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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

此の如き者は、只是れ徳孤なればなり。

2018-01-27 11:59:59 | ブログ
第3315号 30.01.27(土)

此の如き者は、只是れ徳孤なればなり。徳は孤ならず、必ず鄰(となり)有り。徳の盛なるに到りし後、自ら窒(ちつ)(がい)無く左右其の原(みなもと)に逢はん。『近思録』248

 そのままにしておけばよいものを、余計な手出しをして、却って事を害う気持ちが起きるのは、自分の徳が孤独になっているためである。しかし、徳は孤独なものではなく、必ず同類ができる。徳が立派になると、障害は自然になくなり、左右どちらに行っても、道の本源に出会うようになる。248

 【コメント】徳は自分の所にとどまっているものではなく、必ず周囲に影響を及ぼして、同類を作っていくとあるように、『論語』里仁篇にも「徳は孤立せず、必ず類を以て応じる」とあります。

 人生において人々に良い影響を与えるものは、自然に人々へと伝わり、日々に取り入れられて活用されるということでしょう。
 お互いが幸せを感じられるものは人々への普及は喜ばしいことですが、人々を不幸にしたり、損失を蒙るのは歓迎されないでしょう。このような事は、思考を回らせればすぐ理解できるのに、短絡的に悪に走る人の気持ちがわかりません。

 昨夜、深夜、19歳のアルバイト女性が、32歳の通行人を自動車で引いたとのことです。今頃は警察でしおれ切っていることでしょう。
 79歳の私も、夜にも運転しますが、大きな声だしをしています。「信号ヨシ、歩行者ナシ、ブレーキヨシ、、スピードヨシ、安全運転ヨシ」という具合に大声で叫んでいます。

 昨年の免許切り替えの際は、自動車学校の先生が、いいですね、と称賛してくれました。声を出した後で、こんな元気のいい声だったのかと自分でも驚いています。皆さん、声出し運転を致しましょう。

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『不動心』(第176回)

 「見返り」をなぜ求めるのか

 理性的思考と社会的能力にてらしても思慮に欠け、同胞への情愛にも欠けていると映る者は、劣悪な人間だと宣告されても止むを得ない。
 何かよいことをして、誰かがその恩恵をこうむったとする。その際、どうして馬鹿者がするように、親切に対する喝采だとか見返りといったものまでほしがろうとするのか。

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日本精神への復帰-----第6回---大川周明

 予の若き魂が是の如きものによって何等の感激を與へられなかったのは是非なき次第なりと言わねばならぬ。予は唯だ哲学を修むる者の止むなき義務として、一応は其等の諸著を渉猟したが、至心に求めつつありしものを之によって満足せしめられなかった。
 加ふるに獨り日本と言はず、総じて東洋の思想は幽玄難解である。西欧思想は、其の思索の対象を悉く概念に分析し之を整然たる組織の下に叙述するが故に、少なくとも吾等の理性にとりて容認甚だやさしくある。

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『言志録一』26

 慮事と処事

 事を慮(おもんばか)るは周到ならんことを欲し、事を処するは易簡ならんことを欲す。

 〔訳文〕物事を考える場合は周到綿密なることが必要だ。一旦考えがきまったからは、これを行うには、手軽に片付けることが必要だ。
 それには、一、自分の力量を知る。二、対手の実力を知る。三、時勢を知る。四、場所のよしあしを知る。

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思邪無し。

2018-01-26 09:38:49 | ブログ
第3314号 30.01.26(金)

明道先生曰く、思邪(よこしま)無し。敬せざる毋かれ。只此の二句のみ、循(したが)ひて之を行はば、安得(いづく)んぞ差有らん。差有る者は、皆敬せず正しからざるに由る、と。『近思録』245

 明道先生がおっしゃった。「『思いによこしまな点がない。』『常につつしまやかでいよ。』この二つの言葉は、すなおに行っていけば、誤りが出るのは、すべてつつしまやかでないことと正しくないことによる。」 

 【コメント】『論語』為政篇に「子曰く、詩三百、一言以て之を蔽ふ。曰く、思邪無し、と。」とある。朱子の集注に程氏の説を挙げ「思邪無し」とは、誠のことだど解いてあります。

