彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

新発見『長浜曳山祭子ども歌舞伎役者見立番付表』

2010年02月02日 | 博物館展示
2010年2月2日、長浜市曳山博物館において新発見資料『長濱神事曳山小児狂言見立觔』の所有者から博物館への寄贈式と記者発表が行われました。

…と言いますか、管理人が寄贈者です。

(発見時の記事はここをクリックして下さい)



内容は、少し読みにくくなりますが、写真右から順にこう書かれています。
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次第不同御免 版元 長濱 鍛冶屋甚八郎

長濱神事曳山小児狂言見立觔

大関 呉 関 女  前頭 呉 徳 女
関脇 魚 矢 間  同  御 お 谷
小結 神 小金吾  同  宮 長 吉
前頭 大 三 浦  同  セ 林左エ門
前頭 神 権 太  同  北 次 助
前頭 舟 長 六  同  呉 泉三郎
前頭 御 内 記  同  田 平 次
前頭 大 玉 笹  同  田 次良造
前頭 北 茂 平  同  北 久 七
          同  神 大之進
          同  北 と み

行司 瀬田町 笠原   頭取 呉服町 後藤

大関 舟 お 才  前頭 神 内 侍
関脇 瀬 宮 本  同  舟 仙太郎
小結 魚 里 ゑ  同  魚 喜 内
前頭 御 唐 木  同  宮 源 平
前頭 宮 小 梅  同  伊 宦 女
前頭 大 佐 の  同  大 軍 八
前頭 伊 仕 丁  同  セ 糸 萩
前頭 伊 小 桜  同  大 勇 助
前頭 御 桜 田  同  御 孫 八
          同  御 関 内
          同  御 太 市

勧進元 伊部町 蔵人  総後見 宮町 由平

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以下、『どんつき瓦版』19号の記事を中心に内容をご紹介します。

【資料】
・『長濱神事曳山小児狂言見立觔』(ながはましんじひきやましょうにきょうげんみたてすもう)
・大きさ:縦約35.5cm×横約49.0cm
・印刷方法:木版印刷による黒墨刷
・制作年:天保八年(1837)
・内容は上記参照

 この番付は、曳山子ども歌舞伎で演じられる歌舞伎役者の役名を使ってその優れた者を相撲番付表のようにランクを付けて紹介する物で、俗に云われる瓦版として配布された物だと考えられます。この内で行司・頭取・勧進元・後見人も役者が書かれていて番付に書かれる役者より別格に上手い者と考えられています。この一枚の中で役者以外の名前が登場するのは版元の鍛冶屋甚八郎ですが、現段階ではその詳細は不明のままです。

○演目
 演目を見るといつの時代でも喜ばれるような『義経千本桜』や『源平布引滝』というヒーロー物に近い芸題も見られます。その反面で男女の揉め事から刃傷事件にまで及ぶ『岩井風呂』、横恋慕・贋金など人間の内面をさらけ出すような『梅の由兵衛』など子ども歌舞伎として演じるにはどう表現されたのか?と考えさせられる演目もあるのです。
 また仇討物として庶民から人気がありながらも何度も上演禁止の憂き目に遭った『忠臣蔵』や同じく仇討物の『伊賀越道中双六』が演じられ、豊臣家滅亡を鎌倉時代に置き換えられた『鎌倉三代記』が彦根藩の御膝元で演じられた事に驚きを隠せません。

○評価考
 この瓦版には11の町組から44人の役者が記されています。その内容から当時の様子を勝手に推測してみましょう。
 御堂山組の諫皷山では最高の7名が書かれていますが全員前頭です。同じくらいの実力を持った役者さんが揃っていて纏まった歌舞伎が演じられていたのかもしれません。同様に大手町組の壽山は前頭5名、北町組の青海山では前頭4名が書かれています。
 行司の笠原は、宮本武蔵に剣を教えたという笠原新三郎を演じたのだと思いますが、別格扱いである他の三役(後藤・蔵人・由平)が主役であるのに対して、脇役である筈の笠原に上手い役者を選び主役である宮本が関脇だった瀬田町組の萬歳楼が演じた『駒獄武術究(巌流島)』は、まさしく舞台の上で剣ならぬ演技の指導が行われたのでしょうか?
 頭取の後藤と大関の関女という二人の看板役者(?)を、出演させている呉服町組の常盤山で子ども歌舞伎が演じられた時の見物人の目には、どれほど素晴らしい演技が映ったのでしょうか。

○時代背景
制作された年は、書かれた役者たちが出演する芸題とそれが演じられた山を照合する事によって天保八年と断定されました。
 天保八年は、一部の歴史家には幕末の始まりとも幕府安定期の終焉とも記される“大塩平八郎の乱”が2月19日に勃発し大坂の1/5を灰にしました。大塩平八郎の高弟であった宇津木矩之允は最後まで大塩の挙兵に反対したために大塩屋敷の厠で惨殺されるという悲劇的な最後を迎えます。殺害された矩之允の弟が桜田門外の変の後に彦根藩の家老として活躍する岡本半介(黄石)である事を考えると、宇津木矩之允も将来の彦根藩を担う貴重な人材の一人だったと考えられるのです。
 また、大坂だけではなく世情も大いに乱れていた時期でした。大塩平八郎の乱は最近の研究では「幕府内の不正を告発しようとしていた」とも言われていますが、この時に幕閣を動かしていたのは大老・井伊直亮と老中・水野忠邦で、二人は対立関係にあったのです。
 天保年間(1830~44)は半世紀ぶりの飢饉である“天保の大飢饉”が天保元年頃から起こり東日本を中心に飢餓が蔓延し各地で一揆が起きた時代でもあり、天保五年にはハレー彗星が天空を進み庶民は言い知れぬ不安に怯えた時期でもあったのです。近江国内では天保十三年に水口藩・三上藩領で近江天保一揆という大規模な農民蜂起が起こり、幕府検地10万日の日延べを認めさせました。
これらの不安定な要素は急に起こった物ではなく天保年間より四半世紀前には文政(文化文政年間の略)文化という影を含んだ町人主体の文化が花を咲かせた時期でもあったのです。

