
2009年3月7日、鳥居本公民館で宮田町の遺跡の発掘報告会が行われましたのでその内容をご紹介します。
展示されていた出土品を手で触る事ができ、しかも説明していただきながらですのでとても面白い時間でした。
縄文時代もじっくり聴いて質問すると奥が深いです。
六反田遺跡発掘調査報告会『食にまつわる縄文人の工夫と祈り』
滋賀県文化財保護協会主任:瀬口眞司さん
今日お話しますのは縄文時代の事です。縄文時代の人も私たちと同じように飯を食っていますけれども、その食にまつわる縄文人の工夫、それからどんな祈りをしていたか?という事が発掘調査からわかりましたので、それを皆さんにお伝えさせていただきます。
さて、まずは時代背景からです。
『天地人』で有名な石田三成・直江兼続が活躍したのは400年前です。彦根城は築城400年でしたね。次に卑弥呼が活躍したのが大体1800年前。もう一つ、ピラミッド・ツタンカーメンが活躍したのは3350年くらい前です。
そして六反田遺跡は3000年くらい前、ここは覚えておいてくださいツタンカーメンと一緒なんです。
まず、縄文時代はどんな時代か?
ひとつ前に“旧石器時代”がありました。この時代の主食は大型の獣(ナウマンゾウ・アケボノゾウ・オオツノジカ)でした。滋賀でも多賀でナウマンゾウの足跡が見つかったりしたりしていますが、瀬戸内海でも漁師さんが網を張ると海の底からナウマンゾウの肋骨が出てくるそうです、瀬戸内海は昔は海ではなく陸地だったのです。
旧石器の人たちはこれらの獣をハンティング、槍で殺して食べていました。これらの獣は一つの所には留まらず餌を求めて大移動します。人間はその尻を追いかけて動きまわるんです。
まとめると旧石器時代は、食べ物を求めて動きまわる、専門用語で言うと“遊動(ゆうどう)”時代でした。
縄文時代は、主食が変わり木の実を食べます。米を食べるのは次の弥生時代以降です。木の実は木になり動き回りません。木から落ちた実を食べる生活に変わり定住を始めるのです。我々は定住していますがその始まりは縄文時代なのです、縄文時代の人が定住を決めてくれなければ皆さんも今頃は遊動です。
しかし一つ問題があります。動物を追いかけている頃は年中食べ物があったのですが、木の実は秋にしか稔りません、冬から夏は拾えません、でも食事は毎日します。これが今でも変わらない大問題なのです。それなら、どうしたんだ?という事が六反田遺跡の穴で判ったのです。
六反田遺跡の場所は、現在の彦根市宮田町、近江鉄道鳥居本駅の近くの新幹線の高架沿いです。
周辺の環境として、北に今は埋め立てられてしまった入江内湖がありました。ここからは昔、丸木船が出土しましたがその大きさは長さ5m幅50cmの2~3人くらいしか乗れない船でした。丸木船は日本で120艘出ていて、一番出ているのは千葉県、二番目は滋賀県で30艘(全国の1/4)出ています。特に六反田遺跡から佐和山を越えた麓の琵琶湖までの間にあった松原内湖では15艘くらい出ています。入江内湖で出た丸木船は日本最古級の5600年前ですが、この話は長くなるので日を改めてお話しします。続いて周辺を見ると、六反田遺跡の南西には佐和山城跡があります。
これまで六反田遺跡の内容はよく判りませんでした。ところが昨年(平成19年度)の調査で今回掘った場所のもう少し北側では4000年くらい前の遺跡と、奈良時代・平安時代には色々な物資が集まるターミナルであった役割があったと思われます。
そして今年度の発掘場所は地元では“セリワラ”と呼ばれる地域でした。“セリ”はどういう場所を指すかと言えば「水が湧き出る所」というそうです。今回の調査でも水が物凄く湧きました。
そして今回の発掘場所の年代は3000年前、専門の言葉でいうと縄文時代の後期後葉から晩期前半。
