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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

2月2日、浄瑠璃坂の仇討

2008年02月02日 | 何の日?
寛文12年(1672)2月2日(3日未明)、奥平源八が父の敵の奥平隼人邸に討ち入りました。


正式には「浄瑠璃坂の仇討ち」と呼ばれるこの事件は一族同士の些細な争いから始まったものでした。

事件より4年前の寛文4年2月19日に、宇都宮藩主・奥平忠昌が亡くなります。
忠昌の曽祖父である信昌は長篠の戦で長篠城を守りきった事で徳川家康の覚えがめでたく、家康の長女・亀姫を正室に迎えていたのです。
この亀姫と家康の側近となっていた本多正純の仲が悪く、亀姫が正純を追い落とす為に仕組まれた事件が有名な『宇都宮釣り天井事件』だと言われています(機会がありましたら書きます)

宇都宮釣り天井事件の後に宇都宮城に入城したのが奥平家でした。
奥平家には12家の重臣があり俗にこれを“七族五老(江戸期に「大身衆」となる)”と呼びます。この12家は長篠の戦で手柄があった事から永代的に将軍へのお目見えが許された名誉ある家だったのです。


そんな七族五老のうちで母同士が姉妹と言ういとこ同士の2家の当主が忠昌の葬儀が行われる前日に当る寛文4年3月1日に事件を起こしてしまったのです。

この時、宇都宮城下の興禅寺に集まって葬儀の打ち合わせをしていた重臣や藩士たちの前で亡君の位牌を目にした奥平隼人は「玄光院殿海印」まで読んだ所で言葉に詰まってしまったのです。
これを見た従兄弟の奥平内蔵允が「道湛大居士でござる」と助け舟を出したのですが、この声が大きかった為に結果的に隼人が無学の恥を藩士たちの前で晒す事になったのでした。
この恥を消すために隼人が「内蔵允殿は僧の方が似合ってござる」と武道よりも学問に秀でた内蔵允に言った事から普段から犬猿の仲だった二人が争う寸前までいったのですが、内蔵允が抑えて引いたので表面上は収まったのです。

しかし14日の法会の時に、“入室”の札が貼ってあるので「何と仮名をふればよいか」という議論になり、誰かが「『にふしつ(にゅうしつ)』ではないか?」と言うとまた別の人が「いやいや『じゅしつ』だろう」と主張したのです。
この日、病で息子・源八を代理として出席させようとして源八が隼人に罵られて帰宅したために病をおして列席した内蔵之允がこの“入室”争いを制して「入室とは宮方、摂家、公達、門跡の入院を称する名称故、当家等では不相応の言葉だが、仏家の慣習で『にっしつ』と読むのだ」と言ったのです。
それを聞いた隼人は「古書漁りで風邪を引くのも満更無駄ではない。流石は坊主勝り」とまた余計な事を口にしました。

これには流石に堪忍袋の緒が切れた内蔵允がついに脇差を抜いて隼人に斬りかかったのです。
しかし、隼人は武断派で内蔵允は文治派の上に病の身でしたから返り討ちに遭って内蔵允の方が傷を負ったのでした。

大切な亡君の法要で怪我人が出ては流石に事件となり、七族五老の一人である兵藤玄蕃の仲裁で双方は親戚宅に預けられる事となりました。


この後すぐに『喧嘩両成敗』で隼人・内蔵允の両名に切腹の沙汰が下れば武士の世界としては全てが納得する終わりを迎えたのですが、忠昌の跡を継いだ昌能は、忠昌が亡くなった時に藩士から殉死者が出た事を幕府から責められて蟄居中だったので藩の存続すら危ぶまれていて「跡目相続が許された後に両名を切腹とする」としか言えなかったのです。
しかし、その沙汰が下る前に内蔵允は自害してしまいこれは藩命に叛く事となるので内蔵允は藩庁に「事件の怪我による破傷風によって死亡」と届けられたのでした。


やがて昌能は宇都宮藩を召し上げて山形への転封と言う形で跡目相続が許されたのです。
事件から半年後の9月2日、「奥平隼人は改易・奥平内蔵允の息子・源八(12歳)と内蔵允の従弟の奥平伝蔵正長の両名は家禄没収の上で藩より追放」という沙汰が下りました。

納得がいかないのは源八です。
「父・内蔵允は切腹して果てたのに、隼人は改易とは言えのうのうと生きている。この判決は不公平だ!」と主張し、隼人を敵として狙う事となりました。
この仇討ちに賛成したのが奥平伝蔵と源八の叔父・夏目外記ら70余名。
そして、源八の行動を知った隼人も父・半斎、弟・主馬允と九兵衛らと共に徒党を組んだのです。