 長い人生を生き抜く上に於て冒頭の二句は大変良い言葉であります。この二句を根底において日々に取組んでいけば、成果が現れると思います。

 佳き成果を期待するときに大事な教えは『南洲翁遺訓』を学ぶことだと思います。

 鹿児島が寒いと言ったら荘内の皆様に笑われるかも知れませんが、昨夜はとにかく寒い夜でした。それでも元気の良い子供たちが御稽古に来てださり、元気よく『南洲翁遺訓』を発表致しました。

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『不動心』(第175回)

 人格の完成のために

 一日一日をこれが最後の日であるかのように暮らし、いらいらせず、感動を失わず、もったいぶったりしない---ここに人格の完成がある。
 やろうと思えばできるのに、自分の悪からは逃れようとしない。一方では、できもしないのに他人の悪からは逃れようともがいている。----人間とはなんと馬鹿げたものなのか。

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日本精神への復帰---5回

 次に井上博士の諸著を初めとし、日本の思想を叙述せるものに、予の哲学的思索の糧たり得るやうに書かれたる一冊の書籍をも見出し得なかった。唯一の予の知る例外は、村岡典嗣氏の『本居宣長』であるが、予が此書を讀んだのは、最早予自身の魂の故郷に帰来して自ら日本精神の研究に従える後のことである。其他の殆ど総ては、唯だ古人の著書より抜抄せる章句を形式的に分類羅列せるに過ぎず、説明して核心に徹せず、叙述して組織を成さず實に陳腐にして且乾燥無味なるものであった。
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『言志録一』25--

 名を求めるも避けるも非

 名を求むるに心有るは、固より非なり。名を避くるに心有るも亦非なり。

 〔訳文〕名声を求めるのに、無理な心があるのは、よろしくない。また、名声を無理に避けようとする心があるのもよろしくない。
 
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居処に恭しく、事を執りては敬み、

2018-01-25 13:48:50 | ブログ
第3313号 30.01.25(木)

居処に恭しく、事を執りては敬(つつし)み、人と忠なり。此は是れ徹条徹下の語なり。聖人には元より二語無し。『近思録』244

  家に居るときは、容貌態度をうやうやしくし、外で仕事をするときは熱心にし、人には真心をつくす。これはどこにも通じる話である。聖人はもともと嘘は言わぬものだ。244

 【コメント】この言葉は『論語』子路篇にも見えます。曰く「居処には恭しく、事を執りては敬み、人と忠なるは、夷狄に之くと雖も、棄つ可からざるなり。」と。

 大変素晴らしい言葉ですが、一応理解できたとしても、自分でかくあるべしとした場合、簡単にできないのがこの種の教えです。

 今日は午後二時過ぎからブログ書きを始めました。午前中は確定申告の研修でした。確定申告は売上金から必要経費を差し引いた利益を申告する制度ですが、私の場合、全国で一番少ない金額だと思いますが、それでも真面目に申告しなければならないのです。

 全国的に天候が悪く、暴風雨が吹き荒れているようですが、荘内の皆様は大変な吹雪にあうでしょうが、お体ご注意して頂きたいと思います。昨年私が致道館にお伺いした際も大変なお天気でした。

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李やく問ふ、毎常事に遇へば、

2018-01-24 09:35:43 | ブログ
第3312号 30.01.24(水)

李やく問ふ、毎常事に遇へば、即ち能く操存(そうぞん)の意を知る。事無き時は、如何にして存養(ぞんよう)し得熟(えじゅく)さん、と。曰く、古の人、耳の樂に於ける、目の禮に於ける、左右起居、盤・盂・几・状・銘有り戒有り。動息皆養ふ所有り。今皆此を廃せり。獨り理義の心を養ふ有るのみ。但此の涵養の意を存せよ。久しくんば則ち自ら熟せん。敬以て内を直くするは、是れ涵養の意なり、と。『近思録』241

 李やくが質問した。「いつも事に出会うと、即座に、心を失わないようにする意味がわかりましたが、何もないときには、どのようにしたら心を十分に養えましょうか。」「昔の人は、耳で音楽を聞くときも、目で礼を見るときも、いずれも心を養うよう心がけた。例えば、左に行ったり右に行ったり、立ったり坐ったりするとき、いずれも礼学に従うようにしたし、盤・盂・几・状といった道具には、銘や戒めの言葉が刻みつけてあった。このように昔は、動くにしても休むにしても、心を養うようにしたものだ。現在は、すべてそういったことがなくなり、道理で心を養うだけのことになっている。しかし、この涵養の精神は大切にせよ。涵養を続ければ、自然に心は練れて来よう。敬して心を正しくすることが、涵養の精神である。」241

