第3316号 30.01.28(日)
君實自ら謂ふ、吾術を得たり。只管(ひたすら)箇の中の字を念ず、と。此又中の繋縛する所と為りしなり。且つ中は亦何の軽傷らん。人有り胸中に常に両人有るが若し。善を為さんと欲せば、悪有りて以て之が閒を為すが如く、不善を為さんと欲せば、又羞悪の心有る者の若し。本二人無し。此正に交戦の験(しるし)なり。其の志を持し気をして亂す能はざらしむるは、此大いに験ある可し。之を要するに聖賢は必ず心疾に害(そこな)はれず。『近思録』252
「わたしは心の修め方を会得した。ひたすら中ということを心に念じている。」君実は自分で言っているが、これも中に束縛されたものである。それに、中にはどういった形があるのだろう。
胸中に常に二人の人間がいるような人がある。善を行おうとすると、悪が出てきてその邪魔をするようだし、不善を行なおうとすると、悪を恥じる心が出てくるように思える。元来、本人は一人である。これはまさに交戦の姿である。心の動きを大切にし、気がそれを乱せないようにすることだ。そうすれば大いに効果が現れよう。要するに聖人賢者は決して心の病にそこなわれることがない。252
【コメント】孟子公孫丑上篇に「夫れ志は気の帥なり。気は体の充てるなり。夫れ志は至り、気はこれに次ぐ。故に曰く、其の志を持して、其の気を暴(そこな)ふなかれ、と。」とある。これに続いて孟子は「志が専一だと気を動かすし、気が専一だと志を動かす。」といって、気をそこなわないようにすることの理由を述べております。
聖人・賢者は常に心に主体性を持つので、心の乱れにわずらわされない努力をすることが要諦であるということでしょう。
昨夜の本部空手道教室も賑わいました。南国鹿児島にしては、寒い寒いといいながらおけいこをしているのですが、荘内の先生方から見たら、何が寒いかいって笑われそうです。
私も老体に鞭打って気を専一にし、最後は力一杯お腹を打たせました。小学生の子供であっても、それなりに力づよくなってきました。
兎に角元気で100歳まで生きてください、と檄を飛ばしています。平和・安全・反戦もいいのですが、厳しい規律も加えなければなりません。
少々の体罰は、人間に気をいれることになるのです。腑抜け人間にならないよう修行を続けたいものです。
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『不動心』(第177回)
人に利益を与えることが自らを利する
利益を受けるのに飽き飽きしたという人間はいない。利益というものは自然力にかなった行動をすることによって生まれてくる。それならば、人に利益を与えることによって自らも利するよう倦まずたゆまず努力せよ。
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日本精神への復帰---第7回----大川周明
そは宇宙と人生とを吾等の理性に翻譯する上に於て、東洋哲学の企及し難き手際を具へて居る。然るに東洋の哲人は、宇宙と人生とを理性に翻譯することなく、端的に自己の生命を以て把握せんと努め、其の體認せる真理を如実に表現せんとする。故に多くの場合、其文を読み、其字を解いただけでは、決して其の真義に觸るべくもない。秀でたる師家を得るの冥加なかりし未熟の予が日本精神の第一義を掴むすべもなく、みだりに独断混沌たる思想なるかの如く考えたことは慚愧限りなしと雖も偽らざる事実である。
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『言志録一』27
大志と遠慮
真に大志有る者は、克く小物を勤め、真に遠慮有る者は、細事を忽せにせず。
〔訳文〕真に大志ある者は、小さな事柄をも粗末にしないで勤めはげみ、真に遠大な考えをもっている者は、些細な事をもゆるがせにしない。
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大相撲初場所は、栃の心(30歳)が優勝しました。ご苦労様でした。遠く異国の地で12年間の苦節を体験し、見事な成績だったと称賛の辞を送ります。
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昨夜は朝日新聞阪神支局がせきほう隊と名乗る人々に襲撃された映像を拝見しました。30年の間迷宮入りしているそうです。
40年前、私が食堂で夕食をしている時、朝日と毎日の若い記者二人が、大声で政治を話していたことがありました。これからの日本は、我々が世論をリードして行くのだと人はばかることなく、弁じていました。そういう話を聞いた人は、セキホウタイでなくても反感を抱くだろうと思ったものです。
どんなに優秀であると自分で思っても、そこに謙虚さがなければならないのです。
