味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君實自ら謂ふ、吾術を得たり。

2018-01-27 16:01:22 | ブログ
第3316号 30.01.28(日)

君實自ら謂ふ、吾術を得たり。只管(ひたすら)箇の中の字を念ず、と。此又中の繋縛する所と為りしなり。且つ中は亦何の軽傷らん。人有り胸中に常に両人有るが若し。善を為さんと欲せば、悪有りて以て之が閒を為すが如く、不善を為さんと欲せば、又羞悪の心有る者の若し。本二人無し。此正に交戦の験(しるし)なり。其の志を持し気をして亂す能はざらしむるは、此大いに験ある可し。之を要するに聖賢は必ず心疾に害(そこな)はれず。『近思録』252

 「わたしは心の修め方を会得した。ひたすら中ということを心に念じている。」君実は自分で言っているが、これも中に束縛されたものである。それに、中にはどういった形があるのだろう。
 胸中に常に二人の人間がいるような人がある。善を行おうとすると、悪が出てきてその邪魔をするようだし、不善を行なおうとすると、悪を恥じる心が出てくるように思える。元来、本人は一人である。これはまさに交戦の姿である。心の動きを大切にし、気がそれを乱せないようにすることだ。そうすれば大いに効果が現れよう。要するに聖人賢者は決して心の病にそこなわれることがない。252


 【コメント】孟子公孫丑上篇に「夫れ志は気の帥なり。気は体の充てるなり。夫れ志は至り、気はこれに次ぐ。故に曰く、其の志を持して、其の気を暴(そこな)ふなかれ、と。」とある。これに続いて孟子は「志が専一だと気を動かすし、気が専一だと志を動かす。」といって、気をそこなわないようにすることの理由を述べております。

 聖人・賢者は常に心に主体性を持つので、心の乱れにわずらわされない努力をすることが要諦であるということでしょう。

 昨夜の本部空手道教室も賑わいました。南国鹿児島にしては、寒い寒いといいながらおけいこをしているのですが、荘内の先生方から見たら、何が寒いかいって笑われそうです。

 私も老体に鞭打って気を専一にし、最後は力一杯お腹を打たせました。小学生の子供であっても、それなりに力づよくなってきました。

 兎に角元気で100歳まで生きてください、と檄を飛ばしています。平和・安全・反戦もいいのですが、厳しい規律も加えなければなりません。

 少々の体罰は、人間に気をいれることになるのです。腑抜け人間にならないよう修行を続けたいものです。

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『不動心』(第177回)

 人に利益を与えることが自らを利する

 利益を受けるのに飽き飽きしたという人間はいない。利益というものは自然力にかなった行動をすることによって生まれてくる。それならば、人に利益を与えることによって自らも利するよう倦まずたゆまず努力せよ。

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日本精神への復帰---第7回----大川周明

 そは宇宙と人生とを吾等の理性に翻譯する上に於て、東洋哲学の企及し難き手際を具へて居る。然るに東洋の哲人は、宇宙と人生とを理性に翻譯することなく、端的に自己の生命を以て把握せんと努め、其の體認せる真理を如実に表現せんとする。故に多くの場合、其文を読み、其字を解いただけでは、決して其の真義に觸るべくもない。秀でたる師家を得るの冥加なかりし未熟の予が日本精神の第一義を掴むすべもなく、みだりに独断混沌たる思想なるかの如く考えたことは慚愧限りなしと雖も偽らざる事実である。
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『言志録一』27

 大志と遠慮

 真に大志有る者は、克く小物を勤め、真に遠慮有る者は、細事を忽せにせず。

 〔訳文〕真に大志ある者は、小さな事柄をも粗末にしないで勤めはげみ、真に遠大な考えをもっている者は、些細な事をもゆるがせにしない。

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 大相撲初場所は、栃の心(30歳)が優勝しました。ご苦労様でした。遠く異国の地で12年間の苦節を体験し、見事な成績だったと称賛の辞を送ります。
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昨夜は朝日新聞阪神支局がせきほう隊と名乗る人々に襲撃された映像を拝見しました。30年の間迷宮入りしているそうです。

