気になっているけどなかなか行くチャンスがなかった史跡が伊庭御殿址でした。
今回、ちょっとした興味から寄ってみることにしました。
徳川家康・秀忠・家光が、伏見城で将軍宣下を受ける時などの上洛の道中で宿泊や休憩を行った御茶屋御殿のひとつなのだそうです。
御茶屋は『信長公記』にもたびたび登場しますが、簡単に言えば偉い人の休憩や宿泊の施設です。
信長の御茶屋として、武田征伐の帰りに最後に寄った場所が彦根の山崎山城で、そのためにここは石垣造りで礎石がある織豊系城郭の跡が残っているとの話を以前に聞きました。
【山崎山城の石垣】
伊庭御殿は、建築当初はお城に近いような構造だったそうですが、今は小さな公園と御旅所でした。将軍の上洛が無くなった江戸時代のうちに建物は焼き払われてしまったそうです。


伊庭御殿から京都に向かうと次の御茶屋御殿でもある永原御殿跡にも行ってみました。

永原御殿址は外郭の水濠の跡が半分以上その形がわかるように残っているそうです。

でも、中の部分は藪に覆われて、入ることもままなりません。せっかくの史跡なのにもったいないです。

「こんな扱いで残すくらいなら、さっさと発掘調査してその後は開発したらいいのに」と思ってしまいました。史跡は大切ですが、何の役にも立たないまま今を生きる人間を締め付けるなら、そんな史跡に価値があるのか?
歴史愛着家として許されないかもしれませんが、手付かずの保存は平地では疑問に想う時もあります。
大阪などでは、史跡を調査した後に戻してその上に建物を建てることもあるそうですが、そんな工夫も狭い日本の史跡活用としては求めら得るのかもしれませんね。
時には史跡を壊す勇気も必要なのだと思います。
そんな永原御殿の地域の案内地図に唯一ある遺構は石垣が見れることでした。
建物は移築されて残っている場所もあります。
また、同じような御茶屋御殿でも、城を大名に与えて藩庁となった場所に水口城がありますから、幕府はこれらに何らかの意図をもって区別したのかもしれません。
【水口城】




御茶屋御殿は、歴史のどのような位置に置くべき史跡なのでしょうかね?
でも、伊庭御殿も永原御殿も家康や秀忠・家光が関わるのですから、大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』関連史跡です。
2011年こそ利用価値があるのでしょうね。
今回、ちょっとした興味から寄ってみることにしました。
徳川家康・秀忠・家光が、伏見城で将軍宣下を受ける時などの上洛の道中で宿泊や休憩を行った御茶屋御殿のひとつなのだそうです。
御茶屋は『信長公記』にもたびたび登場しますが、簡単に言えば偉い人の休憩や宿泊の施設です。
信長の御茶屋として、武田征伐の帰りに最後に寄った場所が彦根の山崎山城で、そのためにここは石垣造りで礎石がある織豊系城郭の跡が残っているとの話を以前に聞きました。
【山崎山城の石垣】

伊庭御殿は、建築当初はお城に近いような構造だったそうですが、今は小さな公園と御旅所でした。将軍の上洛が無くなった江戸時代のうちに建物は焼き払われてしまったそうです。


伊庭御殿から京都に向かうと次の御茶屋御殿でもある永原御殿跡にも行ってみました。

永原御殿址は外郭の水濠の跡が半分以上その形がわかるように残っているそうです。

でも、中の部分は藪に覆われて、入ることもままなりません。せっかくの史跡なのにもったいないです。

「こんな扱いで残すくらいなら、さっさと発掘調査してその後は開発したらいいのに」と思ってしまいました。史跡は大切ですが、何の役にも立たないまま今を生きる人間を締め付けるなら、そんな史跡に価値があるのか?
歴史愛着家として許されないかもしれませんが、手付かずの保存は平地では疑問に想う時もあります。
大阪などでは、史跡を調査した後に戻してその上に建物を建てることもあるそうですが、そんな工夫も狭い日本の史跡活用としては求めら得るのかもしれませんね。
時には史跡を壊す勇気も必要なのだと思います。
そんな永原御殿の地域の案内地図に唯一ある遺構は石垣が見れることでした。

建物は移築されて残っている場所もあります。
また、同じような御茶屋御殿でも、城を大名に与えて藩庁となった場所に水口城がありますから、幕府はこれらに何らかの意図をもって区別したのかもしれません。
【水口城】




御茶屋御殿は、歴史のどのような位置に置くべき史跡なのでしょうかね?
でも、伊庭御殿も永原御殿も家康や秀忠・家光が関わるのですから、大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』関連史跡です。
2011年こそ利用価値があるのでしょうね。