発見資料は、建物5棟以上、お墓11基以上、貯蔵穴15基、土器100箱、石器25箱、それぞれの数を数えると大体2000点くらいと考えています。そして土偶が1点出てきました。
発掘を始めると普通では考えられないくらい多くの穴が出てきました。六反田はたくさん人が住んでいた都会でした。建物を発掘するとその隣にはお墓があり、縄文時代はひょっとすると家のすぐ隣にご先祖様のお墓がある感じだったのかもしれません、それは今分析中です。
建物の柱を据えた穴を発掘すると、建物1棟は上から見ると丸い形をしています。そして大きさは畳で17畳くらい、縄文人は大体一人3畳で生活していますのでここは5~6人で住んでいたと判ってきます。穴の大きさは普通ですと穴の大きさは人の顔くらいで深さは30cmあればいい方なのですが、六反田遺跡の縄文人はよく頑張っていたようで普通の遺跡の倍くらいの大きさとなる60㎝位の深い穴が掘られていました。さぞかし立派な家だったことでしょう。浅い穴だと屋根も高くないのですが深いと長い柱が据えられます二階建てという事は無いでしょうが立派なお宅であった事が判ります。
お墓は棺桶を使っていました。当時は甕を二つ合わせて中に遺体を入れて埋葬したのです。六反田遺跡ではこれが11基見つかりました。
ここからが今回のメインテーマ“貯蔵穴と土偶”です。
キーワードが3つあります。
1.食糧危機
最近、経済危機の方が叫ばれていますが、その前の洞爺湖サミットの頃は環境や食糧危機が心配されていました。ですから食糧危機は縄文時代も我々も一緒です。
縄文時代の一番の危機は“食料資源量の季節変化”です。秋にしか採れず他の季節はどうするか?という問題でした。
2.備蓄・貯蔵
これが良い形で残っていました。
3.豊穣の祈り
大問題が起こると縄文時代も神様・仏様に頼むんです、祈りをします。
お伝えしたい事は、我々はどのように危機を越えるのか?その知恵を先学(ご先祖様)に学ばせていただくという話です。
縄文時代の人がどのように危機を乗り越えていたのか?です。
“貯蔵穴(ちょぞうけつ)”と言いましたが、何を貯蔵するかと言えば食べ物です。
どんな機能があるか?と言えば木の実を貯蔵する穴です。大きさは直径1m~2m深さは50㎝。これを計算すると一番大きい貯蔵穴でだいたい1600リットルの木の実が貯蔵できます。比較対象で冷蔵庫を考えると、家の冷蔵庫の容量は300~400リットルくらいです。ですから冷蔵庫の4倍くらい入りそれが見つかっただけで15基もあるんです。ですからたくさん蓄えてましたよね。
発掘すると、何度も掘り返した跡がありました。これは木の実を蓄えて全部使うと下に溜まった土を掻き出して、また木の実を蓄えていたようです。そして掘り返しきれなかった溜まり土が残ったり取り損ねた木の実がそのまま出土したのです。
発掘された木の実を見ると真っ黒な色をしていますが、これは酸素に触れて色が変わった物で、掘った直後は茶色の木の実の色だったのです。せっかく3000年茶色だったのに掘った為に酸化したのでした。
ここでは水がコンコンと湧き出て、ポンプで出さないといけないくらいでしたらこの水が大切でした。今、食品を保存する時は塩漬けにしますが塩が無かった当時は今で言う真空パックをしていたのです。真空パックは酸素に触れさせない処置ですが、水の中にはあまり酸素がありませんので水の中に浸けると真空パックと同じ作用があり、水が木の実を3000年も木の実の色を残してくれた原因であったのでした。
ちなみに出てきた木の実は一番多いのは樫の実(イチイガシ)でした。これはちょっと水に晒すとあくが抜けて食べられる木の実でした。縄文人はちょっと手抜きですかね?たぶん周りにたくさんイチイガシがあった為だとは思うのですが。
