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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『日米修好通商条約締結150年記念式典』その1

2008年07月29日 | 講演
写真は彦根宣言調印式


平成20年7月29日
日米修好通商条約が締結された安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)から150年目の日にちなんで、『日米修好通商条約締結150年記念式典』が開催されました。
 彦根では前日の大雨を再び予感させるかのような厚い雲が空を覆う中、彦根港には琵琶湖遊覧船「ビアンカ」が、150年前に日米修好通商条約がアメリカ軍艦ポーハタン号船上で締結された故事に習い式典の舞台となるべく停泊していたのです。

午前9時半頃
 関係者から極度の緊張が走ります。
 この式典に際し、高円宮久子妃殿下ならびに承子王女殿下がお乗りになられたお車がビアンカ横に到着。両殿下はにこやかに船中へと歩んでいかれました。

 懸念されていた雨は一時期船の窓を濡らしましたがやがて止み、午前10時よりビアンカ船内において式典が始まったのです。


【実行委員会あいさつ】
○井伊直弼と開国150年祭実行委員会会長 北村昌造さん
 今から150年前の1858年7月29日、アメリカ合衆国側のタウンゼント・ハリス駐日総領事と日本側の下田奉行井上清直ならびに海防掛目付岩瀬忠震の間で日米修好通商条約が締結されています。
 こういった事から本日の式典を船上で挙行致しました。皆様にはポーハタン号での船上の調印の思いを馳せ、調印の責任者であった直弼公を、また条約調印からの150年を振り返る機会としていただきたいと思います。
 日本の混乱を極めた幕末にあって開国へと導き、また偉大な政治家であり文化人でもあった直弼公。私たちはその遺業を継承し、それを契機としてその成果を正しく次世代へ承継する為に、直弼公が大老に就任され150年を迎えた本年6月4日から桜田門外で受難された150年となる2010年3月までを期間とし『井伊直弼と開国150年祭』を開催致しております。
 開国150年祭を直弼公の国造りへの想いを引き継ぎ、彦根市が一掃活力溢れる町へと飛躍する事に繋がるものと確信しております。皆様におかれましてはどうか150年祭の成功に向けご支援・ご協力を賜りますように重ねてお礼申し上げます。
 日米両国の更なる友好関係の発展に努めることを誓い開会の挨拶と致します。

【井伊家あいさつ】
○井伊家第18代当主 井伊 直岳さん
 本日はまさに日米修好通商条約締結より150年目にあたる訳ですが、日米修好通商条約14ヶ条が調印されたのは午後3時の事とみられています。幕府全権である井上清直と岩瀬忠震の両名は前日の夜にもハリスと対談をしておりました、そして当日の午前中にはハリスとの対談を踏まえて、生みの苦しみと申しますか・・・大老井伊直弼を始めとする幕府首脳がギリギリの判断を迫られていました。そして方針が決められ幕府全権の両名(井上・岩瀬)は午後に再びハリスの許へ行き、ついにポーハタン号の船上で調印する事になったのです。
 しかし「7月29日の午後3時に調印を致しましょう」という段取りがあったわけではなく、ギリギリまで対策を練り、相手と交渉した結果、午後3時という時間になったのでしょう。
 この条約の調印は日本が開国へと大きな梶を切る歴史の分岐点へとなる大きな出来事です。未来の私たちから見れば「画期的な」あるいは「そうすべきであった」という評価もできる訳ですが、同時代を生きる人々にとっては先の見えない航海に向かうようなものであったと思います。それに対して必死になって最善策を皆が考えた。そんな時代だったのだと思います。
 無事条約が調印された時、ポーハタン号の船上では日米両国の国旗が掲げられ21発の祝砲が鳴り響いたという事です。なお『日米修好通商条約』の原本は歴史の証人として今なお外務省の外交資料館に保管され平成9年6月に国の重要文化財に指定されています。
 本日このような式典を挙行する事ができ、日本とアメリカ合衆国が今後益々友好関係を発展させ日米両国の枠だけではなく地球規模の貢献ができる事を願うばかりであります。

