彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「上品寺」

2008年02月20日 | 史跡
慶長12年(1607)2月20日、出雲の阿国が江戸で歌舞伎踊りを披露した事から、2月20日は“歌舞伎の日”となっています。
現在の歌舞伎に繋がる芸能は、戦国時代に京都四条河原で「出雲の阿国」が披露していた「阿国かぶき」から始まるといわれています。

当時は女性が男装する方法が主流でしたが、江戸時代に入って女役者が幕府の取締りを受け、美少年を中心とする「若衆歌舞伎」となりました、しかし、これも幕府の指導を受けて現在の形に近い「野郎歌舞伎」となったのです。


実はその他にも、江戸時代初期に女性の手で始まった芸能がありました。

それは「浄瑠璃」です。
一般的に浄瑠璃は、三味線を伴奏に太夫が語るスタイルで、これに人形が加わるモノが特に知られています。

元々、早い時期から傀儡子といわれる人々が披露していた物だったのですが江戸時代初期に小野お通という女性が『浄瑠璃物語』という作品を仕上げ、この影響を受けて類似する芸事を『浄瑠璃』と呼ぶようになりました。

ちなみに小野お通は、真田幸村の兄・信之と意気投合し生涯文通を続けた相手で、お通の娘が信之の息子の側室となっています。
余談ですが、大河ドラマ『武蔵』の原作となった吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵の恋人として登場する“お通”のモデルはこの小野お通です。
ただし実際の武蔵とお通は面識がなかったと言われています。



さて、長々と歌舞伎や浄瑠璃の話を書きましたが、実は彦根にはこういった伝統芸能で演じられる物語の素材になった話が残されていますのでご紹介しましょう。

舞台は鳥居本。
ここには悲しい昔話を残す「上品寺の法海坊の釣鐘」があります。

《江戸時代、江戸で生まれ旅を続けた法海坊は19歳の時に荒れた上品寺に住む身となりました、せっかく宿場町のお寺なのに荒れっぱなしではダメだと思った法海坊は生まれ育った江戸で寄付を募ることにしました。
托鉢で寄付を求めていた法海坊は、どういう縁か吉原の遊女の元にも赴きました。
その時期、吉原で名の売れていた花魁の一人・花里が、法海坊の説法に感動し、「もっと仏様の話を聞きたい、吉原では私が寄付を募ります」と一生懸命に奔走し、そして仲間に法海坊の話を聞かせたのです。
しかし、花里は胸の病で若くして亡くなりました。
花里の意志は、同じ様に吉原に居た妹・花扇が継ぎ、ついに上品寺再興の費用が調ったのです。

明和6年(1769)法海坊は江戸で釣鐘を作り、遊女達の名前を刻んで法海坊が自ら押しながら地車(大八車みたいな物)で江戸から鳥居本まで運びました。

上品寺の釣鐘堂も完成し翌日に鐘初めを控えた日の夜の事、あでやかな着物を着た若い女性が居ました。法海坊が不思議に思って声を掛けると、「今、鐘の中から出てまいりました、遊女に身を落とした私が、貴方にお会いできたお蔭で、今は観音菩薩のお国に住まわせて頂いています、本当にありがとうございました」と言ったのです。これは法海坊が見た夢でしたが、薄幸の花里が成仏できたお礼だったのではないでしょうか?
上品寺では、法海坊が押した地車・花里と花扇の肖像画そして花里の衣装で作った袈裟が残されています。》


国道8号線で鳥居本を通ると道沿いに上品寺の法海坊の釣鐘を見ることができます。急ぎの道中でもふっと立ち寄って悲しいお話に手を合わせてみるのも良いかもしれませんね。
コメント
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