 【コメント】「操存」とは心が悪に走らないように守ることであり、孟子告示上篇に「孔子曰く、操れば則ち存し、舎(す)つれば則ち亡す。出入りに時無く、其の郷を知る莫し、と。惟れ心の謂か。」とありますが時代がどれほど遷(うつ)っても悪に走らず操を保ち続けることほど大事なことはないでありましょう。

 便利なことはいいことなのですが現今は、テレビコマーシャルとかスマホなどに短絡的に走る傾向があるのはどうにか出来ないものでしょうか。

 昭和の初期に子供時代を過ごし、原始的にも似た空間に生きた我々には理解できないことが多すぎるような気が致します。

 とにかく、どういう時代であろうが、学びに越したことはないと思います。それも出来れば『南洲翁遺訓』とか漢籍がよろしいのではないかと考えます。

 荘内に住むご婦人二人が、青森に住むお年寄りと『南洲翁遺訓』の素読をするのだということで、勉強会に行くのだということをお聞きし蒙を拓かせられたのは数か月前のことでした。

 私は連日「近思録」をご紹介していますが、この勉強・道楽を辞めたらあの世行きだと思って老体に鞭打っているのです。

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『不動心』(第174回)

 日々心静かに暮らすための心術

 世間の人が耳をつんざくほどの大声でわめきたてようと、野獣が身体をこなごなに噛み砕いてしまおうと、それに屈してはならない。日々心静かに暮らすことが大事である。
 いま目の前に起こっていることは、みな理性と兄弟愛を発揮するにふさわしい材料である。われわれには自分に無関係なことなど一つも怒らないのである。

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日本精神への復帰----第4回

 例えば井上博士の日本に於ける儒教哲学を叙述せる著書に於て、西欧哲学者には皆な「氏」を附してカント氏、ヘーゲル氏、ショーペンハウエル氏とあるに対し、日本の儒者は伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春臺と凡て呼び捨てであった。また仁斎の道徳論は、グリーン氏の自我實現説と左右逢原、期せずして相合したる所に価値があると云ふやうな説明もあった。無学の青年たりし予が、西欧の哲人に衷心の敬意を拂ったのは当然のことである。
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聖賢の千言萬語は、

2018-01-23 10:51:39 | ブログ
第3311号 30.01.23(火)

聖賢の千言萬語(ばんご)は、只是れ人已に放たれし心を将(もっ)て、之を約し反覆して身に入り来らしめんことを欲す。自ら能く尋ね向上し去(ゆ)かば、下学して上達せん。『近思録』240

 聖人や賢人の多くの教えは、世の人々が放慢になった心をひきしめ、その身にたち戻らせるようにして欲しいということである。放慢になった心を求めあてて向上できるようになれば、身近な学問をして、理想に達するであろう。240

 【コメント】論語憲問篇に「子曰く、天を怨まず、人を咎めず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か。」とあります。一足飛びに理想に達するのではなく、身近なことを一段一段と勉強して理想の境地に達すよう日々励みたいものです。

 頂点に達することも大事ですが、要は日々研鑚することこそ大事だと思います。『南洲翁遺訓』刊行の地・荘内では、人格向上を期すため素読会を頻繁に開催されているとのことです。

 素読をする人々が人格を高め、人々の範たりうる人間の姿を人々に知らしめることは素晴らしいことだと思います。ですから私の空手道教室では素読のすすめをしています。

 昨日から全国的に豪雪に会い大変な苦労を強いられています。荘内は豪雪になったのでしょうか。御苦労のことと存じます。事故等のないようにと願っています。

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『不動心』(第173回)

 限りなく神に近い人間になれる

 自然は、精神と肉体とを区別もつかぬほど混ぜ合わせてしまったわけではいから、精神が自分の領域をつくり上げ、それを支配するには何らさしつかえない。人には気づかれることなく神のような人間になることだって充分に可能なのである。このことを絶えず心に留めておくこと。同時に覚えておこう。弁証法や物理に熟達できなかったからといって、自由や自尊心や無私の気持ちや神の意志への柔順さまで、まったく得る見込みがないと自棄(やけ)をおこす理由は何一つないのだということを。

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