豆知識として、貯蔵穴の一番古い例は縄文時代草創期の鹿児島東黒土田遺跡これは12000前です、これくらい前から縄文人は貯め始めました。そして寒いからなのかもしれませんが東日本の方が早くから貯め始めます、縄文時代前期には貯め始めました。関西人はのんびりしていますが貯め始めるのは4000年前です。そして段々増えて一人当たりの貯蔵量がピークに達するのは3000年前なのです。ですから六反田遺跡はぴったり合います。
滋賀県内では縄文遺跡は300近くありますが、貯蔵穴が見つかったのはたった8遺跡しかないのです。六反田はその内の一つでしかも木の実が残った例は2例しかなく、大津の穴太遺跡で27年前に見つかって以来久しぶりの事でした、通常に遺跡では植物の実は溶けてなくなるのですが豊富な地下水が酸化から守ってくれたのです。
今回の発見の意義は「自然に立ち向かう縄文人の工夫が発見できた」ということです。
四季の変化に伴って変わる食料の変化を回避するために貯蔵を回避し、六反田遺跡はそれがとてもいい状態で見つかりました。人間がどういう風に生きてきたかを教えてくれる大事な文化財だったのです。
現在の日本の自給率は40%未満であり経済封鎖をされると2か月くらいで兵糧攻めにあいます。現在いくら早稲といえどもお米が採れるのはやはり秋です。ですからそれを保存し、海外から輸入をしていますが、タンカーを動かすのは石油でこれが止まると日本は干上がってしまうので、現代人は縄文人に学ぶところがあるかも知れませんね。
ですから、縄文人も祈りました…
続いて“土偶”の話をします。
土偶は土で焼いた縄文時代の呪いの道具で、六反田遺跡からは1点出土しました。大きさは12cmでちゃんと乳房が付いていましたので女性です。それから腰がくびれて大きなお尻が付いています。でも完全体ではなく、頭・両腕・右足がありません。これはわざと折られた可能性があります。余計なことですが、県内で一番グラマーです。何の自慢にもなりませんがね(笑)
土偶の最古例はお隣の三重県です松阪市粥見井尻遺跡で12000年前に作られました。全国では数万点出ていますのでそんなに珍しくはないのですが、関西では珍しいのです。
関西地方では5000年前から出始め、4000年前からドンと増えてきます、実は3000年前はぽっかり無かったのですが、それを六反田遺跡の資料は埋めてくれました。
発見の意義ですが、これは古い神話(記紀)の話になります。
古い神話の中では、女神を殺しバラバラにします、これだけに新聞に載りますね。そしてバラバラの身体をあっちこっちに埋めるとそこから稲や豆や麦といった芽が吹き始めると言う神話が日本にありますが、日本だけではなく太平洋のあっちこっちに同じ神話があるのです。
女神の死体は食物の再生の意味があります、男では決してできないのです。この再生ということで「やはり女性は凄い」とこの神話は話しているのです。縄文時代の土偶が女性像でわざと壊しているのは、壊して埋めるんです。するとまた再生し豊穣をもたらすと考えられたと想像できます。
関西地方では土偶の変化が木の実の貯蔵量とほぼ一致するのです。ですから木の実の貯蔵の増加に伴って祈りの方も増えると考えられます。
今回は貯蔵の穴から直接出てきました。こんな例は全国を探してもどこにもなく神話を裏付けるぴったりの例でした。
まとめると、
・3000年前の村が見つかり、特に注目されるのは“貯蔵穴”と“土偶”でした。
・食糧危機の工夫を如実に表していました。
・我々のご先祖様がどのように生き抜き、我々がどのように生き抜いていけるのか?という事を考えるきっかけの一つになるのではないのかな。
という事を実感する発掘となりました。
≪質疑応答≫
(質問者)
貯蔵に水が溜まると腐るのではないですか?
