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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

言語を慎みて以て其の徳を養ひ、

2018-01-22 09:31:58 | ブログ
第3310号 30.01.22(月)

言語を慎みて以て其の徳を養ひ、飲食を節して以て其の體(からだ)を養ふ。事の至って近くして繋(かか)る所の至って大なる者、言語・飲食に過ぎたるは莫(な)し。『近思録』237

 言葉づかいを慎重にして徳を養い、飲食をひかえめにして身体を養う。至って卑近でありながら、影響がこの上なく大きいものは、言葉と飲食だ。237

 【コメント】この項は、易の願卦象伝の程伝にある「山下に雷有るは願なり。君子は以て言語を慎み飲食を節す。」とある。それについての説明である、とあります。

 原文の教えるところの「徳」と「飲食」は大切なことなので、心してかみしめたいものです。「飲食」は自分自身のことですが、「徳」は他人様へ発する言葉、すなわち心の提供だと考え、より慎重を期したいものです。因みに私は、相手が子供であっても出来るだけ敬語を遣うようにしています。

 その昔、20年前、「大社はるな」という女児が空手道教室にきていました。その女児に私がハイ、ハイというお返事をするものですから、はるなさんが自宅に帰ってから、母親に言うには、空手の先生はハイというが、学校の先生はウン、ウンと云うよと話されたそうです。

 はるなさんは大人になり結婚してお母さんになっているかも知れませんね、幸せをお祈りいたしたいと存じます。

 男子中学生が刃物を買い、通りがかりの女性を切りつける事件が発生しています。関係もない人を切りつけるという子供は、どういう育てられ方をしたのでしょう。自分が人から切りつけられたらと想定したら、そういう非違行為はできないでしょうに、と思います。

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『不動心』(第172回)

 ソクラテスはどんな魂を持っていたか。神の前では潔白であること以外には何も望まなかったか。他人の悪を憤ったり、無知な人間にまで服従することを避けてきたか。与えられた運命を不自然なものとか、耐えがたい苦痛とか思わずに受け入れたか。精神が肉体の経験したことに影響されないよう心がけたか----その点をよく考えるべきなのだ。
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日本精神への復帰--大川周明----第3回

 予は決して予自身の痴愚を他人の責に帰せんとするものではない。さり乍ら予をして是の如き乞食たらしめたる因縁に就いては若干闡明の必要を認める、高等学校大学を通じて、予が専心読破したるものは哲学及び宗教に関する著書であった。然るに思想問題に関する日本学者の著書は、概ね西欧思想家の紹介か、又は最後の権威を西欧思想家に於て認めて居た。
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『言志録一』---24

 人柄と書画

 心の邪正、気の強弱は、筆画之を掩こと能わず。喜怒哀楽、勤惰静躁に至りても、亦皆諸を字に形わす。一日の内自ら数字を書し、以て反観せば、亦省心の一助ならむ。

 〔訳文〕心がよこしまであるか、正しいか、また気が強いか、弱いかは、筆跡に現れるもので、これをおおい隠すことはできない。また、心の喜びや怒り、哀しみやおそれということ、および勤勉、怠惰、平静、騒然などに至るまで、皆これらは字に現れるものである。

 味園博之の見解---これらは傾向としてはあるが、絶対的ではありません。

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動息節宣は、以て生を養ふなり。

2018-01-21 09:46:25 | ブログ
第3309号 30.01.21(日)

動息節宣は、以て生を養ふなり。飲食衣服は、以て形を養ふなり。威儀行義は、以て徳を養ふなり。己を推して物に及ぼすは、以て人を養うなり。『近思録』236

 運動・休息・節制・発散は、生命を養う方法であり、飲食・衣服は肉体を養う材料であり、きちんとした態度や正しい行いは、徳を養う道であり、自分の気持ちを人に及ぼしていくのは、人を養う方法である。

 【コメント】自分が好ましいと思うことは、他人にしてあげられるし、自分が嫌だと思うことは、他人にしないという考え方は『論語』に云う恕の心であります。

 人と人とが共存する人間社会においては、自分の幸せはもとより、他人さまとの交流を大事にして共に生き甲斐或る日々の構築に努めたいものです。

 昨日の空手道教室は子供の体調が悪いとして、3人がお休みしました。それでも8人で元気よく御稽古をしました。子供たちには人をいじめないこと、悪口をいわないこと、人をみくだすようなことをしないこと、そして自殺をしてはならないとお話しました。悪口を言われたから自殺をするという行為は卑怯な手段なのです。生き抜かなければならないのです、と。