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君實自ら謂ふ、吾術を得たり。只管(ひたすら)箇の中の字を念ず、と。此又中の繋縛する所と為りしなり。且つ中は亦何の軽傷らん。人有り胸中に常に両人有るが若し。善を為さんと欲せば、悪有りて以て之が閒を為すが如く、不善を為さんと欲せば、又羞悪の心有る者の若し。本二人無し。此正に交戦の験(しるし)なり。其の志を持し気をして亂す能はざらしむるは、此大いに験ある可し。之を要するに聖賢は必ず心疾に害(そこな)はれず。『近思録』252
「わたしは心の修め方を会得した。ひたすら中ということを心に念じている。」君実は自分で言っているが、これも中に束縛されたものである。それに、中にはどういった形があるのだろう。
胸中に常に二人の人間がいるような人がある。善を行おうとすると、悪が出てきてその邪魔をするようだし、不善を行なおうとすると、悪を恥じる心が出てくるように思える。元来、本人は一人である。これはまさに交戦の姿である。心の動きを大切にし、気がそれを乱せないようにすることだ。そうすれば大いに効果が現れよう。要するに聖人賢者は決して心の病にそこなわれることがない。252
【コメント】孟子公孫丑上篇に「夫れ志は気の帥なり。気は体の充てるなり。夫れ志は至り、気はこれに次ぐ。故に曰く、其の志を持して、其の気を暴(そこな)ふなかれ、と。」とある。これに続いて孟子は「志が専一だと気を動かすし、気が専一だと志を動かす。」といって、気をそこなわないようにすることの理由を述べております。
聖人・賢者は常に心に主体性を持つので、心の乱れにわずらわされない努力をすることが要諦であるということでしょう。
昨夜の本部空手道教室も賑わいました。南国鹿児島にしては、寒い寒いといいながらおけいこをしているのですが、荘内の先生方から見たら、何が寒いかいって笑われそうです。
私も老体に鞭打って気を専一にし、最後は力一杯お腹を打たせました。小学生の子供であっても、それなりに力づよくなってきました。
兎に角元気で100歳まで生きてください、と檄を飛ばしています。平和・安全・反戦もいいのですが、厳しい規律も加えなければなりません。
少々の体罰は、人間に気をいれることになるのです。腑抜け人間にならないよう修行を続けたいものです。
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『不動心』(第177回)
人に利益を与えることが自らを利する
利益を受けるのに飽き飽きしたという人間はいない。利益というものは自然力にかなった行動をすることによって生まれてくる。それならば、人に利益を与えることによって自らも利するよう倦まずたゆまず努力せよ。
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日本精神への復帰---第7回----大川周明
そは宇宙と人生とを吾等の理性に翻譯する上に於て、東洋哲学の企及し難き手際を具へて居る。然るに東洋の哲人は、宇宙と人生とを理性に翻譯することなく、端的に自己の生命を以て把握せんと努め、其の體認せる真理を如実に表現せんとする。故に多くの場合、其文を読み、其字を解いただけでは、決して其の真義に觸るべくもない。秀でたる師家を得るの冥加なかりし未熟の予が日本精神の第一義を掴むすべもなく、みだりに独断混沌たる思想なるかの如く考えたことは慚愧限りなしと雖も偽らざる事実である。
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『言志録一』27
大志と遠慮
真に大志有る者は、克く小物を勤め、真に遠慮有る者は、細事を忽せにせず。
〔訳文〕真に大志ある者は、小さな事柄をも粗末にしないで勤めはげみ、真に遠大な考えをもっている者は、些細な事をもゆるがせにしない。
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大相撲初場所は、栃の心(30歳)が優勝しました。ご苦労様でした。遠く異国の地で12年間の苦節を体験し、見事な成績だったと称賛の辞を送ります。
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昨夜は朝日新聞阪神支局がせきほう隊と名乗る人々に襲撃された映像を拝見しました。30年の間迷宮入りしているそうです。
40年前、私が食堂で夕食をしている時、朝日と毎日の若い記者二人が、大声で政治を話していたことがありました。これからの日本は、我々が世論をリードして行くのだと人はばかることなく、弁じていました。そういう話を聞いた人は、セキホウタイでなくても反感を抱くだろうと思ったものです。
どんなに優秀であると自分で思っても、そこに謙虚さがなければならないのです。
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