(瀬口さん)
発想が逆なんです“水浸け”にするんです。水にそのまま置くと芽が出て虫が付くのですが、穴を掘って水浸けにして常に新鮮な水を流すようにすると保存でき、関西では湧水の近くに貯蔵穴が発見されます。
ところが東日本では逆に乾燥させます、囲炉裏の上に棚を作って木の実を並べます。しかし偶に棚が崩れて火事になる事もあったようで、火事になって栗が真っ黒になった発掘例もあります。
(質問者)
この辺りは昔から水が出るので、新幹線もわざわざ高架にしたという歴史がありますが、東山道はどこから繋がりますか?
(瀬口さん)
六反田遺跡よりはもうちょっと佐和山寄りで、この辺りは水が出た感じがなくその辺りが道と考えられます。
(質問者)
物を貯蔵し出したら、その事によって起こる争いの跡は遺跡から出てこないのですか?
(瀬口さん)
縄文時代に関しましてはあまり見られません、人骨やお墓から矢じりが刺さったまま出てくるのは弥生時代からです。お米を作って田を整備して水の争いなどが出てきてから武器も出てきます。縄文時代では矢じりくらいしか武器が出てきませんが、弥生時代は多く出土します。
ですから縄文時代に関しては争いの心配はあまりないのです。お米は日本の歴史を変える大きな要素だったかもしれませんね。
(どんつき瓦版編集長)
木の実をネズミに齧られたり、動物に食べられたりは結構あったのでしょうか?
(瀬口さん)
あるかもしれません、色んな工夫があるかもしれませんが、そういった観点からもう一度分析しなおす時期に来ているかもしれません。
(どんつき瓦版編集長)
弥生時代なら高床式などもありますが、水に浸くと真空化されて小動物に発見されないとか?
(瀬口さん)
そうですね、西日本は水に浸ける事によって防いでいた事はあると思います、常に新鮮な冷たい湧水だとできますね。六反田遺跡の湧水は冷たくて気持ちいです。
(管理人)
昔のシャーマンの伝統が残って、それが神社や祠という形で残ったりしますが、近くの山田神社とこういう所の関係はありますか?
(瀬口さん)
ここが3000年前で、神社が1200年くらい前なので、その間の1800年間の繋がりですね?
(管理人)
そういう物が話として残って作られた、とかあるのかな?と…
(瀬口さん)
こう言って逃げます(笑)
ここに関してはまだ分かりませんが、岐阜県の飛騨(富山との県境辺り)では石棒という物があり、これは石で作った男性の性器をたくさん作りそう言った物を作った遺跡のすぐ隣にやはり男性を祀る神社がありますので、脈々と続く場合もあります。
もっと新しい例では古墳の隣や上に神社もありますので、そういた例ではわかり易いですが、今回の山田神社との六反田遺跡については昨年掘った(もう少し神社寄りの遺跡)は関係あるかも知れませんので、担当者にふります。
そして、終了後もまだ質問しました。
(管理人)
完全体で残る土偶の方が失敗作だとは考えられますか?
(瀬口さん)
とても作りが良いのでそれは無いと思います。
(管理人)
2つあって、「こっちの方が良いからこっちにしよう」みたいな事は?
(瀬口さん)
それは持っていなかったアイデアですが、考えても面白いですね。
(どんつき瓦版編集長)
3000年前と言いますが、同じ場所に人が居るものですか?