 出来るものなら『南洲翁遺訓』とか漢籍に興味をもってくださいとお話しました。そしてかねがね素読などを根気よく続けてください、そして少々のことで甘えてはならないとお話しました。

 シリアなどの国の子供たちは、何でも食べて生き抜こうとしているのです、とお話しました。贅沢をせず倹約しましょうともお話しました。

 大人になったら、単車や自動車の運転免許を手にするようになり、気に入らない運転をする人をみたら、おっかけ回しあおり運転をするような人もいますので、そういうことは絶対にしてはならないと言い聞かせました。

 数日前、28歳の青年二人が車の間に強引に割り込んだことに対してフラッシングされたことに腹を立て、大学生に暴行を加えた事件がありましたが、こういう28歳の青年のワルたちは厳罰に処すべきだと思います。

 世の常識を逸脱して社会悪を繰り返す連中は刑務所で生活させるべきだと思います。

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『不動心』(第171回)

 人情味のない人間に対して

 人情味のない人間がいても、その連中が他の人間に対して抱くような感情を、その連中に対して抱いてはいけない。 

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日本精神への復帰---第2回

 顧みれば予の貧児に倣へる彷徨は長くあった。一たび二三の外国語を修めて異邦精神の扉を開く鍵を手にしてから、予は頑是なき小児の如き喜悦を以て此鍵を濫用した。講談倶楽部、文芸倶楽部と擇ぶところなき英語の雑誌を読みて、天晴れ外国文学の研究なるかの如く考え、少しく語を強めて言うならば、価値ある研究は横文の書籍によらでは不可能なるかに考えたことなど、今に於いてこそ噴笑を禁じ得ざれ当時は大真面目であった。
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『言志録一』23

 吾方に事を処せんとす。必ず先ず心下に於て自ら数鍼を下し、然る後事に従う。

 〔訳文〕自分は事柄を片付けるにはこのようにする。すなわち十分熟慮し、後に、仕事にかかる。

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或るひと問ふ、聖は学ぶ可きか、と。

2018-01-19 16:54:05 | ブログ
第3308号 30.01.20(土)

或るひと問ふ、聖は学ぶ可(べ)きか、と。濂渓(れんけい)先生曰く、可なり、と。要有りや、と。曰く、有り、と。請問す、と。曰く、一を要と為す。一とは無欲なり。無欲ならば、則ち静なるとき虚にして動なるとき直なり。静なるとき虚ならば則ち明かに、明かならば則ち通ず。動くとき直ならば則ち公にして、公ならば則ち溥(あまね)し。明通公溥(めいつうこうふ)ならば、庶(ちか)からん、と。『近思録』234

 「聖人は学んでなれますか。」と人から問われ、濂渓先生はこう申された。「なれる。」「要領がありましょうか。」「ある。」「お教え願えますか。」「一が要領である。一とは無欲のことである。無欲だと、静かなときには心が虚であるし、動くときには心がまっすぐである。静かなとき心が虚だと、心は明るく、明るければ、ものの道理が分かる。動くとき心がまっすぐだと、心は公平になり、公平になれば、すべてに行き渡る。このように明通公溥であれば、まず聖人に近い。」

 【コメント】聖人の境地は高遠なところにあって、従前はそこに到達することが不可能とされていた。そういった雰囲気を背景にした質問である、とあります。

 無欲とは私欲を持たぬ事であり、心のなかに何もないということである。動きのないときには、正しい動きを妨げるものがなく、虚なるが故に、動きに歪曲がなく、心の純粋な姿が保たれると言う事は有益だと思います。

 凡人の我々が聖人になれる訳はありませんが、ただ只管無欲の精神で臨みたいものです。元々何もないわけですから、無欲で臨んでいる内得るものあるでしょう。それを悦びとしたいものです。

 何も人と競争する必要はありません。競い合ったわけではありませんが、同級生も後輩も次々に死亡の声が聞こえてきます。

 全国的に高齢者を狙った犯罪が多発しています。高齢者を餌にして一時的には金も入ってくるでしょうが、不浄なことをしたものはやがてその返戻が罰として来るのです。『南洲翁遺訓』が説く、清く、尊くで日々を過ごしましょう。