 40年前、私が食堂で夕食をしている時、朝日と毎日の若い記者二人が、大声で政治を話していたことがありました。これからの日本は、我々が世論をリードして行くのだと人はばかることなく、弁じていました。そういう話を聞いた人は、セキホウタイでなくても反感を抱くだろうと思ったものです。

 どんなに優秀であると自分で思っても、そこに謙虚さがなければならないのです。
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此の如き者は、只是れ徳孤なればなり。

2018-01-27 11:59:59 | ブログ
第3315号 30.01.27(土)

此の如き者は、只是れ徳孤なればなり。徳は孤ならず、必ず鄰(となり)有り。徳の盛なるに到りし後、自ら窒(ちつ)(がい)無く左右其の原(みなもと)に逢はん。『近思録』248

 そのままにしておけばよいものを、余計な手出しをして、却って事を害う気持ちが起きるのは、自分の徳が孤独になっているためである。しかし、徳は孤独なものではなく、必ず同類ができる。徳が立派になると、障害は自然になくなり、左右どちらに行っても、道の本源に出会うようになる。248

 【コメント】徳は自分の所にとどまっているものではなく、必ず周囲に影響を及ぼして、同類を作っていくとあるように、『論語』里仁篇にも「徳は孤立せず、必ず類を以て応じる」とあります。

 人生において人々に良い影響を与えるものは、自然に人々へと伝わり、日々に取り入れられて活用されるということでしょう。
 お互いが幸せを感じられるものは人々への普及は喜ばしいことですが、人々を不幸にしたり、損失を蒙るのは歓迎されないでしょう。このような事は、思考を回らせればすぐ理解できるのに、短絡的に悪に走る人の気持ちがわかりません。

 昨夜、深夜、19歳のアルバイト女性が、32歳の通行人を自動車で引いたとのことです。今頃は警察でしおれ切っていることでしょう。
 79歳の私も、夜にも運転しますが、大きな声だしをしています。「信号ヨシ、歩行者ナシ、ブレーキヨシ、、スピードヨシ、安全運転ヨシ」という具合に大声で叫んでいます。

 昨年の免許切り替えの際は、自動車学校の先生が、いいですね、と称賛してくれました。声を出した後で、こんな元気のいい声だったのかと自分でも驚いています。皆さん、声出し運転を致しましょう。

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『不動心』(第176回)

 「見返り」をなぜ求めるのか

 理性的思考と社会的能力にてらしても思慮に欠け、同胞への情愛にも欠けていると映る者は、劣悪な人間だと宣告されても止むを得ない。
 何かよいことをして、誰かがその恩恵をこうむったとする。その際、どうして馬鹿者がするように、親切に対する喝采だとか見返りといったものまでほしがろうとするのか。

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日本精神への復帰-----第6回---大川周明

 予の若き魂が是の如きものによって何等の感激を與へられなかったのは是非なき次第なりと言わねばならぬ。予は唯だ哲学を修むる者の止むなき義務として、一応は其等の諸著を渉猟したが、至心に求めつつありしものを之によって満足せしめられなかった。
 加ふるに獨り日本と言はず、総じて東洋の思想は幽玄難解である。西欧思想は、其の思索の対象を悉く概念に分析し之を整然たる組織の下に叙述するが故に、少なくとも吾等の理性にとりて容認甚だやさしくある。

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『言志録一』26

 慮事と処事

 事を慮(おもんばか)るは周到ならんことを欲し、事を処するは易簡ならんことを欲す。

 〔訳文〕物事を考える場合は周到綿密なることが必要だ。一旦考えがきまったからは、これを行うには、手軽に片付けることが必要だ。
 それには、一、自分の力量を知る。二、対手の実力を知る。三、時勢を知る。四、場所のよしあしを知る。

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