お互いに大人数を引き連れての追い追われの駆け引きが続き、翌年7月3日に藩から出ずに家臣として奥平家に残った隼人の弟・主馬允が出羽上之山はずれの坂の上で奥平伝蔵の槍で突き殺されました。

「弟を殺された隼人が源八に仕返しに来るだろう」と予測した伝蔵は一門の桑名頼母も同志に迎えて隼人の襲撃に備えますが、隼人はやってこなかったばかりか、江戸牛込の浄瑠璃坂に屋敷を構えた事が発覚したのです。


こうして寛文12年2月2日、火事装束の下に鎖南蛮を着込み、頭巾・羽織・履物の裏にいたるまで牛の皮で作った防御性の高い衣装を装備した奥平源八以下42名が浄瑠璃坂へ仇討ちに出向いたのです。

この日は風が強く、その風によって一行の不穏な気配が悟られる事がありませんでした。
屋敷の門前に到着した一行に源八が「かかれ!」と叫び、大斧で屋敷の門が打ち壊されて侵入したのです。

桑名頼母・奥平伝蔵ら21名が隼人の屋敷に掛かり、残りは隼人の父・半斎が住む建物に向かいました。
しかし、隼人宅は猫の子一匹居ない状態で、頼母・伝蔵らは歯軋りしながらも半斎邸襲撃に加わったのです。ここにも隼人は不在でしたが半斎と九兵衛を討ち取った一行。

浄瑠璃坂の屋敷を出て怪我人に護衛をつけて20名を送り出し、22名が半斎・九兵衛の首を晒して隼人が取り返しに来るのを待ちました。
すると隼人が父と弟の無残な姿に逆上し、長槍を手に駆けて来たのです。
ただ一騎駆ける隼人の後ろを20名近い武士が刀を振りかぶりながら走ってきました。

お互い20名程の人数で互角の兵力で最後の決闘が行われました。
馬から降りた隼人に頼母・伝蔵が二人掛りで挑みますが隼人は二人を相手に闘い続けます。
しかし、隙ができたところで伝蔵に追い詰められ、この場が橋の上だった事から隼人が川に飛び込み頼母・伝蔵もこれを追って川に飛び込んで闘いを続けたのです。
やがて頼母と対峙して背中に隙ができた隼人の背後から伝蔵が袈裟懸けに斬り、後ろを振り返った隼人に対して頼母が刀を突き立ててえぐったのです。
「源八、とどめ!」
と言う叫びに反応した源八が川に飛び込んで脇差を抜き、「父の仇!!」と叫んで隼人の喉を突き隼人は絶命したのでした。

橋の上にはいつの間にか集まった群衆が源八に対して拍手を送ったのです。
この中に赤穂藩の江戸留守居役・堀部弥兵衛が居たとか居ないとか・・・(この人、高田馬場の仇討ちも見てるらしいから余程の野次馬根性ですよね・汗)



この後、一行はこのまま山形に向かおうとしますが、幕府から奥平源八・奥平伝蔵・夏目外記の出頭命令が出ていたので、大老・井伊直澄の彦根藩上屋敷に出頭します。
三名は詳細を報告し切腹を希望しますが、三名の武士道に惚れた直澄は幕閣で一同の無罪を希望します。
「元々は藩主・奥平昌能の不公平な沙汰から始まり、四年の長きを耐えて本懐を遂げたのは武士の鑑である」と主張したのです。

2月21日、幕府より判決が下ります。
仇討ちについては無罪となりましたが、江戸城下を徒党を組んで騒がせた罪が問われ三名は伊豆大島に流罪となったのです。

6年後、千姫の十三回忌の恩赦で三名は罪を許され、直澄は彦根藩に奥平源八を200石迎えたのを始め三名を高禄で召抱えたのでした。
仇討ちに参加した他の人々も各藩に召抱えられますが、浄瑠璃坂の仇討ちのあった年である寛文12年の4月26日に源八の同志だった菅沼治太夫・上曽根甚五右衛門が隼人の関係者28名によって襲撃されたのです。


ちょうど30年後、堀部弥兵衛を参謀とした大石内蔵助は亡君・浅野内匠頭の仇である吉良上野介を襲ったのです。この時に浄瑠璃坂の仇討ちを参考にしたことから源八の仇討ちは『雛型忠臣蔵』とも呼ばれているのです。

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