【高円宮妃殿下 おことば】
○高円宮久子妃殿下
 本日ここに日米修好通商条約締結150年の記念式典が挙行され、駐日アメリカ合衆国大使館公使をはじめ多数の関係の出席を得て開催され、私どもも出席できます事を大変嬉しく思います。
 今から150年前のこの日にポーハタン号船上で彦根藩の藩主であり徳川幕府の大老であった井伊直弼の責任の下、我が国が諸外国との交易・交流の門戸を開く契機となった日米修好通商条約が調印されました。郷土の生んだ先人を偲びながらその業績を検証し、併せてこれを縁として次代への飛躍を試みる事は地域の発展を図る上で意義深い事と存します。
 日本とアメリカ合衆国との関係は、近年ますます緊密になって参りました。ここ彦根にミシガン州立大学連合の日本センターが設けられているように、両国国民の交流が地方自治体段階でも活発になってきています。本日の式典をはじめ『井伊直弼と開国150年祭』が彦根市そして地域の発展に繋がる事を心より期待しております。
 日米修好通商条約締結150年となる本年、彦根市において行われている様々な行事が両国国民の相互理解と友好関係の増進に資するものとなる事を心より願って式典に寄せる私の言葉と致します。

【来賓あいさつ】
○駐日米国大使館公使 ロナルド・J・ポストさん
 まず日本人とアメリカ人が最初に出会った事を想像して下さい。日本人はアメリカの艦隊の偉大さにうたれました。そしてまた西洋諸国が中国に侵入している事も知っておりました。アメリカ人は逆に、日本人がどういう人たちなのかを知りません。
 身体的な違いもありました服装も違いました。また振舞いや言葉も違ったわけです。
 しかしながら両者の関係は続きました。タウンゼント・ハリスそして井伊直弼が修好通商条約に署名を到るまでになったのです。それが今日より150年前のことでした。
 日本人がアメリカの艦隊を見た時、それを恐れた事は間違いないと思います。そしてまた日本人は「アメリカ人が野蛮で非文明的だ」と感じたに違いありません。また逆にアメリカ人は「自分たちの方が技術もあるし、そして様々な国での経験もあるので日本人より優れている」と感じたに違いありません。しかしながら日本における未知の物はアメリカ人にとっては恐ろしい物であったと思います。
 今日我々は違う人に会った時にどういう風に思うでしょうか? 自分たちの定義や基準に合わない人たち、あるいは自分たちの言語を話さない人に会ったら、どういう反応をするでしょうか?
 用心深くなると思いますし、疑いを持って見る事もあると思います。そこでこの2つの国民が最初に遭遇した所を想像していただきたいと思います。
 それにも関わらず1860年代までにタウンゼント・ハリスは日本の相手を「友人」と呼んでいました。最初に出会ってから僅か数年後の事です。
 ハリスと井伊直弼が達成した事は、今の我々にとっても大きな意味のある事です。日米修好通商条約の署名により我々2国の将来の道が定められたと言っても良いと思います。
 その条約を「不平等条約だ」と言う人も居るかもしれません。しかしこれは現実に沿った条約であったと思います。今でも我々は違った国民ですが我々は「友人」で同盟関係は強みです。そしてお互いが貢献しています。
 アメリカと日本は民主主義大国であり2大経済大国であります。双方が協力し合ってグローバルに民主主義、そして世界の繁栄を推し進めています。両国はお互いに学び合い、お互いの文化を吸収しあっています。関係は強く深いものがあります。
 そして我々は次の世代の人々に対し(井伊直弼とタウンゼント・ハリスが行ったような)同じ様な努力をしていただきたいと思っています。それは“両国の関係の歴史を学びお互いの歴史を学習する事である”と思います。
 そのようにする事によって「色々な困難があったけれどもお互いの利益、双方の関心事項を追求し、自分たち自身の利害と一致させてきた歴史」を理解できると思います。協力する事によってたくさんの事が達成できると思います。
 21世紀には多くの課題があります、気候変動・環境劣化・不平等・疾病の蔓延・資源の枯渇といった問題が山積しています。この問題は1国で解決できるものではなくお互いに協力する必要があります。
 日本とアメリカは協力して世界に「両国が協力すればこうした問題が解決できるのだ」との見本を見せるべきです。150年前に井伊直弼とタウンゼント・ハリスが築いた関係をさらに進展させていきたいと思います。
 我々は両国の利害だけではなくて人類全体の共通の利益を追求していく事ができると思います。私は自信を持ってそれができると思っています。
 私の書いたノートには無かったのですが、琵琶湖を見ますと私の故郷(ミシガン州)を思い出します。そしてこの地域が私のミシガン州と良い関係を持っている事を誇りに思います。
 琵琶湖は世界でも偉大な湖の一つです。ミシガンもやはり五大湖の地域であります。今回私をお招きいただきありがとうございました。

