彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直亮死去

2018年10月01日 | 井伊家関連
嘉永3年(1850)10月1日、彦根藩12代藩主井伊直亮が亡くなりました。

直亮は井伊直中の三男で母は正室南部氏。
筋目正しい嫡男となります。

今まで井伊家の数多くの藩主やその世子たちを見てきて感じる事は、「なんていい人たちばかりなんだろう」という事。
じゃあ、井伊家には暴君は居なかったの?という質問になると思います。

そんな方に「お待たせしました」と言いたいのがこの直亮です。
直亮は彦根藩主の中で唯一の暴君(暗君)とされている人物です。


直亮には直清という兄が居たのですが、直清が側室腹であったために世子の座を追われ正室腹の直亮が世子となり父直中の存命中に彦根藩主の座を継いだので大きな苦労をせずに藩主の生活を送りました。

やがて、外国船が日本近郊に多く来航すると言う時代の流れから大老に就任した直亮は、フェートン号事件やモリソン号事件の対応に追われます。
そしてモリソン号事件の対応(日本人漂流者を連れてきてくれたのに砲撃した)が国内の知識人の批判を受け大老辞任に追い込まれるのです。
ちょうどこの頃、水野忠邦が前幕閣を追い落とす画策をしていてその前幕閣のトップとなる直亮が追い落とされたのではないかとも考えられます。

こうして大老から彦根藩主としての政事が中心となった直亮は、西洋の文化を取り入れるために多くの資料を取り寄せますがこれが高価だったために藩費の使いすぎとなりました。

また文化人としても大きな意欲を示します。
少し前に湖東焼を興した絹屋半兵衛をしばらく援助した後で、藩窯として半兵衛から取り上げます。
また、時報鐘の鐘の鋳造でより良い音を出す為に多くの黄金を混ぜ込んだのです。
こうして藩費を使いすぎる事は、民衆の反発を生みました。
ただし、ただの文化狂いではなく、のちに『彦根屏風と呼ばれる国宝級の作品を手に入れる時はそれに相応しい値を提示するなど、独自の着眼点を持つ一流の文化人でもありました。

また、西洋船の来航による脅威から相模国の沿岸警備を幕府から命じられますが、これは井伊家の家格ではやる事ではなく(もっと身分が下の大名がする事だった)、尚且つ警備の兵たちは上役が見ていないところではだらけていて他藩の失笑を買ったのです。

直亮はこうして井伊家の中で暗君として名を残す事になります。
そして後継ぎに恵まれず、弟直元を養子としますが直元が若くして亡くなってしまったので仕方なく残っていた弟直弼を養子に指名しました。

しかし、直亮は直弼が嫌いだったらしく、陰険なイジメをしています。
まずは、養子として江戸に入った直弼が「男だけでは不心得もあるので妾を彦根から呼びたい」と申ししれます。
これに対して直亮の返事がなかなか来ず、しばらくして直弼が欲しても与えられなかった“笙(雅楽で使用する楽器)”が送られました。
これは“妾(しょう)”と“笙(しょう)”をかけた直亮の皮肉だったと言われています。

また、直弼が養子として最初に仕事となったのは弘化4(1847)年1月26日の徳川家斉七回忌法要でした。
井伊家世子としての初仕事であると同時に初めての大舞台となったのです。
直弼は前年から官服の準備を彦根に依頼しますが新調が許されませんでした。
仕方なく亡くなった直元の衣装を取り寄せ、直亮はこの服の使用を許可したのです。
しかし、法要の数日前、もうどう頑張っても服の新調ができない時期になって「直元の衣装を使うのは外聞が良くないので使用を認めない」との報せがきたのです。
困った直弼は、病と称して法要出席を断念し江戸城に登城もできなかったのです・・・

こうした陰険なイジメも日常茶飯事だったらしく、周囲から「200年来ない、人情なし」と陰口を叩かれる事となったのです。
そして、藩主在任のまま57歳で亡くなります。
黒船来航の3年前の事でした。

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