより創設された水道と解され、厚澤は、無辺な水徳のことを意味します。
すなわち、明治天皇の仁徳と大自然の水徳とを巧みに表現したものと言えます。
また、この石額は、当時、赤れんが造りのポンプ室正面に掲げられ、金ぱくの文字がさん然と輝いていました。

(説明板より)




不舎晝夜


「不〇〇夜…。うーん、これも読めんね」

「「不舎昼夜(ちゅうやをおかず)」と読むそうじゃ」

「どういう意味なん?」


この石額は、広島市水道創設時の牛田取水門中央上部にかかげられていたものです。
昼も夜も休みなく流れ続ける”母なる川・太田川”の恩恵を思い、当時、臨時広島軍用水道布設部長であった児玉源太郎中将が、中国の故事にならって筆をふるったものです。

(説明板より)



「「深仁厚澤」は伊藤博文が、「不舎昼夜」は児玉源太郎が、それぞれ書かれたものなんじゃね」




広島市水道資料館別館

「これは量水室というて、1898年に牛田水源地ができたときに建てられたもので、1972年(昭和47)まで稼動しとったそうじゃ」




旧濾過調整池上屋(きゅうろかちょうせいちうわや)

「こちらは1924年(大正13)に行われた第2期拡張工事の時に建てられたものじゃと」

「途中で、拡張工事をしとってんじゃね」

「広島市の人口が増えて、牛田取水場の能力が足りんようになると、拡張工事をして対応されたんよ。拡張工事はこれまでに計7回行われたそうじゃ」

「どのくらいの量の水を送ることができるんかね?」

「1899年の給水開始当初は、給水能力が約1万3,000立方メートルで、給水人口が約4万5,000人じゃったんよ。2009年時点での給水能力は約63万立方メートル、給水人口が約120万人じゃそうな」



「ここにある建物は被爆建物になるんじゃね」

「爆心地からだいたい2.8キロメートルの距離じゃけぇの」

「むかしは牛田「取水場」じゃったんじゃけど、今は牛田「浄水場」になっとるんじゃね。今はどっから水を取りよるんじゃったっけ?」

「1975年(昭和50)から、広島市安佐北区高陽町(こうようちょう)にある高瀬堰(たかせぜき)から取った水が、牛田浄水場に送られとるんじゃ。言い忘れとったが、これらの建物は2009年(平成21)、「近代化産業遺産」に認定されとるんじゃ」

「近代化産業遺産?」


幕末から戦前にかけて、日本の産業近代化に貢献した建造物、設備機器、文書などの産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的としています。

経済産業省では、日本の近代化にまつわる技術史、産業史的な視点を含めつつ評価を行い、「近代水道」を含む33のストーリーを公表するとともに、我が国の代表的な産業遺産に対して「認定」を行うなどの取組を通じて、産業遺産を活用した地域活性化の普及・促進を図ることとしています。

近代化産業遺産が持つ価値は、日本各地に点在する建造物等そのものの価値に加えて、その地域において、産業、技術の発展に果たしてきた役割やそこを舞台に繰り広げられた先人の物語の象徴であり、地域活性化の有益な「種」と成り得るため、その歴史を軸としつつ、人材・技術・物資等の交流にも着目して複数の遺産を関連づけ、遺産群としてとりまとめたものです。

(「近代化産業遺産とは」広島市水道局)



近代化産業遺産認定証



「ここは、「清潔な水を大量に供給し都市の生活・産業の発展を支えた近代水道の歩みを物語る近代化産業遺産群」ということで、近代化産業遺産に認定されたそうじゃ」





↓広島市水道資料館・牛田浄水場については、こちら↓

広島市水道局ホームページ





↓広島の水道についての関連記事は、こちら↓

被爆直後も給水 広島市水道局





「今日は、広島市東区牛田新町にある広島市水道資料館について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」


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