○外務大臣政務官 宇野 治さん
 私は滋賀県選出の国会議員としてまた外務大臣政務官としてこの場でご挨拶ができて嬉しく思っています。
 本日は高村正彦外務大臣から預りましたメッセージを代読いたします。
「今からちょうど150年前の今日、日米修好通商条約が調印されました。これにより両国の外交・通商関係が正式に樹立され、日米関係の歴史の幕が切って落とされたわけであります。
 彦根藩主でありました江戸幕府の大老井伊直弼の多大な尽力により成し遂げられました日米修好通商条約締結は、日本が鎖国体制に終止符を打ち、世界に外交デビューしたという点で外交上重要な出来事の一つであったと言えます。
 その後、様々な分野での交流を基礎として発展してきた日米関係は現在我が国にとって最も重要な関係であります。両国の良好な関係は人と人との繋がりの上に成り立っております。
 条約の成果を検証し、井伊直弼の生涯とその功績を称える事を目的とした今回の式典は日米両国が150年かけてどの様にして交流を深めてきたかを振り返り今後の日米間の交流を考える上でよい機会であると考えております」

○滋賀県副知事 田口 宇一郎さん
 嘉田由紀子滋賀県知事から預りましたメッセージを代読させていただきます。
「1853年のペリー提督の来航は、日本の歴史上“黒船来航”としてよく知られ、また日本の開国への大きな契機となった事は申し上げるまでもありません。
 翌年横浜で日米和親条約が締結され、さらに1858年、今から150年前の本日7月29日に日米修好通商条約が締結され、5つの港の開港と通商について調印がなされました。
 時の大老は第13代藩主井伊直弼でありました。井伊大老の当時の心中に思いを巡らせますとき、時代は幕末の激動期にあり日本の将来を憂い当時欧米諸国との外交に心を砕いたご苦労は並大抵のものではなかったであろうと推察せずにはおられません。これが桜田門外の変という悲劇に繋がりましたが、ここから日本は近代国家への道を歩み続ける事になりました。
 本日ここに開国に関わりのある日米関係者の方々が一堂に会され、これまでの150年を振り返り日米の交易・交流が開始されることとなった歴史的出発点とその後の足取りを確かめあうことは世界が地球規模の環境問題・食糧問題など共通の課題を前に、各々利害を超えて協力していかなければならない時代にあって、大変有意義なものと考えます。
 滋賀県といたしましても今年はミシガン州と姉妹友好提携をして40年という記念すべき年であり、さらにミシガン州立連合日本センターが設立されて20年という年でもあります。
ミシガンセンターの方々もこの事業に参画され一緒に活動していただいている事を、大変嬉しく思っております。このような地元の皆様とミシガンセンターとの連携した取り組みは貴重なネットワークであり今後とも一層の発展を期待しております」

