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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

尚書は看難し。

2018-01-16 17:45:35 | ブログ
第3305号 30.01.17(水)

尚書は看難し。蓋し胸臆の此の如く大なるを得難ければなり。只義を解かんと欲するのみならば、則ち難きこと無し。『近思録』229

 書経は難しい。というのは、読むものの心がそれほどに大きくなりえないからだ。文字の意味を解こうとするだけなら、むずかしいことはない。

 【コメント】書経は難しい、とありますが、漢籍は全部難しいと思います。どんなに難しくても、読み続け書き写し続けることが大事だと思います。要はやるかやらないかだと思います。

 難解なものに取組んで分からなくても、ギャンブルに負けたのを思えば建設的なのです。昨日も書きましたが、家庭崩壊へと突き進む危険性のある遊び事を制度化する人がいることは残念です。

 朱子は書経の難しさについて、例をあげ、こう言っている。「堯典の『克(よ)く俊徳を明かにして以て九族を親しましむ。』から『黎民於変り時(こ)れやはらぐ。』に至るまで、その展開がかなり大きい。『義和に分ち命じて四時を定め歳を成さしむ。』は心に三六五度四分度の一の天を包み持っているのだ。」書経は規模が大きいので、それだけの予備知識を持たないことには理解しにくいというのである、とあります。  
 とにかく書経に関係するこういう文言を学びの一貫として書き続けることが大事だということなのでしょう。頁230

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『不動心』(第167回)

 処世術はレスリングに似ている

 処世術はダンスよりもレスリングに似ている。予期せぬ攻撃にもたじろがぬよう常に警戒した姿勢をとっていなければならないから。

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「日本の婦道」----第22回

 今や婦人の参政権問題や職業問題が喧しくなって居る。そしてこれは識者のいづれも真面目に考えねばならぬことである。然しながら婦人が政治に参加したり、経済的独立の為に職を持つことが、家庭に暮らすことより貴いことである。否家庭などは家政婦にでも任して、何か社会的の地位職業につかねば女としての価値が無い様に思うのは大いなる愚見である。それは先にも述べた様に生活の真義を知らぬ為であって、第一義は常に「誠」の生活にある。職業や参政権問題は止むを得ざる第二第三義的のものである。
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『言志録一』--19

 面と背と胸と腹

 面(おもて)は冷ならんことを欲し、背は煖ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す。

〔訳文〕顔面(今は頭脳)が冷静ならば、正しい判断ができる。背中が暖いならば、熱烈、人を動かすことが出来る。虚心坦懐にして、我見がなければ、他人を容れることができる。腹が充実していれば、胆力が据わって物に動じない。人間はかくありたいものだということである。

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史を読むには、須らく聖賢存する所の治乱の機、

2018-01-16 09:58:15 | ブログ
第3304号 30.01.16(火)

史を読むには、須らく聖賢存する所の治乱の機、賢人君子の出処進退を見るべし。便(すなわ)ち是れ格物なり。『近思録』225

 史書を読むときには、聖賢が書き残しておいた治乱の兆と、賢人や君子の出処進退とを見る必要がある。それが格物(事物の理を窮めること。学問。)である。225

 【コメント】治乱は一朝にして成るものではなく、目に見えぬきざしがそれ以前にあるという。例えば、君子が退き小人が進むなど、乱のきざしである。

 『南洲翁遺訓』第六章にも、藤田東湖の論として、小人は器用であるが、組織の中枢に据えてはならないというのがあります。

 今朝の民放コマーシャルで鹿児島県内のパチンコ店が10時会館だと放映されました。これらを流す金持ち様は、賢人なのでしょうか、小人なのでしょうか。そしてまた、国会でギャンブルの延長と思える遊び場を作るのだということですが、提案者は賢人小人のいずれなのでしょうか。

 本稿では史書の読み方が述べてあるのだが、いずれもことがらの知識を陵駕し、治乱興亡の次第をよく考えて、その効果を当世に生かそうとする、いゆる実学の方向が示されている、といっていいでしょう。

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『不動心』(第166回)

 気品のある顔はその人の精神のあらわれである。

 働いているときも休んでいるときも、頑丈でゆがみのない肉体を保ちたまえ。落ち着いて気品のある顔はその人の精神の現われだが、身体についても同じことが必要だ。しかし、それをわざとらしくやってはならない。

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「日本の婦道」---第21回

 今の教育ある士女は私の目にも余りに「つつましさ」が無いと思ふ。進退坐臥ともにぴたりと身體に構へのある人に滅多に出会わない。みんなぐにゃぐにゃと四肢五體に締まりなく運動して居る。べたべたとだらし無い歩き方や、情慾に濁った妖艶な目、軽薄を暴露した才気、娼婦の様な嬌態、是の如き生活から生まれる諸々の思想も生活も皆まことではない。
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『言志録一』--18 事の妙所

