彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

7月17日、細川ガラシャ死去

2008年07月17日 | 何の日?
大坂細川屋敷跡地とされる“越中井”


慶長5年(1600)7月17日、石田三成より人質として大坂城入城を要求された細川忠興の正室・ガラシャが大坂細川屋敷に火を放ち亡くなりました。享年38歳。
忠興の子の千丸12歳・市姫6歳も道連れになっている。


細川ガラシャといえば、織田信長を本能寺で襲った明智光秀の娘としても有名な人物で、本名は玉(または珠)、カトリックの洗礼を受けて洗礼名として「ガラシャ」をもったのです。
ちなみに、日本では明治時代より前は夫婦別姓が当然でしたので、歴史的に記すなら“明智玉”となります。
“細川ガラシャ”という名前は明治になってカトリックの方々が、彼女の殉教死を称えて贈った名前なのです。


さて、そんな細川ガラシャは・・・
元々は足利義昭の側近として仲が良かった細川藤孝と明智光秀の更に深い縁を築くために織田信長の声掛かり行われた縁組で、藤孝の嫡男・忠興に嫁いだのです15歳の時でした。
明智光秀とその正室のひろ子は美男美女の夫婦であった事もあり(ただし、ひろ子は婚礼前に疱瘡であばた顔だったそうですが・・・)、その娘である玉も絶世の美女だったそうです。
そんな玉を大切にした忠興でしたが、本能寺の変で光秀が信長を殺すと、細川藤孝は出家して“幽斎”と名乗って信長に対して哀悼の意を示し、光秀の行動を暗に否定したのでした。

この細川家の態度に不満を感じた玉でしたが何も出来ず、山崎の戦いで光秀が敗れると「逆臣の娘」となった玉を殺す話も細川家では囁かれたのです。
結局、玉は丹後味土野の山中に2年間幽閉されたのでした。


2年で玉の幽閉が終わった理由は、豊臣秀吉が大坂城下に大名屋敷を造らせ妻子を人質として住まわせたからだったのです。
幽閉の後の人質、玉の心には夫に対する不信感と孤独感が重なっていったのです。
そんな日々の中、天正15年2月21日。イエズス会の教会を訪問した玉は初めてその教えに触れ、そして魅了されたのです。
同年6月19日、秀吉が『伴天連追放令』を発布しますが、8月に玉は洗礼を受けてガラシャ(ラテン語で恩寵・神の恵み)という洗礼名を受けたのでした。
この時、既に洗礼を終えてマリアという洗礼名を持つ侍女の清原いとがガラシャの最大の友となったのです。

これまでガラシャは夫との離縁や絶望からの自害を熱望していましたが、キリスト教の教えでは「離婚や自害は許されない」と知り、その教えに従って生きる道を選んだのです。


慶長5年、関ヶ原の戦いの前。
徳川家康に従って会津征伐に向かう細川忠興は家老の小笠原秀清に「石田三成が玉を人質に求めた場合は殺せ、その死体は敵の目に晒すな」と命じて出兵したのです。
忠興はガラシャを愛するあまり、他の男の目に触れさすのを極端に嫌ったのです。

そして7月17日、細川屋敷を自らの軍勢で囲んだ三成はガラシャの大坂城入りを要求しました。
これを拒否したガラシャは、「私はキリシタンなので自害は許されません」と小笠原秀清に部屋の外から槍で胸を貫かせて亡くなったのです。
「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」との辞世を残して・・・
細川屋敷は火薬で爆破され、跡形も残りませんでした・・・


焼け跡からは女性の焼死体が発見され、これがガラシャとされたのですが、もしかしたらこの遺体は侍女の清原いとでガラシャは生きていたのではないか?と言う説があります。

この細川屋敷から生き残って逃れた家臣に稲富一夢が居て、一夢は忠興の怒りを買い細川家を追い出されて井伊直政に仕えて稲富流鉄砲術を彦根藩に伝えます。
・もし一夢が鉄砲の腕を買われて、ガラシャの警護役として生き残ったのなら?
・いくら徳川家康の右腕で外交担当とはいえ、関ヶ原での功績が大きかった細川家を追い出された一夢を召抱えるのか?(最初から細川家と井伊家の盟約があったのではないか)
謎は深まるばかりです。
ただ、この説には「男の目に触れさせるのを嫌った忠興が、一夢には許したのか? ガラシャがいとが身代わりになる事を受け入れたのか?」という疑問が残ります。
管理人としては、ガラシャを助ける計画はあったがガラシャは死を受け入れ、本来なら自害する筈の一夢は報告の責任を感じ忠興に面会。ガラシャを助けられなかった怒りで一夢を追放した細川家に対し「先の約定により」と直政が召抱え、鉄砲術の伝播を一夢に命じた・・・と考えたいのですが。


真相はどうあれ、ここで亡くなったとされた細川ガラシャの人生は、ヨーロッパにも伝わって“殉教死をする事で、暴君である夫の心を改心された”という解釈がなされ戯曲『気丈な貴婦人』として伝わったのです。

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