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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

易は變易なり。

2018-01-07 11:27:56 | ブログ
第3295号 30.01.07(日)

 伊川先生の易傳の序に曰く、易は變易(へんえき)なり。時に随(したが)って變易し以て道に従ふなり。其の書為(た)るや、広大悉(ことごと)く備わる。将(まさ)に以て性命の理に順ひ、幽明の故(こと)に通じ、事物の情を盡して、開物成務(かいぶつせいむ)の道を示さんとす。聖人の後世を憂患する、至れりと謂ふ可(べ)し。『近思録』199

 伊川先生の易伝の序文に次のように書いてある。「易は変易ということである。時の流れのままに変易し、それによって道に従うのである。この書物の内容には、万事がすべて備わっていて、物性天命の道理に随順し、無形有形の原則に通達し、事物の実情を窮め尽くして、人間生活の方法を示そうとしている。後世を憂える聖人の心は、この上ないものといえよう。199

 【コメント】臨機応変の処置を示す易の書は、時と所によって人の対応の方法が異なるべきなので、その点を示していくというのです。下句に「道に従う」とあるように、一時逃れの処置でなく、変化対応の結果が道に副ったものでなければならないというのはまさしく正鵠を射ていると思います。

 易が変易によって示すものも、その中に道が含まれているという考え方は人間社会に必要なことであると思います。広い点も大きい点もあらゆることがらが、すべて備わっているとある様に「易の書たる、広大悉く備わるは、天道あり、地道有り、人道有り。」と明解なものであるといっていいでしょう。

 昨日は私が主催する円心会の仲間たちと新年会を開催しました。私は挨拶の中で、子供たちに百歳まで生きたいといっているので、「人様を大事にすること、喧嘩をしてはならないこと、女性の人にいじわるをしないこと、やりだした事はどこどこまでもやり抜く精神力を持つこと」等をおはなししました。

 そして大坪師範が、「日本空手道少林流円心会を詠ず」を吟じて下さいました。その後、17年間修行に精進している田上慈昭さんに基本の型を演じて貰いました。そのご「田上慈昭・人生に挑む誦句」を全員で拝誦し、田上さんを讃えました。子供たちに、あなた方もこういう誦句を創って欲しいですか、とお聞きしましたら、全員創って欲しいと挙手」してくれました。

 とにかく人生を生き抜く誦句を作成し、日々実践することが大事なのです。学校に行きさえすれば頭は良くなるのです。その頭脳よりも、非違行為をしないことが大事なのです。先月は福岡県警ではスマホによる隠し撮りのため懲戒免職になった人が複数人いるとのことです。女性のスカウトの中を撮影して何が楽しいのでしょう。一寸した油断と不心得で免職になったら、人生のすべてを失ってしまうのです。それよりか漢籍を繙いた方が建設的なのです。

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『不動心』(第158回)

 天の種子は天へ

 「土から生まれたものはすべて土へと帰る。天の種子から育ったものはすべて天へと帰る」(エウリピデスの言葉より)  以上は、原子構造の分解と心を持たぬ元素の消長によって起こる。

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「日本の婦道」---第13回

 愛は努力である。固より恋も努力である。そは結婚----随って夫婦の神聖なる関係があるのである。それにも拘わらず愛を衝動的な情僻と誤って、単なる好悪とそれに伴う破廉恥な生活を恋愛及び夫婦関係とし、神聖なる道徳的努力を侮蔑するのは到底人間沙汰ではない。子供の行いが悪い傾向を示す時、親の愛は非常に深刻になる。そこに愛の尊い本質を覚らねばにらぬ。夫が妻を等閑にして、家を外に出歩く時、妻の愛に始めて深刻な試練が下される。
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書を看るには、須らく二帝三王の道を見るを要すべし。

2018-01-05 18:05:18 | ブログ
第3294号 30.01.06(土)

書を看るには、須らく二帝三王の道を見るを要すべし。二典の如き、即ち堯の民を治めし所以、舜の君に事(つか)へし所以を求めよ。『近思録』197

 書経を読む際には、二帝三王の行った道を見なければならない。例えば二典などでは、堯が民を治めた方法、舜が君に仕えた方法を求めることだ。

 【コメント】二帝は堯・舜、三王は夏兎・殷湯・周文(武)。二典は書経の堯典と舜典のこととあります。

 解説では高度な視点から学びなさいと諭してありますが、要はとりあえず学び続けることだと思います。それが嵩じて高度な視点にたって学ぼうという意欲も出るかも知れません。

 西郷さんのドラマがあるということで、経済効果に期待する声がテレビで紹介されています。大変よいことです。

 大変よいことですが、しかし私は、『南洲翁遺訓』を広めて教育効果を高めるべきだということを考えています。そんなに裕福にならなくても食べることが出来ればいいのです。贅沢はすべきではないと思います。