(瀬口さん)
移動してしまう場合もありますね。例えば磯山なんかは1万年前から1万年間ずっと人が住みついています。
六反田遺跡は隣に広がっていくかも知れませんが3000年前からは移動して、どんどん鳥居本の駅に近付いているかもしれませんね。
(管理人私見)
発掘資料の中で特に面白い説明の一つが矢じりの材料でした。
湖東地域では岐阜の材料(チャート)から作られ、大津近辺では奈良(サヌカイト)の材料から作られているそうです。これを現在の同地域の新聞購読事情に重ねると、湖東地域は『中日新聞』(東海系)、湖南地域は『京都新聞』(関西系)が多く、縄文時代も現在もあまり経済圏に差がない事を知らされました。
展示されていた出土品を手で触る事ができ、しかも説明していただきながらですのでとても面白い時間でした。
縄文時代もじっくり聴いて質問すると奥が深いです。
六反田遺跡発掘調査報告会『食にまつわる縄文人の工夫と祈り』
滋賀県文化財保護協会主任:瀬口眞司さん
今日お話しますのは縄文時代の事です。縄文時代の人も私たちと同じように飯を食っていますけれども、その食にまつわる縄文人の工夫、それからどんな祈りをしていたか?という事が発掘調査からわかりましたので、それを皆さんにお伝えさせていただきます。
さて、まずは時代背景からです。
『天地人』で有名な石田三成・直江兼続が活躍したのは400年前です。彦根城は築城400年でしたね。次に卑弥呼が活躍したのが大体1800年前。もう一つ、ピラミッド・ツタンカーメンが活躍したのは3350年くらい前です。
そして六反田遺跡は3000年くらい前、ここは覚えておいてくださいツタンカーメンと一緒なんです。
まず、縄文時代はどんな時代か?
ひとつ前に“旧石器時代”がありました。この時代の主食は大型の獣(ナウマンゾウ・アケボノゾウ・オオツノジカ)でした。滋賀でも多賀でナウマンゾウの足跡が見つかったりしたりしていますが、瀬戸内海でも漁師さんが網を張ると海の底からナウマンゾウの肋骨が出てくるそうです、瀬戸内海は昔は海ではなく陸地だったのです。
旧石器の人たちはこれらの獣をハンティング、槍で殺して食べていました。これらの獣は一つの所には留まらず餌を求めて大移動します。人間はその尻を追いかけて動きまわるんです。
まとめると旧石器時代は、食べ物を求めて動きまわる、専門用語で言うと“遊動(ゆうどう)”時代でした。
縄文時代は、主食が変わり木の実を食べます。米を食べるのは次の弥生時代以降です。木の実は木になり動き回りません。木から落ちた実を食べる生活に変わり定住を始めるのです。我々は定住していますがその始まりは縄文時代なのです、縄文時代の人が定住を決めてくれなければ皆さんも今頃は遊動です。
しかし一つ問題があります。動物を追いかけている頃は年中食べ物があったのですが、木の実は秋にしか稔りません、冬から夏は拾えません、でも食事は毎日します。これが今でも変わらない大問題なのです。それなら、どうしたんだ?という事が六反田遺跡の穴で判ったのです。
六反田遺跡の場所は、現在の彦根市宮田町、近江鉄道鳥居本駅の近くの新幹線の高架沿いです。
周辺の環境として、北に今は埋め立てられてしまった入江内湖がありました。ここからは昔、丸木船が出土しましたがその大きさは長さ5m幅50cmの2~3人くらいしか乗れない船でした。丸木船は日本で120艘出ていて、一番出ているのは千葉県、二番目は滋賀県で30艘(全国の1/4)出ています。特に六反田遺跡から佐和山を越えた麓の琵琶湖までの間にあった松原内湖では15艘くらい出ています。入江内湖で出た丸木船は日本最古級の5600年前ですが、この話は長くなるので日を改めてお話しします。続いて周辺を見ると、六反田遺跡の南西には佐和山城跡があります。
これまで六反田遺跡の内容はよく判りませんでした。ところが昨年(平成19年度)の調査で今回掘った場所のもう少し北側では4000年くらい前の遺跡と、奈良時代・平安時代には色々な物資が集まるターミナルであった役割があったと思われます。