○ペリー提督の遠戚 ドナルド・E・ソフ・ディヴェイニーさん
 本日は私にとりましてこの上なく光栄な一日です。
 井伊直弼大老についてのお話ですが、私は昨日18代当主の井伊直岳様にお会いさせていただきました。彦根に来訪させていただき実は直弼様もそこにいらした訳です。
 昨日の嵐を覚えていらっしゃいますでしょうか? 嵐の風と共に直弼大老の魂が私の所に立ち戻って来られました。
 大津駅からのこと。そこには座っている小さな男の子が居て、その子はすぐに立ち上がりご老人に席を譲った姿を目にしたのです。私はまた深い感銘を覚えました。私はその男の子の頭を撫でました、そして「君こそここへお座り」と言いました。
 するとその男の子に「いえ、いいです。どうぞお座りください」と英語で言われてしまいました。なんとこの可愛い日本の男の子は英語を私にしゃべってくれてしかも私に席を譲ってくれたのです。
 そこで「何才ですか?」と尋ねると「13才です」との答えが返ってきました。「どこに住んでいるのですか?」と尋ねると「長浜です」と。そこで「どこへ行ってきたのですか?」と尋ねると「大阪へ行ってきました、サマースクールからの帰りです」との会話もできました。私は感動を受けました。
 彦根に到着しました。私は荷物を持っていました。
 私は高齢ですので重い荷物を引きずっていますと、その男の子が手伝ってエレベーターまで運んでくれました。私を迎えてくれた方にその男の子を紹介しようと思った途端にもう消えていました。本当はもっと褒めてあげたかったのに、黙って去って行ったのです。
 これは“一期一会”を信仰なさった井伊直弼公のスピリットそのものであります。
 “一期一会”とは人として何を行動すべきか? それは昨日の男の子がしてくれました。それはなぜか? 井伊直弼公が嵐と共にその空間にいらして下さったからです。
 私はロードアイランドから参りました。そしてもう一度井伊家に敬意を表したいと思います。
 ロードアイランド、これはミシガン州と同じ様に美しい州であります。そちらで私が育ちました。50州あるアメリカの中で最も小さな州です。ペリー提督もロードアイランドで産まれていらっしゃいます。
 ペリー提督は私の曽祖父の従兄弟です、曽祖父は植民地時代にロードアイランドの総督でした。ですから私の家系を辿りますと、アメリカ独立戦争前まで遡る事ができます。
 日本に黒船が来航してから現在まで交流があります、しかし井伊直弼公の事を今の海軍の人たちでは知らない人が居ります。ですから私はロードアイランドで「ペリー提督が貢献したように、井伊直弼がいかに貢献したか」を啓蒙活動しています。
 アメリカはこの時期、奴隷制度に終止符を打つべく南北戦争へと進む混乱の時期でありました。当時の大統領がエイブラハム・リンカーンであり多くの人がリンカーンを憎んでいました。現代ではリンカーンというのは最も愛されている大統領ですので、これは我々の驚きでした。
 しかし、南北戦争という内戦に入り結果としてリンカーン大統領は憎しみのあまり暗殺されてしまうのです、井伊直弼もそうでした。リンカーンも直弼もビジョンをお持ちでした。国のことを考え、国が第一義でした。
 アメリカ合衆国は若い国で「将来にとって最も大きなチャンスを持つのは若い国である」と自負していました。フランス・イギリスなどの列強の中で新しい国が更にビジョンを進めるには大胆な決断が必要でした。井伊直弼も同じだったのです。
 軍事力のみならず通商による力、しかしここで打ち払う事にしても軍事力(国防力)が必要であるということに考察を馳せたのが井伊直弼です。ですから現在でも日本が超大国の一国となり経済大国にもなられたのは井伊直弼のビジョンがあってのことです。
 例えば、日清戦争・日露戦争でも日本が勝利を収めた背景には井伊直弼の国防力を高めたビジョンのなせる所以です。
 私は陸軍に所属していますが、その初めの地が大津です。54年前(1954)です。かなりの高齢となりましたが今でもまだ陸軍に身を置く事ができます。アメリカの一兵卒として本日は光栄の極みです。
 重要な事が起こった場合、井伊直弼は静かに座して瞑想しそして茶を点てる。盆栽の剪定にも専心する。それらの事から我々は人間の洗練の範を学ぶことができる。と伺いました。
お盆の時期が近付いて参りました。様々な先祖の霊がこの地に戻ってくるといいます。現当主の井伊直岳さまにも申し上げたのですが、2058年には200周年になります200周年にはぜひ私の魂を呼んで頂きたいと思います。

【彦根宣言署名】
 ドナルド・E・ソフ・ディヴェイニーさんと井伊直岳さんによる彦根宣言の署名が行われました。
○彦根宣言の内容
今日2008年7月29日は、日米修好通商条約の締結から150年となります
混迷を極めた幕末にあって、日本の将来を見据えて開国へと導いた井伊直弼
偉大な政治家であり、優れた文化人であった井伊直弼
直弼の国造りへの思いは、今も私たちの心の中に引き継がれています
私たちは本日の式典の出席者を代表し、直弼が求め続けた一期一会の心を大切にしながら、新たな視点で直弼像をこの彦根から発信する事
そして直弼の遺業を時代に語り継ぐ事
更に日米両国の友好関係の発展に努めていく事を誓い
本日この場の宣言と致します


(その2へ続く)

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