
今更ですが、まだ八幡山城に登ったことがないことに気が付いて、訪問してみることにしました。
八幡山城は天正13年(1585)に、豊臣秀次が築いた城で、城下町は安土からごっそりと移転させた場所でもあります。ですから安土城下の発展系の城下でもあるのです。

そして、天正18年には浅井三姉妹の次女・初が夫の京極高次と共に入城しました。本来ならばそのまま京極家の居城になる筈でしたが、文禄4年(1595)の秀次事件で廃城となり取り壊されてしまったのです。そして京極家は大津城へと移ったのです。
そんな10年の歴史が凝縮された八幡山の麓には日牟礼八幡宮があります。
信長が始めたといわれる左義長が行われる神社です。


神社に行くとき、絵馬に注目すると楽しいです。
ここからはロープウェイがあり、一気に山頂まで行けます。

でも、今回は山登りを選択しました。3月の雪の賤ヶ岳に比べれば標高283mは大した高さでは無い気がしました。
そんな山登りの前に、麓にある豊臣秀次館址を見学しました。

桜の絨毯のようになっている八幡公園を抜けると、
古い石垣が現れます
大手道から正面に見える石垣は、敵の侵入に対し大きな精神的な威圧になります。
正面の石垣の向こうに秀次の屋敷があるそうです。
過去の豪雨による崩壊で、まだ見学できる状態ではないとのこと…
そして、八幡山城登城。
城は石垣と、瑞龍寺(村雲御所)が建っています。






拝観料は300円だったのですが、お札しか持っていなかったので、両替してもらおうと声をかけたのですが誰も出てこられず…
涙を飲んで断念しました。
しかし、この城から見る琵琶湖は絶景です。天気が良ければもっときれいだったのでしょうね。
この風景も含めて、豊臣政権における近江支配の最重要拠点だったこともあり、位置・縄張りなど、当時をしのぶ代表的な遺構のひとつと言っていいと思います。
さて、秀次から1世紀ほど遡る頃には、八幡山の城はここではなく尾根沿いの岩崎山(北之庄)にある北之庄城でした。しかし、文献による記述はほとんどみられず佐々木氏綱の次男・八幡左馬頭義昌がここに住んで、その後に六角崇永が築城したとされています。
今では観音寺城の支城のひとつと考えられています。
ここまできたついでですし、案内板があったので、寄り道してみることにしました。
八幡山城から尾根沿いに30分ほど進むと、北之庄城址があるのですが、その道は急な降り坂を転げるように降りて行きます。

やがて看板が見つかり、そこからが城跡です。
はっきり土橋とわかる遺構の左右には深い堀があります。

本丸部分と思われる七ツ池は、目をむくほどの広さを持っていました。ぱっと見て60mほどでしょうか?

虎口も3つほど存在します正面から見ると壁です。
そして城を囲う土塁も5~6mくらいの高さはあったでしょうか?
六角氏の対織田信長戦略の一つとして大幅に改築されたのではないかと考えられているようです。そうするならば織豊期の織豊系ではない城郭という面白い立場にある城郭になりますね。
城の規模からいえば、昔、男鬼城(近江高取山城)を訪れた時以来の衝撃でした。
男鬼城については学研の歴史群像シリーズ『戦国の城』の最初に紹介されているのでこれを参照してください。
北之庄城址、そのままにしておくのはもったいない城の一つです。
八幡山城は天正13年(1585)に、豊臣秀次が築いた城で、城下町は安土からごっそりと移転させた場所でもあります。ですから安土城下の発展系の城下でもあるのです。

そして、天正18年には浅井三姉妹の次女・初が夫の京極高次と共に入城しました。本来ならばそのまま京極家の居城になる筈でしたが、文禄4年(1595)の秀次事件で廃城となり取り壊されてしまったのです。そして京極家は大津城へと移ったのです。
そんな10年の歴史が凝縮された八幡山の麓には日牟礼八幡宮があります。
信長が始めたといわれる左義長が行われる神社です。


神社に行くとき、絵馬に注目すると楽しいです。

ここからはロープウェイがあり、一気に山頂まで行けます。

でも、今回は山登りを選択しました。3月の雪の賤ヶ岳に比べれば標高283mは大した高さでは無い気がしました。
そんな山登りの前に、麓にある豊臣秀次館址を見学しました。

桜の絨毯のようになっている八幡公園を抜けると、

古い石垣が現れます

大手道から正面に見える石垣は、敵の侵入に対し大きな精神的な威圧になります。

正面の石垣の向こうに秀次の屋敷があるそうです。
過去の豪雨による崩壊で、まだ見学できる状態ではないとのこと…
そして、八幡山城登城。
城は石垣と、瑞龍寺(村雲御所)が建っています。






拝観料は300円だったのですが、お札しか持っていなかったので、両替してもらおうと声をかけたのですが誰も出てこられず…
涙を飲んで断念しました。
しかし、この城から見る琵琶湖は絶景です。天気が良ければもっときれいだったのでしょうね。

この風景も含めて、豊臣政権における近江支配の最重要拠点だったこともあり、位置・縄張りなど、当時をしのぶ代表的な遺構のひとつと言っていいと思います。
さて、秀次から1世紀ほど遡る頃には、八幡山の城はここではなく尾根沿いの岩崎山(北之庄)にある北之庄城でした。しかし、文献による記述はほとんどみられず佐々木氏綱の次男・八幡左馬頭義昌がここに住んで、その後に六角崇永が築城したとされています。
今では観音寺城の支城のひとつと考えられています。
ここまできたついでですし、案内板があったので、寄り道してみることにしました。
八幡山城から尾根沿いに30分ほど進むと、北之庄城址があるのですが、その道は急な降り坂を転げるように降りて行きます。

やがて看板が見つかり、そこからが城跡です。

はっきり土橋とわかる遺構の左右には深い堀があります。

本丸部分と思われる七ツ池は、目をむくほどの広さを持っていました。ぱっと見て60mほどでしょうか?



そして城を囲う土塁も5~6mくらいの高さはあったでしょうか?

六角氏の対織田信長戦略の一つとして大幅に改築されたのではないかと考えられているようです。そうするならば織豊期の織豊系ではない城郭という面白い立場にある城郭になりますね。
城の規模からいえば、昔、男鬼城(近江高取山城)を訪れた時以来の衝撃でした。
男鬼城については学研の歴史群像シリーズ『戦国の城』の最初に紹介されているのでこれを参照してください。
北之庄城址、そのままにしておくのはもったいない城の一つです。