そして今年度の発掘場所は地元では“セリワラ”と呼ばれる地域でした。“セリ”はどういう場所を指すかと言えば「水が湧き出る所」というそうです。今回の調査でも水が物凄く湧きました。
そして今回の発掘場所の年代は3000年前、専門の言葉でいうと縄文時代の後期後葉から晩期前半。
発見資料は、建物5棟以上、お墓11基以上、貯蔵穴15基、土器100箱、石器25箱、それぞれの数を数えると大体2000点くらいと考えています。そして土偶が1点出てきました。
発掘を始めると普通では考えられないくらい多くの穴が出てきました。六反田はたくさん人が住んでいた都会でした。建物を発掘するとその隣にはお墓があり、縄文時代はひょっとすると家のすぐ隣にご先祖様のお墓がある感じだったのかもしれません、それは今分析中です。
建物の柱を据えた穴を発掘すると、建物1棟は上から見ると丸い形をしています。そして大きさは畳で17畳くらい、縄文人は大体一人3畳で生活していますのでここは5~6人で住んでいたと判ってきます。穴の大きさは普通ですと穴の大きさは人の顔くらいで深さは30cmあればいい方なのですが、六反田遺跡の縄文人はよく頑張っていたようで普通の遺跡の倍くらいの大きさとなる60㎝位の深い穴が掘られていました。さぞかし立派な家だったことでしょう。浅い穴だと屋根も高くないのですが深いと長い柱が据えられます二階建てという事は無いでしょうが立派なお宅であった事が判ります。
お墓は棺桶を使っていました。当時は甕を二つ合わせて中に遺体を入れて埋葬したのです。六反田遺跡ではこれが11基見つかりました。
ここからが今回のメインテーマ“貯蔵穴と土偶”です。
キーワードが3つあります。
1.食糧危機
最近、経済危機の方が叫ばれていますが、その前の洞爺湖サミットの頃は環境や食糧危機が心配されていました。ですから食糧危機は縄文時代も我々も一緒です。
縄文時代の一番の危機は“食料資源量の季節変化”です。秋にしか採れず他の季節はどうするか?という問題でした。
2.備蓄・貯蔵
これが良い形で残っていました。
3.豊穣の祈り
大問題が起こると縄文時代も神様・仏様に頼むんです、祈りをします。
お伝えしたい事は、我々はどのように危機を越えるのか?その知恵を先学(ご先祖様)に学ばせていただくという話です。
縄文時代の人がどのように危機を乗り越えていたのか?です。
“貯蔵穴(ちょぞうけつ)”と言いましたが、何を貯蔵するかと言えば食べ物です。
どんな機能があるか?と言えば木の実を貯蔵する穴です。大きさは直径1m~2m深さは50㎝。これを計算すると一番大きい貯蔵穴でだいたい1600リットルの木の実が貯蔵できます。比較対象で冷蔵庫を考えると、家の冷蔵庫の容量は300~400リットルくらいです。ですから冷蔵庫の4倍くらい入りそれが見つかっただけで15基もあるんです。ですからたくさん蓄えてましたよね。
発掘すると、何度も掘り返した跡がありました。これは木の実を蓄えて全部使うと下に溜まった土を掻き出して、また木の実を蓄えていたようです。そして掘り返しきれなかった溜まり土が残ったり取り損ねた木の実がそのまま出土したのです。
発掘された木の実を見ると真っ黒な色をしていますが、これは酸素に触れて色が変わった物で、掘った直後は茶色の木の実の色だったのです。せっかく3000年茶色だったのに掘った為に酸化したのでした。
ここでは水がコンコンと湧き出て、ポンプで出さないといけないくらいでしたらこの水が大切でした。今、食品を保存する時は塩漬けにしますが塩が無かった当時は今で言う真空パックをしていたのです。真空パックは酸素に触れさせない処置ですが、水の中にはあまり酸素がありませんので水の中に浸けると真空パックと同じ作用があり、水が木の実を3000年も木の実の色を残してくれた原因であったのでした。