 そして『南洲翁遺訓』の素読を致しましょう。

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『不動心』(第170回)

 苦痛は耐えられないものでも限度のないものでもない

 苦痛を感じたときはいつでもこう考えなさい。これはちっとも恥かしいことではなく、自分の舵をとっている精神が損なわれるわけでもない。精神は、理性的な面や社会的な面では傷を受けていないのだから----。快楽主義者エピクロスの次の言葉も、たいがいの苦痛をいやす助けになるだろう。
「苦痛は耐えられないものでもなく、限りのないものでもない」

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『日本精神の研究』  「日本精神への復帰」 大川周明

 陰雲暗澹として、日本精神の天照る光、漸く影薄からんとする。人々は雲霧を披(ひら)いて白日を仰がんとせず、唯だ異邦の燈明を将来して目前の用を瓣ぜんとして居る。
 抛却自家無尽蔵、沿門持鉢倣貧兒----是れ決して個人のみのことに非ず、また實に国民に対して加へらる可き鉗鎚である。日本国民は、自国の衷(うち)に乾坤万有あるを忘れ、乞食が鉢を持して他人の門を貰い歩くやうに、真理は外国にのみ在るかの如く尋ね廻って居りはせぬか。懺悔白佛す、予自身が実に此の乞食の随一人であった。

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『言志録一』--22

 間思雑慮の紛紛擾々たるは、外物之をみだすに由るなり。常に志気をして剣の如くにして、一切の外誘を駆除し、敢て肚裏に襲い近づかざらしめば、自ずから浄潔快豁なるを覚えむ。

 〔訳文〕心に無益なことや雑多な考えが起こって、ごたごたするのは、外界の事物が心を乱すのによるのである。故に、平生から、精神を剣のように鋭利にもって、一切の外界の誘惑を駆除し、絶対に腹の中に襲い近づけるようなことをしなければ、自ずと、きれいさっぱりとした気持ちになることに気付くであろう。

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書は須らく誦を成すべし。

2018-01-18 15:29:52 | ブログ
第3307号 30.0119(金)

書は須らく誦(しょう)を成すべし。精思(せいし)するは多く夜中(やちゅう)に在り。或は静坐して之を得。記せずんば則ち思ひ起さず。但大原(ただたいげん)を通貫し得て後、書も亦記し易し。書を觀(み)る所以の者は、己の疑を釋(と)き、己の未だ達せざるを明かにするなり。見る毎(ごと)に毎(つね)に新たに益すを知らば、則ち学進まん。疑はしからざる處に於て疑有りて、方(はじ)めて是れ進むなり。『近思録』231

 書物は暗誦すべきだ。思索はおおむね夜行うが、静坐して会得することもあろう。文章を覚えなければ考えられない。但し、道の根元を貫ければ、そのあとは、書物の文章も覚えやすい。書物を読む理由は、自分の疑いを消し、不明な点を明かにすることにある。書物を読むたびに新しい益のあることを知るならば、学問が進んでいるのである。疑わしくない点で疑いを起してこそ、進歩する。231

 【コメント】書物は暗誦すべきだということは大変よいことだと思います。私は経済的理由、知的理由で高校は定時制、そして大学も出ていませんが、その為、進学した同級生らに追いつきたいという思いもあり、多くの文献を30年以上にわたり、書き写してきました。

 学び続けてきてこれほど楽しいことはなかったと振り返っています。現在元気なのも、そしてやる気があるのも、私なりに学び続けてきたお蔭だと思っています。

 そのお手本は『南洲翁遺訓』刊行の地・荘内の先生方の学ぶ姿勢・人格美に魅せられて学び続けて来た部分もあります。

 昨夜は第二道場の空手道教室でした。子供たちが元気一杯おけいこに励んでくれるので、有難く思っています。終盤の『南洲翁遺訓』発表は、五歳児・佳那子様のリーダーぶりに触発されて、先輩のお兄ちゃんたちともども大声で発表してくれるので嬉しく思っています。

 子供たちには折角の人生を一寸した油断で非違行為をしてはならないと話しています。とにかく素晴らしい子供たちです。

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『不動心』(第169回)

 真実を見つめる眼

 「いかなる魂も、故意に真実をとり逃がすことはない」といわれている。同じことが、正義や自制心や親切などの美徳についてもあてはまる。何よりもこのことを常に心に留めておきなさい。そうすれば、人に対してもっと思いやりのある行動がとれるようになる。

