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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

六波羅と井伊家

2020年05月09日 | 史跡
鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である北条仲時。
その墓を六はら山に移した井伊直定(推定)
そして、六はら山の麓に祀られている井伊直孝。

どんな歴史的背景があるのか?
考えると楽しくなってきますが、六波羅といえば六波羅探題が置かれていた京都の地も井伊家とは深い繋がりがあります。

六波羅探題の跡地の一部に建てられている六波羅蜜寺。
平清盛や空也上人の木像を観ることができることで有名ですが、それらと並んで井伊直政の木像も観ることができます。

六波羅蜜寺は戦国時代に荒れ果てていたのを、豊臣秀吉が再建した寺社の一つですが、井伊直政はここの住職秀誉に帰依しまた。
直政の死後、元和元年(1615)に、直孝が鐘楼を寄進し、彦根城築城が完成した翌年の元和9年(1623)に六波羅蜜寺本堂の南側に祥寿院と言う堂を建立して、ここに直政像と衣冠装束を安置しました。そして明治2年までは井伊家の保護は続いたとされています。
直政の戒名は「祥壽院殿清凉泰安大居士」なので、この堂が直政の為に建立された物であることは間違いありません。
ここに安置された木像は、直政の死後すぐの像であることから一番直政の様子を伝える物ではないか?とも言われています。それが現在に伝えられているのです。

そして今も、祥寿院は弁財天堂として本殿の南に残っていて「祥寿院」の扁額や橘紋の瓦を見ることができます。



深読みすると、彦根藩主にとって六波羅は大切な場所であり、北条仲時に対しても畏敬の念があったかもしれないとも考えられるかもしれません。
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5月9日、北条仲時自害

2020年05月09日 | 史跡
元弘三年(1333)5月9日、北条仲時ら432名が近江国番場の蓮華寺で自害しました。
仲時は、13代執権北条基時の子で六波羅探題北方を勤めていましたが、足利高氏の挙兵で六波羅探題が攻められ敗れたのです。
東山道を鎌倉に向かって逃れますが、野党などにも襲われ兵たちは散り散りになります。
そして、柏原に拠点を持つ佐々木道誉に阻まれ蓮華寺本堂前で自害したのです。


仲時ら432名のお墓は蓮華寺にありますが、彦根藩主が馬で墓参りに来たために、その藩主の夢枕に仲時が立ち「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と怒ったために、仲時の墓は蓮華寺向かいの山の上に移されました。

そして、蓮華寺には新たな墓石が作られました。
(新型コロナのため、蓮華寺にお参りに行けませんでした)
仲時の墓が置かれた山は「六はら山」と呼ばれています。

は蓮華寺と向かい合うようにあります。

そして近くから蓮華寺が見えます。


これは享保年間とも言われていますので、その話が正しければ、彦根藩主は井伊直定になります。
直定は、残された甲冑に武骨さがあり積極的に狩などを行う人物でもあったので、馬から降りないまま蓮華寺の参道を進んだ可能性はあるかもしれないと思えてなりません。
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