 凡そ事の妙所に到るは、天然の形勢を自得するに過ぎず。此の外更に別に妙無し。

 〔訳文〕世の中の一切のことについて、その玄妙な箇所に至るといことは、自然のなりゆきを、自ら体得することに外ならない。この外にさらに妙ということきない。

 〔付記〕科学技術者が発明発見したり、詩人が自然や人情を歌いあげたり、画家が名画をかいたりすることなどは、いずれも、自然の妙理を自得してできることである。この自然の妙境を、易では自然の大道といい、仏教では諸法の実相という。

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凡そ史を読むには、

2018-01-14 17:04:38 | ブログ
第3303号 30.01.15(月)

凡そ史を読むには、徒(ただ)に事迹を記するを要するのみならず、須らく其の治乱安危・興廃存亡の理を要すべし。且(しばら)く高帝紀を讀むが如き、便(すなわ)ち須(すべか)らく漢家(かんか)四百年の終始治乱は當(まさ)に如何なるべきかを識(し)り得べし。是も亦学なり。『近思録』223

 凡そ史書を読む場合は、事件を覚えることが必要なばかりでなく、治乱安危や興廃存亡の理を知らなければならない。例えば漢書の高祖本紀を読む場合には、漢一代四〇〇年間の始まりと終わり、および治乱の次第を知らなければならない。それも学問である。224

 【コメント】上の近思録のくだりを紹介しながら、漢籍は何回も何回も読まなければならないなと肝に銘じる次第です。読むほどに楽しいです。

 荘内が近くなら致道館に行き奥座敷で、再度漢籍を読みたいと思うことしきりです。必ずその機会はあると思います。私の空手道教室で修行をしている子供たちは、多くが荘内へ行きたい、致道館へ行きたいと憧れを抱いているのです。

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『不動心』(第165回)

 自分を掘り下げてみよ

 自己を掘り下げてみよ。そこには善の泉が流れている。掘り続けたまえ。そうすれば、つきることなく湧いてくるだろう。

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「日本の婦道」---第20回

 奪うべからざる節操を有する女性は必ずつつましい。更に言えば優しい。愛は力である。そして愛は人を無我にする為に、愛の女性はその愛の生活に依って自己の犠牲を恐れない。いざという場合に臨んでも狼狽しない。彼女は常に最後の覚悟が出来ているのである。たとへば今度大正十二年九月の震災に乗じて朝鮮人の来襲が傳えられた時も、若い女の醜い狼狽に対して、老鶯のの毅然として居た者が頗る多い。沈勇・大勇と云うべきものは常に無我の誠より出づるものである。頁306
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『言志録一』-17  造化の跡

 静に造化の跡を観るに、皆な其の事無き処に行わる。

 〔訳文〕心静かに、天地万物の創造化育された跡をみると、皆少しの無理もなく、しいて事を構えたようなところが全くない。

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春秋を学ぶも亦善し。

2018-01-14 10:57:41 | ブログ
第3302号 30.01.14(日)

春秋を学ぶも亦善し。一句は是れ一事にして、是非は便(すなわ)ち此に見(あら)わる。此れ亦理を窮(きわ)むる要なり。然れども他経豈(あに)(もっ)て理を窮む可(べ)からざらん。但多経は其の義を論じ、春秋は其の行事に因りて、是非較著(こうちょ)なり。故に理を窮むるに要と為す。嘗(かつ)て学者に語(つ)げぬ、且(しばら)く先ず論語・孟子を読み、更に一経を読みて、然る後に春秋を看(み)よ。先づ箇の義理を識り得て、方(はじ)めて春秋を看る可し、と。『近思録』221

 春秋の勉強もよい。それは一句一事になっていて、是非がそこに示されているからである。これも道理を窮める際の重要なものである。しかし、ほかの経書からどうして道理が窮められなかろう。ただ、ほかの経書が道を論じるのに対して、春秋では実際によって是非が明らかになっている。故に道理を窮める際に重要なものとなるのである。かつて学生に話したことだが、まず論語・孟子を読み、さらに何か経書を一部読んで、それから春秋を読むことだ。まず道理が分ってこそ、春秋が読めるようになる。221

 【コメント】私は20年前から論語・孟子を読んできました。でも何がなんだか分からず読んでそして書き写してきただけに、先の解説にあるようには理解できていませんが、それでも他の漢籍もどうにか楽しんで読めています。

 長い一生では人は、人間関係を調和よくし楽しく有意義に進め、意義ある人生にしたいものです。自分一人だけで生きる世界ではないので、『南洲翁遺訓』と漢籍を繙いて参考にして欲しいと思います。

 私は毎日漢籍を読み、それを題材にしてブログを書いています。今日で3302号となりました。藤本先生、近思録を御読みになりませんか。こういう本から生きる力を頂いています。

 今年放映される大河ドラマの主人公西郷隆盛は、近思録を読み、敬天愛人の思想に到達したのだというのです。繙きながら、得も言えぬ有難さを感じています。

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『不動心』(第164回)