ちなみに出てきた木の実は一番多いのは樫の実(イチイガシ)でした。これはちょっと水に晒すとあくが抜けて食べられる木の実でした。縄文人はちょっと手抜きですかね?たぶん周りにたくさんイチイガシがあった為だとは思うのですが。
豆知識として、貯蔵穴の一番古い例は縄文時代草創期の鹿児島東黒土田遺跡これは12000前です、これくらい前から縄文人は貯め始めました。そして寒いからなのかもしれませんが東日本の方が早くから貯め始めます、縄文時代前期には貯め始めました。関西人はのんびりしていますが貯め始めるのは4000年前です。そして段々増えて一人当たりの貯蔵量がピークに達するのは3000年前なのです。ですから六反田遺跡はぴったり合います。
滋賀県内では縄文遺跡は300近くありますが、貯蔵穴が見つかったのはたった8遺跡しかないのです。六反田はその内の一つでしかも木の実が残った例は2例しかなく、大津の穴太遺跡で27年前に見つかって以来久しぶりの事でした、通常に遺跡では植物の実は溶けてなくなるのですが豊富な地下水が酸化から守ってくれたのです。
今回の発見の意義は「自然に立ち向かう縄文人の工夫が発見できた」ということです。
四季の変化に伴って変わる食料の変化を回避するために貯蔵を回避し、六反田遺跡はそれがとてもいい状態で見つかりました。人間がどういう風に生きてきたかを教えてくれる大事な文化財だったのです。
現在の日本の自給率は40%未満であり経済封鎖をされると2か月くらいで兵糧攻めにあいます。現在いくら早稲といえどもお米が採れるのはやはり秋です。ですからそれを保存し、海外から輸入をしていますが、タンカーを動かすのは石油でこれが止まると日本は干上がってしまうので、現代人は縄文人に学ぶところがあるかも知れませんね。
ですから、縄文人も祈りました…
続いて“土偶”の話をします。
土偶は土で焼いた縄文時代の呪いの道具で、六反田遺跡からは1点出土しました。大きさは12cmでちゃんと乳房が付いていましたので女性です。それから腰がくびれて大きなお尻が付いています。でも完全体ではなく、頭・両腕・右足がありません。これはわざと折られた可能性があります。余計なことですが、県内で一番グラマーです。何の自慢にもなりませんがね(笑)
土偶の最古例はお隣の三重県です松阪市粥見井尻遺跡で12000年前に作られました。全国では数万点出ていますのでそんなに珍しくはないのですが、関西では珍しいのです。
関西地方では5000年前から出始め、4000年前からドンと増えてきます、実は3000年前はぽっかり無かったのですが、それを六反田遺跡の資料は埋めてくれました。
発見の意義ですが、これは古い神話(記紀)の話になります。
古い神話の中では、女神を殺しバラバラにします、これだけに新聞に載りますね。そしてバラバラの身体をあっちこっちに埋めるとそこから稲や豆や麦といった芽が吹き始めると言う神話が日本にありますが、日本だけではなく太平洋のあっちこっちに同じ神話があるのです。
女神の死体は食物の再生の意味があります、男では決してできないのです。この再生ということで「やはり女性は凄い」とこの神話は話しているのです。縄文時代の土偶が女性像でわざと壊しているのは、壊して埋めるんです。するとまた再生し豊穣をもたらすと考えられたと想像できます。
関西地方では土偶の変化が木の実の貯蔵量とほぼ一致するのです。ですから木の実の貯蔵の増加に伴って祈りの方も増えると考えられます。
今回は貯蔵の穴から直接出てきました。こんな例は全国を探してもどこにもなく神話を裏付けるぴったりの例でした。
まとめると、
・3000年前の村が見つかり、特に注目されるのは“貯蔵穴”と“土偶”でした。
・食糧危機の工夫を如実に表していました。
・我々のご先祖様がどのように生き抜き、我々がどのように生き抜いていけるのか?という事を考えるきっかけの一つになるのではないのかな。
という事を実感する発掘となりました。
≪質疑応答≫
(質問者)
貯蔵に水が溜まると腐るのではないですか?