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「日本の婦道」---第24回

 現代の人々は婦徳といふことについて改めて深い反省を要すると思ふ。
 己を忘れて人を思ふこまやかな情愛、そこから閃く叡智の光、ゆきとどく注意、つつましく善言に耳傾ける謙虚、愛する者の為に厭はぬ労苦、洗練されたる教養、是の如き婦徳を持つ妻よ、母よ、姉妹よ。是は日本民族が世界より羨まれる家福であろう。----終---完

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『言志録一』--21

 心がふさがると百慮あやまる
 心下痞塞(しんかひそく)すれば、百慮皆錯(あやま)る。

 〔訳文〕心の奥底がふさがっていると何も善い考えがでて来なくて、すべての考えも計画も皆誤ったものになってしまう。

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書を讀むこと少なくんば、則ち由りて

2018-01-18 09:59:13 | ブログ
第3306号 30.01.18(木)

書を讀むこと少なくんば、則ち由りて義を考校(こうこう)し得ること精しき無し。蓋し書は以て此の心を維持するなり。一時放下すれば則ち一時徳性懈ること有り。書を讀めば則ち此の心常に在り、書を讀まざれば、則ち終に義理を看見(みあらわ)さず。『近思録』230 

 書物をあまり読まないと、道を精細に考察することができない。それは、書物は人の心を維持するものだからである。書物から一時離れると、その間だけ、徳性について怠りが出る。書物を読めば、心は常にはっきりしているし、書物を読まなければ、道がどうにも分からない。230

 【コメント】ここにいう書とは経書を指しているのだと思います。肝要な書物を読みながら、道を求めていく。というのは、読書の目的は求道にあり、また道は読書によって得られることを言っているのだと思います。

 若い人々も含め国民挙って読書をすれば、多くの刑事事件が減少するのではないでしょうか。特に『南洲翁遺訓』も真剣に読書する対象になると思います。

 丁度二か月位前、『南洲翁遺訓』を一気に素読しました。読み終える終盤には身体が震えてきました。それは『南洲翁遺訓』の素晴らしさに感動し、酔いしれたからでした。『南洲翁遺訓』を手にして半世紀になりますが、一気に素読した時の感動は今迄味わったことのない感慨でした。

 あろうことか、西郷隆盛を顕彰する組織の代表が歴史に名を遺そうとしてのことか、『南洲翁遺訓』を改竄する事件が発生したのでした。五年位前のことです。その事件を沈静化しなければならないとして、当時の荘内南洲会理事長・小野寺時雄先生は、走り回り体調を崩し早逝したのでした。

 当時は毎晩と言っていいほど、私には電話連絡をしてくれたのでした。お付き合いして20年、本当に素晴らしい御心の先生でした。

 『南洲翁遺訓』は一見、難解ですが、読み続ければ人々の人生に明るい方向性・教えを示してくれると信じています。 

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『不動心』(第168回)

 あなたが同意を得たいと望んでいる人に対して

 あなたが同意を得たいと望んでいる人間の性格や信念を調査し、その意見や行動の目的を探ってみたまえ。そうすれば、彼らが仕方なく犯した罪を大目に見てやろうという気持ちになるか、それとも彼らの同意をとりつける気がなくなってしまうか、そのどちらかだ。

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「日本の婦道」---第23回

 家庭という社会に働く妻と職業の社会に勤める夫とに何等の貴賎は無い。彼等の要求する価値は偏に彼等の人格に依って決する。妻が家庭に住むことを夫の奴隷に甘んずるものであるなどという説は陋しい妾宅的家庭にしか通じない僻論である。若しそういう意味に婦人の自由平等ということを解するならば、人間が地上に住むことは自然の奴隷に甘んずるものであるということになって、地球を脱出しなければなるまい。
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『言志録一』-20

 精神を収斂せよ

 人の精神尽(ことごと)く面に在れば、物を逐いて妄動することを免れず。須らく精神を収斂して、諸を背に棲ましむべし。方に能く其の身を忘れて、身真に吾が有と為らん。

 〔訳文〕人の心が顔面に集中していると、外界の事物を追い廻して、まちがった行動をしがちになる。それだから、心をひきしめて、これを背中に住ませるようにして、判断に誤りを起こさないようにするべきである。物欲を忘れた我身になれば、その身こそ、外物に惑はされない本当の自分となる。

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