彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

富士の人穴探索

2022年03月21日 | 史跡
建仁3年(1203)6月4日、前日から富士の人穴を探索に行った仁田(新田)四郎忠常が帰還します。 

鎌倉時代に洞窟冒険。 
その冒険を行った武士の名前は仁田忠常(10年前に曾我兄弟の仇討ちで兄の方の曽我祐成を討ち取った人物)といい、その時の将軍・源頼家(鎌倉二代将軍)の元で豪の者と言われた人でした。 

建仁3年(1203)6月3日、富士の裾野で巻狩りを行った頼家は偶然“富士の人穴”という洞窟の存在を知って忠常に太刀を与えて探索を命じます。 
忠常は郎党5名を連れて富士の人穴へと入って行ったが、その日は結局忠常一行は戻って来ず翌4日のお昼前に疲れ果てた顔をした忠常と郎党1人がようやく帰ってきたのです。 
しかし、残りの4名の郎党と頼家が与えた太刀を失っていたのだとか・・・ 
果たして富士の人穴では何があったのでしょうか? 


忠常の話によると、洞穴は人一人がやっと通り抜けられるほどの幅で、中は松明の明かりさえ闇に呑まれるほどだったそうです。 
地面に水が流れていて、明かりに驚いた蝙蝠が無数に洞窟の中を飛び回っていた。 
足元には何か白い物がまとわりついていて、見ると縄張りを荒らされて怒った蛇が群れて襲ってくる処だったとか(想像するだけでも恐ろしい…)。 
これを刀で切り払いながら進むと突然大きな轟音がしたりする(まるで『ロード・オブ・ザ・リング』ですね)。 
やがて岩を砕くほどの激流に突当りその水は身を切る程の冷たさで渡れるモノではなかったとか… 
そして130メートルほど向こうの対岸に不思議に揺れる明かりが灯り、それを凝視した郎党4名がその場で即死したのです。 

不思議な明かりで、郎党4名を一度に失った忠常は狼狽。 
しかし、気を立て直し将軍・頼家から拝領した太刀を目の前の川に投げ入れて「南無八幡大菩薩」と唱えた。 
すると不思議な明かりは消えうせて辺りは真っ暗な闇となった。 
忠常は生き残った郎党を連れて来た道を戻りようやく地上に這い出たと言うのです。 

命からがら戻った忠常でしたが、頼家はそれには満足せずもう一度舟を持って調査するように命じました(あんた…他人の苦労を何だと思ってるんですか?)。 
しかし土地の古老がそれを聞き付けて「この人穴は浅間大菩薩の住まいと聞き及んでいます、これを汚した者は無事に済みません」と言ったので、流石の頼家も調査を中止せざる終えなかったとか(もしかしてこの古老も物の怪?)。 


以上が公式記録『吾妻鏡』の記録です。 

当然、こう言った話には因縁めいた落ちがあります。洞窟探索を行った忠常は3ヵ月後に“比企の乱”で横死し、頼家は修禅寺に流され実母・北条政子に暗殺されているのです。 
本当に浅間大菩薩の怒りに触れたのかも知れないですね。


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