○『どんつき瓦版』が関わった新資料
資料はパズルと一緒かもしれません。一つひとつは時として重要であり時として何が書かれているのかいまいち解らないままの物もあります。
 そんなパーツが幾つも手元にある事で、もっと大きな組み合わせが広がり、絵が見えてきます。今回見つかった資料はまさしくそんなパズルの1ピースでした。たった一枚の瓦版の発見が長浜曳山まつりという400年以上の伝統に彩られた伝統の記録資料の一つになっただけではなく、町衆中心で、世の不安を一時でも忘れようとするかのような迫力、多種多様な演目から浮かび上がるその時代、そしてどこまでも楽しもうとした人々の心意気が伝わってきます。

 また、今までは個人の記録として残る曳山子ども歌舞伎の演目や役者の評価が、初めて瓦版という公にも配られた物に書かれていたという意味は大きな事とお聞きしました。今まで解っていた数々の出来事(例えば春日山が数年間人形山であったこと)の立証される裏付け資料にもなったそうです。
 しかし、判明した事がある分だけ新しい謎も浮かび上がってきます。この『長濱神事曳山小児狂言見立觔』が祭りの前に配られたのか? 最中に配られたのか? それとも祭りが終わった後のメモリアル的な物だったのか?
 無料なのか?有料なのか? 有料だったらその値段は幾らなのか?
 そして、この評価は鍛冶屋甚八郎の見解なのか? それとも鍛冶屋に情報を教えるアドバイザーが居たのか? そもそも鍛冶屋甚八郎とは何者なのか?
 これらの謎を解くような資料がこれからも出てくる事を期待しています。

○管理人のコメント

「寄贈者として」『どんつき瓦版』編集部 増田由季

 『どんつき瓦版』第15号が発行されてから約半年の時間が経過しました。この期間はそのまま今回ご紹介しました新資料『長濱神事曳山小児狂言見立觔』の調査に要した時間となります。
 それほどまでに時間をかけて調査された結果は、これまでのページで書きました内容ではまだ足りないくらいの大きな成果でした。
 長浜曳山祭りは、日本三大山車祭の一つに挙げられるくらいに、歴史や伝統に彩られた屈指のお祭りで春の訪れとともに待ち遠しく思っている方は少なくない筈です。
 幕末の足音が聞こえる時代の人々もその想いは一緒だったのでしょう。それが当時の最先端の流行とも言える相撲番付に見立てる方法での一種の遊びとして楽しまれたのだと勝手に推測しています。たった一枚の瓦版という紙の中に、当時の人々の笑顔や活き活きとして期待に満ちた目が入りこんだようにも感じられるのです。
 
 今回、運命の歯車に操られたようにして手に入った物でしたが、それを長浜市曳山博物館さまに持ち込み特別展示にまで至った経緯は、この『長濱神事曳山小児狂言見立觔』と題された瓦版その物の意思だったのではないか? 『どんつき瓦版』編集部はただ手伝いをさせて貰っただけだったのではないか?
とすら感じます。それならば、一番よい場所に置かれる事こそが必要なのではないか? との想いに至り無償での寄贈との選択をいたしました。
 同じような資料は、長浜を中心とする旧家のどこかにまだ眠っていると思います。今回の展示と寄贈を機に「うちにも有った」「個人的に楽しむつもりで持ってたけど、地元の為に研究に役立てて欲しい」などの多くの有志の善意によって、長浜曳山まつりが三大山車祭から“日本一伝統と歴史を重んじ、地元の意識も高い山車祭り”にレベルアップするように願っています。




さて、コメントでも書いています通り、今回の瓦版を寄贈という形をとったのは、同じ物がまだ眠っているだろうという期待を込めてのことです。
違う年のものは勿論のこと、同じ年でも版元が違うとか、評価が違うとか、まったく同じ内容があるとか、いろんなケースがあり、そんな物がたくさん長浜市曳山博物館に集まって研究されることを望んでいます。

版元ひとつ注目しても、鍛治屋が子ども歌舞伎の目利きだった可能性もありますし、嘉永六年に個人的な評価をされた西川家の資料が残っていますが、この嘉永六年の同じような見立が出た時に、西川評価と版元評価が同じなら版元のアドバイザーに西川家が入っていた可能性がありますし、別ならば評価にも個々の方法があったと考えることができるのです。

何にしても、この一枚ですべてが終わりではなく、これが差スタートとなって曳山資料がますます発掘されることを期待したいます。


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2 コメント

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♪(*^ひ^*)で (馬ひでの助)
2010-02-06 00:18:57
長浜曳山まつりはまだ見たことないんです
見に行かなくちゃいけないですね
貴重な資料の寄贈、立派です!

我が輩なら、持ってても貸すだけだろうな

頭が下がります
m(_秀_)m
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Unknown (管理人)
2010-02-06 21:56:14
>馬ひでの助さん

実際に、寄贈か委託か悩んだのですが、僕が所有権を持ったままにして博物館の研究に支障をきたす可能性や、僕自身にもしもの事があった時に、相続人が変な欲を起こすことを考えると、今のうちに寄贈して所有権を譲る方が歴史的な資料に対する本当の保存だと考えました。

研究が進む方が郷土歴史愛着家(自称・笑)として嬉しいですからね♪
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