 この素晴らしい世の中を後々の人々のために、汚さずに壊さずに残さななくてはならないと思うのです。

 今日は円心会の新年会を行ないます。道場に集ってくださる門人たちとこれからの生き方に気合いを合せて行こうという契の会であります。

 年賀状に桑畑栄輝さんご家族からまた伺いますとして挨拶状をいただきました。有難く存じています。全国には空手道場は数多ありますが、文武両道として空手道と『南洲翁遺訓』を取り入れている道場円心会のほかにはないと思います。

 これからの門人たちには、どんなに苦しくとも一人で生き抜く気力を構築して貰いたいものだと考えています。そこには学問がなくてはならないのです。

 勉強は全国どこでも教えてくれますが、健康と長生き論は教えてくれません。それは多くの漢籍にヒントがございます。
 
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『不動心』(第157回)

 過去から未来をのぞく眼

 過去をじっくり見つめ直し、栄枯盛衰をくりかえした幾多の帝国に思いをはせれば、未来についても予測がついてしまう。それは、細部にいたるまで過去の焼き直しにすぎないだろう。というのは、どんな未来も、着実に進む創造の歩みをさえぎることはできないからだ。したがって、人生を観察するのに四十年かけようと一万年かけようと変わりはしない。他に見るべき新しいものが残されているとでもいうのか。

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「日本の婦道」---第12回

 愛はこの様に婦人をして頻りにみづから慎ますと同時に、また其の恋人のいやが上にも偉大ならむことを庶幾はずには居られなくなる。命をかけた恋人の人格的破綻は同時に恋する女の死である。是れ愛の本質要求であると思ふ。昔から其の夫が、其の子が、武士にあるまじき仕業をした為に、妻や父の自害したり、世を棄てたりした例は枚挙に暇あるまい。「君辱しめらるれば臣死す」のである。最近の例を引いてみれば、かの有名な文士と婦人記者が情死して醜骸を世上に暴露した時、其の女の夫たるものは、若し誠の武士であったならば恐らくは切腹するか、浪人出家したであろう。
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文を以て辭を害せず。

2018-01-05 10:10:13 | ブログ
第3293号 30.01.05(金)

文を以て辭を害せず。文は、文字(もんじ)の文なり。一字を挙ぐれば則ち是れ文にして、句を成せば是れ辭なり。詩は、解を為すに一字行(や)らずんば、卻(かえ)って他に遷就(せんしゅう)して説け。有周顕れざらんやの如き、自ら是れ文を作るには當に此の如くなるべし。『近思録』196

 文によって辞を害わないと孟子は言う。文とは、文字のこと。一字を示せば、それは文であり、句になっていれば、それは辞である。詩経は解釈するとき、一字でもうまくいかなければ、その内容に合わせて説くことだ。例えば、「有周不顕」の場合、もともと文の作り方として、その形になるのが当然である。197

 【コメント】この言葉の前段に「学ぶ者は以て詩を看ざる可からず。詩を看れば、便ち人をして長ずること一格價ならしむ、と。」とあります。人は詩経を読まなければならない。詩経を読むと、人は一段成長する、とありますが、西郷さんは漢籍を渉猟したこともあってその人格を高めたのだろうと推察いたします。

 人間の資質を高めるための勉強法はいろいろあるわけですが、その事が後々の人々にヨシとして踏襲されるのであれば、よろしいのですないでしょうか。

 相撲協会でのダンマリ作戦は、問題がいろいろあったにしても、問題解決の作戦としてはよくないと思います。

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『不動心』(第156回)

 山頂から下界を見渡すがごとく

 プラトンは立派な言葉を残している。それによれば、人間について論ずる者は、高所から臨むがごとく地上のことを見渡さなくてはいけない。平和だ戦争だといっては集まってくる人の群れ、農耕、結婚、離別も誕生と死、騒がしい法廷、人気のない砂漠、たくさんの民族、饗宴、葬式、市場-----あらゆるものが雑然と混じり合い、矛盾対立したものから調和のとれた秩序がつくられているさまをそうやって観察するがいい。

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「日本の婦道」---第11回

 随って恋はおのづから「羞じらひ」を伴ふ。恋人に接するや、純な女性は殆ど無意識的にわが不束を覚る情と望の人に合い得た悦びとに惑乱する。矯羞は女性の純潔を示す最も魅力的なものであろう。然るに今の女はづうづうしい。鉄面皮であるといふ批難が高い。女性の鉄面皮な振舞は百年の思を一朝に冷ます。それは女性に最も尊ぶべき内省の皆無を暴露するからである。
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論語・孟子は、只剰読し著くれば、便ち自ら意足る。

2018-01-04 09:58:30 | ブログ
第3292号 30.01.04(木)