(瀬口さん)
発想が逆なんです“水浸け”にするんです。水にそのまま置くと芽が出て虫が付くのですが、穴を掘って水浸けにして常に新鮮な水を流すようにすると保存でき、関西では湧水の近くに貯蔵穴が発見されます。
ところが東日本では逆に乾燥させます、囲炉裏の上に棚を作って木の実を並べます。しかし偶に棚が崩れて火事になる事もあったようで、火事になって栗が真っ黒になった発掘例もあります。
(質問者)
この辺りは昔から水が出るので、新幹線もわざわざ高架にしたという歴史がありますが、東山道はどこから繋がりますか?
(瀬口さん)
六反田遺跡よりはもうちょっと佐和山寄りで、この辺りは水が出た感じがなくその辺りが道と考えられます。
(質問者)
物を貯蔵し出したら、その事によって起こる争いの跡は遺跡から出てこないのですか?
(瀬口さん)
縄文時代に関しましてはあまり見られません、人骨やお墓から矢じりが刺さったまま出てくるのは弥生時代からです。お米を作って田を整備して水の争いなどが出てきてから武器も出てきます。縄文時代では矢じりくらいしか武器が出てきませんが、弥生時代は多く出土します。
ですから縄文時代に関しては争いの心配はあまりないのです。お米は日本の歴史を変える大きな要素だったかもしれませんね。
(どんつき瓦版編集長)
木の実をネズミに齧られたり、動物に食べられたりは結構あったのでしょうか?
(瀬口さん)
あるかもしれません、色んな工夫があるかもしれませんが、そういった観点からもう一度分析しなおす時期に来ているかもしれません。
(どんつき瓦版編集長)
弥生時代なら高床式などもありますが、水に浸くと真空化されて小動物に発見されないとか?
(瀬口さん)
そうですね、西日本は水に浸ける事によって防いでいた事はあると思います、常に新鮮な冷たい湧水だとできますね。六反田遺跡の湧水は冷たくて気持ちいです。
(管理人)
昔のシャーマンの伝統が残って、それが神社や祠という形で残ったりしますが、近くの山田神社とこういう所の関係はありますか?
(瀬口さん)
ここが3000年前で、神社が1200年くらい前なので、その間の1800年間の繋がりですね?
(管理人)
そういう物が話として残って作られた、とかあるのかな?と…
(瀬口さん)
こう言って逃げます(笑)
ここに関してはまだ分かりませんが、岐阜県の飛騨(富山との県境辺り)では石棒という物があり、これは石で作った男性の性器をたくさん作りそう言った物を作った遺跡のすぐ隣にやはり男性を祀る神社がありますので、脈々と続く場合もあります。
もっと新しい例では古墳の隣や上に神社もありますので、そういた例ではわかり易いですが、今回の山田神社との六反田遺跡については昨年掘った(もう少し神社寄りの遺跡)は関係あるかも知れませんので、担当者にふります。
そして、終了後もまだ質問しました。
(管理人)
完全体で残る土偶の方が失敗作だとは考えられますか?
(瀬口さん)
とても作りが良いのでそれは無いと思います。
(管理人)
2つあって、「こっちの方が良いからこっちにしよう」みたいな事は?
(瀬口さん)
それは持っていなかったアイデアですが、考えても面白いですね。
(どんつき瓦版編集長)
3000年前と言いますが、同じ場所に人が居るものですか?
(瀬口さん)
移動してしまう場合もありますね。例えば磯山なんかは1万年前から1万年間ずっと人が住みついています。
六反田遺跡は隣に広がっていくかも知れませんが3000年前からは移動して、どんどん鳥居本の駅に近付いているかもしれませんね。
(管理人私見)
発掘資料の中で特に面白い説明の一つが矢じりの材料でした。
湖東地域では岐阜の材料(チャート)から作られ、大津近辺では奈良(サヌカイト)の材料から作られているそうです。これを現在の同地域の新聞購読事情に重ねると、湖東地域は『中日新聞』(東海系)、湖南地域は『京都新聞』(関西系)が多く、縄文時代も現在もあまり経済圏に差がない事を知らされました。