彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

9月12日、比叡山焼き討ち

2011年09月12日 | 何の日?
元亀2年(1571)9月12日、比叡山延暦寺が織田信長によって焼かれました。今年は440年目になりますね。

前年に姉川の戦いで浅井長政・朝倉義景連合軍に勝利した織田信長は、浅井領をどんどんと切り崩して行きました。それは、浅井朝倉連合軍との新たな戦いの火種を増やすことにもなったのです。

姉川の戦いに敗れたために連合軍としての結束を固めた浅井朝倉は、姉川の戦いの3か月後には逆に信長に勝利し、琵琶湖の西岸で長期戦にもつれ込んだのです。歴史上“志賀の陣”といわれる戦いで、延暦寺は浅井朝倉に積極的に味方してしまったのです。
織田信長はこのことに激怒し、志賀の陣が終わり兵を引いた跡から延暦寺を攻める算段を始めたのです。

志賀の陣が終わった時点で、信長は東山道をメインに居城である岐阜城と京都を行き来していましたが、北近江の浅井は木下秀吉の調略によって少しずつ移動し易くなっていたのに対し南近江は滅ぼしたはずの六角氏が甲賀衆を使ってゲリラ戦を強いられていたのです。そして、そのゲリラ的な作戦で信長を殺そうとした杉谷善住坊を匿ったのも延暦寺でした。
信長は、延暦寺を討つことが南近江の安定にも繋がり、全国の反信長に対する見せしめにもなると考えたのです。


元亀2年9月11日、織田信長は三井寺に本陣を置いて坂本を中心に布陣します。その数は3万だったと言われています。この動きを観て延暦寺側も根本中堂に僧兵や僧侶を集めました。

12日の朝、小雨が降っていたと言われています。日の出の頃に総攻撃の命が下され、織田勢は比叡山を駆け上がりました、この戦で比叡山の建物は悉く燃やされ、立て籠る人は非戦闘員の僧侶や女子供関係なく殺害されたと言われていて、その犠牲者は1500名から4000名とまちまちながら多く記されています。
その一方で、秀吉の部隊は寛大で、寺内に残された寺宝を持った人々は、秀吉勢に出会うと逃げることができ、多くの貴重な文化財が守られたともいわれています。
信長は翌朝に比叡山をでて京都に向かっていますので、戦は1日以内に終わってるのです。



凄惨な出来事が優先される比叡山焼き討ちですが、実際に発掘調査が行われた結果によると、発掘された形跡では、信長の時に焼かれたのは根本中堂と大講堂が確実なくらいで、あとはもっと前に焼かれていたり建物が無くなっていて信長が山内の塔500余りを焼き、その火が山を覆って9月15日まで織田勢の横暴が続いたという俗説は誇張されて伝わっている。ともされています。

比叡山延暦寺は、信長のみが焼いたのではなく、永享7年(1435)に室町幕府6代将軍足利義教に講義するために山徒24人が根本中堂に火を付けて焼いていますので、延暦寺を焼いた最初は延暦寺の関係者ですし、明応8年(1499)には細川政元が根本中堂を始めとする延暦寺の主要伽藍をほとんど焼きました。

焼き討ちと言う意味で言うならば、細川政元の方が規模も大きく不意打ちだったので、織田信長の焼き討ちが伝聞されているように大きな出来事であったのかは再検証が必要なのです。
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