論語・孟子は、只剰読(じょうどく)し著くれば、便(すなわ)ち自(おのずか)ら意足る。學ぶ者は須らく是れ玩味すべし。若し語言を以て解し著くれば、意便ち足らず。某(それがし)始め此の二書の文字を作り、既にして之を思へば 又剰(あま)れるに似たり。只些(いささか)の先儒の錯會(さくかい)せし處有らば、卻(かえ)って與に整理し過ぐるを得たん。『近思録』192

 論語や孟子は、くどいほどに読みさえすれば、その精神は自然に充足される。学ぶものは内容を玩味すべきである。もし言葉で文義を解釈するなら、書かれた精神は充足しない。わたしは、はじめこの二つの書物の注を書いたが、後から考えると、余計なことに思える。ただ、多少とも先儒の誤解があれば、整理してあげる必要がある。192 

 【コメント】論語・孟子に限らず、漢籍は只管(ひたすら)読み続けることが大事だと思います。安岡正篤氏も訳が分からんでもとにかく読み続けなさいと諭しています。

 私は『南洲翁遺訓』との出会いを契機に漢籍を読み書きしだしたのですが、今は大変楽しいの一言です。昨日は元空手マンの樋高さんが挨拶に来てくれました。

 その時の世間話で警察官の不祥事が多いので、警察学校でも漢籍を学ぶ教科も取り入れて欲しいものだとお話した次第でした。この處、スマホなどで、女性の下半身を撮影する人が多発しているらしいのです。

 下半身を撮影しても女性の裸体は見えもしないのですが、何故そんなくだらないことをするのでしょうか。それよりか漢籍を繙くことをお奨め致します。

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『不動心』(第155回)

 生活の垢を洗い浄めてくれるもの

 めぐりゆく星を、その軌道に自分も乗っているようなつもりで観察すること。また、元素がさまざまに変化していく舞踊のような光景を心に描いてみなさい。こういう想像は、世俗にまみれたわれわれの生活の垢を洗い浄めてくれる。

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「日本の婦道」---第10回

 氷の様な守銭奴も其の子の為には師に物を運ぶことを厭はない。忠臣は其の君の為には命だも惜しまぬのである。是の如く愛は人間の理想我の発動であるから、必然に愛は自己を内省的ならしめ、人にもいや高い人格的価値を想望して止まない。恋を知った女が何故に身じまひを謹むか。下世話にも「誰に見しよとて紅かねつけようぞ」といふが、そは明らかに恋が其の女性を内省的ならしめ自ら少しでも美しく善くなりたいといふ強い衝動を発するからである。
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先般、写真家・津田さんが、婦人画報で郷中教育の一貫とされる修行内容を見学したいとして、写真撮影し画報に掲載してくれました。

 その際、家庭画報と婦人画報の名称を間違いブログに記載したため、御親切な方から間違いを指摘して頂きました。当事者にとっては重要なことであったと思い、深謝いたします。コメント有り難うございました。

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學ぶ者は當に論語・孟子を以て本と為すべし。

2018-01-03 12:18:35 | ブログ
第3291号 30.01.03(水)

學ぶ者は當(まさ)に論語・孟子を以て本と為すべし。論語・孟子既に治(おさま)れば、則ち六経は治めずして明かなる可し。『近思録』191

 勉強するものは、論語・孟子を根本とすべきである。論語・孟子の学習ができれば、六経は学習せずに明かになろう。191

 【コメント】年賀状が多数届いた関係で、その処理をしていたため、ブログ書きが少しく遅くなりました。高齢者の体調がいろいろあっても、やらねばならぬという思いが気概に成って行きます。

 漢籍の言葉等々は今日遣わない日々ですが、長い歴史の中での奥深い味わいある人間社会への贈り物だと位置づけ、その世界へ邁進したいものです。

 たしかに慣れるまでは難解さに負けて投げ出す人もおられると思います。しかし、なにがなんでもと思って取り組む所に健康への誘いもあるのです。何時まで持つかわかりませんが、倒れるまでその世界を従容し続けたいと思います。

 昨年11月24日午前中、荘内の致道館で『書経』を拝読する光栄に浴しました。致道館で働いている佐藤たか先生に数年前お願いしていたのでした。

 できるものなら歴史にその名を刻している致道館で漢籍を読んで貰いたいと思っています。上の原文にもありますように、先ずは『論語』『孟子』をお読み頂けたらと思います。

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『不動心』(第154回)

 逃れられない運命をいかに最高に生きるかが問題

 「途も、君に考えてもらいたいのだ。気高さや善良さと、われわれを危険から守るていうことはどこかちがうのではないだろうか。真の人間とは、命にしがみつくような真似はせず、自分がどのくらい生きるかというような問題も心からぬぐい去ってしまうべきではないだろうか。なんぴとも運命の手から逃れられぬという言葉を正しいものと信じ、自分に割り当てられた人生をどうしたら最もよく生きていかれるかという問題にのみ心を傾けるべきなのだ」

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