彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

桶狭間古戦場訪問13 桶狭間古戦場伝承地(概要)

2016年05月25日 | 史跡
豊明市の桶狭間古戦場は伝承地として整備されていてお休みの日はボランティアガイドさんもいらっしゃいます。

以前にも書きました通り、このたびの桶狭間古戦場訪問の目的は井伊直盛の動向を検証することでしたが、この地に訪れてすぐに声をかけてこられたボランティアガイドさんにその旨を伝え、緑区の古戦場にも寄ってきてあちらでは「巻山」がそうではないかと言われたことを話すと、急に挑むような口調で「本当の戦いはどこであったと思います?」と問われました。
ん?と思いながらも「関ヶ原では町全体が古戦場になっているように、戦場が狭いわけがないのだからどちらも古戦場だと思っています」と答えたなら、「関ヶ原とは戦った戦力が違う」とか「どこで義元が討たれたかということが大切」との話になり、ついには一つの石碑の前で、戦いの50年ほど後には尾張藩主によってここが古戦場と認められました…」との話になりました。

他にも、「その頃の絵図ではこの地に碑が建っていたことがわかる」とか「緑区では遺物が出ていないけど、こちらでは出ている」との話を次々話されたのですが、管理人の訊きたかった井伊直盛の動きについては資料がないのでわからないとのことで、ここでも「緑区では資料になくても勝手に作る」と言われていました…
当事者が相手を認めない気持ちはわかりますが、それをお客にぶつけてどうするんだろう?との疑問は残りました。
ちなみに、
絵図については、もともとこの地も古戦場であったことは間違いありませんし、東海道沿いで簡単に立ち寄れる場所だったので、早い段階で観光地としての案内碑が建っても不思議ではないと思います。
遺物については、この地の物は沼地か池のような水に沈んでいたものだった可能性が高いとのことでした、そうでなければ戦いが終わった後に民衆にとって甲冑や武器などが奪われてしまうので基本的に残ることはなく、遺体も野ざらしにされていたならいずれはなくなりますし、七ツ塚や戦人塚の伝承のようにまとめて埋めたならばその土の中で徐々に分解されて行く最中のような気がします。ですから「遺物がない=合戦が無かった」にはなりません。
こういう意味では、ちょっと気分を害する場面もあった場所でした。

この後、もっと詳しい方に代わってくださいましたが、やはり直盛の動向は解らず…
この話の中で、「直盛の息子が直親でその子が直政」という話が出てきましたから、「直盛と直親は従兄弟であって直接の血縁関係はない」との返事をしましたが、この方は本当によく調べられていて資料重視の歴史を知りたい時には勉強になります。

そんなガイドさんとの話から離れ、史跡を見渡すと古戦場地の石碑や

明和8年(1771)に建立されたという七石表という石碑があります。
七石表すべてを紹介しても似たようなものばかりになりますが、一番重要な今川義元討死の碑を紹介。





今回はちょっと愚痴が入りましたが…
他にも、いくつかの大切な石碑がありますので、次からも紹介します。


所在地 豊明市栄町


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