 自己に対して美しくあること

 苦境に陥ったときには、同じような目にあって憤ったり、驚いたり、泣きわめいたりした連中のことを思い浮かべてみるといい。彼等は今どこにいるのか-----すでにいなくなってしまった。では、どうして彼らの真似をしようとするのか。そんな愚行は、そうするのが好きな人やそうせずにいられない人にまかせておけ。あなたは、どうやったら災を転じて福とできるかを一生懸命考えるがいい。
 そうすればうまい方法も見つかり、苦境そのものがあなたの仕事の材料として役立つようにもなる。何を行なうにしても、自分で満足することを努力と決意の目標にすえなさい。努力と決意にとって、行動の動機はまるで重要性を持ってはいないのだ。

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「日本の婦道」--第19回

 私は先に愛は同時に内省であり、道徳的努力であることを説いた。愛の内省はやがて女性を「つつまし」くする。凡て人は内省によりて敬虔の情を生ずるものである。この敬の感情の身體に現れたものが即ち禮である。それを我々は「つつましい」といふ。そこで内省にその必然的根柢を有する道徳的努力は必ずこの敬の將を伴ふ。
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『言志録一』16  生々の道

 (う)うる者は之を培う。雨露固より生々なり。傾く者は之を覆す。霜雪も亦生々なり。

 〔訳文〕植えた食物は、之を培養してやるべきで、雨や露はいきいきとして、植物の生長を助ける。また根の傾いている植物は、倒されてしまう。倒すことを助けるのは霜や雪であるが、これらもまたいきいきとしているものである。

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詩・書は道を載する文にして、

2018-01-13 10:09:41 | ブログ
第3301号 30.01.13(土)

詩・書は道を載(の)する文にして、春秋は聖人の用なり。詩・書は薬方の如く、春秋は薬を用ひて病を治むるが如し。聖人の用は、全く此の書に在り。謂ふ所の之を行事に載することの深切著明なるに如かざる者なり。重畳(ちょうでふ)して言ふ者有り、征伐明會(せいばつめいかい)の類(るい)の如し。蓋し書を成さんと欲せば、勢須(いきおいすべか)らく此の如くなるべし。事事各異義(じじおのおのいぎ)を求む可からず。但し一字に異なる有り、或は上下の文異ならば、則ち義は須らく別なるべし。『近思録』219 

 詩経と書経とは、道を載せた書物であり、春秋は聖人の実際方面のものである。詩経と書経とは、薬の処方のようなものであり、春秋は薬を用いて治療するのに似ている。聖人の実際はすべてこの書物のうちにある。いわゆる「実際のことがらに載せたほうが確かではっきりする。」ものである。春秋の文章には再度にわたって説く箇所がある。征伐とか盟会の類がそれである。というのは、書物を作ろうとすれば、勢いそうなるであろう。読者は一事一事について異なった解釈を求めてはならない。但し、同じ文字について用い方の違いがあったり、上下の文章が違っている場合は、意味に差別があるはずだ。220

 【コメント】ここの解釈も大変高度であり、すぐには理解出来ない部分もあるようです。それでも読み続け書き写し続け理解できるようになりたいものです。くだらないギャンブルにうつつを抜かすより、より賢明ではなかろうかと思います。

 分からなくても分かるようになるためにと日々に挑めば呆けはこないと思います。そして真剣に学び続けることが、健康と長生きにつながものと確信しています。

 漢籍は二千年の長きにわたって人々に読み継がれているのです。先の大戦で敗北し、二度と戦争をしてはならないとのことでヨシとしてきた総てを放棄したことは大変残念なことです。でも善い事は取戻さなくてはならないと思います。

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『不動心』(第163回)

 運命の絵模様に織りこまれて

 運命の絵模様に織りこまれて、あなたのもとへと送られたもののみ愛しなさい。いったい他の何がもっとあなたにあさわしいというのか。頁143

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「日本の婦道」----第18回

 武士が恋を賤しんだというのは全くの嘘である。賤しんだのは恋それ自身では無くて、道ならぬ恋である真の価値なきものに対する恋である。愛する娘のひそかに恋していた男が、父もかねて天晴武士と畏敬していた人物である時、件の父は膝を叩いて流石娘出来し居ったと感嘆する。そして娘の恋が親の恋と為るであろう。その心意気嬉しいではないか。それを思へば銅臭紛々たる俗悪成功者や、「軽薄」に目鼻をつけた様なハイカラ紳士に喜んで身を許す今の多数淑女のあさましさには寧ろ苦笑を禁ずることが出来ない。
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『言志録一』15

 修辭と立誠

 辞(ことば)を修めて其の誠を立て、誠を立てて其の辞を修む。其の理一なり。
 
 〔訳文〕経書などの言葉の意味をよく修得して、誠の道を立てること、つまり精神修養に努めることと、誠の道を立てるために言葉を修得することとは、いずれも道理は同じである。

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