味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

李やく問ふ、毎常事に遇へば、

2018-01-24 09:35:43 | ブログ
第3312号 30.01.24(水)

李やく問ふ、毎常事に遇へば、即ち能く操存(そうぞん)の意を知る。事無き時は、如何にして存養(ぞんよう)し得熟(えじゅく)さん、と。曰く、古の人、耳の樂に於ける、目の禮に於ける、左右起居、盤・盂・几・状・銘有り戒有り。動息皆養ふ所有り。今皆此を廃せり。獨り理義の心を養ふ有るのみ。但此の涵養の意を存せよ。久しくんば則ち自ら熟せん。敬以て内を直くするは、是れ涵養の意なり、と。『近思録』241

 李やくが質問した。「いつも事に出会うと、即座に、心を失わないようにする意味がわかりましたが、何もないときには、どのようにしたら心を十分に養えましょうか。」「昔の人は、耳で音楽を聞くときも、目で礼を見るときも、いずれも心を養うよう心がけた。例えば、左に行ったり右に行ったり、立ったり坐ったりするとき、いずれも礼学に従うようにしたし、盤・盂・几・状といった道具には、銘や戒めの言葉が刻みつけてあった。このように昔は、動くにしても休むにしても、心を養うようにしたものだ。現在は、すべてそういったことがなくなり、道理で心を養うだけのことになっている。しかし、この涵養の精神は大切にせよ。涵養を続ければ、自然に心は練れて来よう。敬して心を正しくすることが、涵養の精神である。」241

 【コメント】「操存」とは心が悪に走らないように守ることであり、孟子告示上篇に「孔子曰く、操れば則ち存し、舎(す)つれば則ち亡す。出入りに時無く、其の郷を知る莫し、と。惟れ心の謂か。」とありますが時代がどれほど遷(うつ)っても悪に走らず操を保ち続けることほど大事なことはないでありましょう。

 便利なことはいいことなのですが現今は、テレビコマーシャルとかスマホなどに短絡的に走る傾向があるのはどうにか出来ないものでしょうか。

 昭和の初期に子供時代を過ごし、原始的にも似た空間に生きた我々には理解できないことが多すぎるような気が致します。

 とにかく、どういう時代であろうが、学びに越したことはないと思います。それも出来れば『南洲翁遺訓』とか漢籍がよろしいのではないかと考えます。

 荘内に住むご婦人二人が、青森に住むお年寄りと『南洲翁遺訓』の素読をするのだということで、勉強会に行くのだということをお聞きし蒙を拓かせられたのは数か月前のことでした。

 私は連日「近思録」をご紹介していますが、この勉強・道楽を辞めたらあの世行きだと思って老体に鞭打っているのです。

------------------
『不動心』(第174回)

 日々心静かに暮らすための心術

 世間の人が耳をつんざくほどの大声でわめきたてようと、野獣が身体をこなごなに噛み砕いてしまおうと、それに屈してはならない。日々心静かに暮らすことが大事である。
 いま目の前に起こっていることは、みな理性と兄弟愛を発揮するにふさわしい材料である。われわれには自分に無関係なことなど一つも怒らないのである。

-------------------
日本精神への復帰----第4回

 例えば井上博士の日本に於ける儒教哲学を叙述せる著書に於て、西欧哲学者には皆な「氏」を附してカント氏、ヘーゲル氏、ショーペンハウエル氏とあるに対し、日本の儒者は伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春臺と凡て呼び捨てであった。また仁斎の道徳論は、グリーン氏の自我實現説と左右逢原、期せずして相合したる所に価値があると云ふやうな説明もあった。無学の青年たりし予が、西欧の哲人に衷心の敬意を拂ったのは当然のことである。
------------------
コメント