桶狭間古戦場伝承地には今川義元の墓が2基建立されています。
まずは、自然石を使った墓石の墓で、江戸時代の早い時期から桶狭間伝承地とされていて、明和8年に討死の地の七石表が建てられた場所の隣です。もともと塚があったのを明治期に墓が建立されました。
もう1基は仏式の墓で三百回忌の万延元年(1860)に建立されたそうです。
ただ、三百回忌なら前の年になると思うので、三百周忌の誤りではないか?とは思います。
ほぼ同じ範囲の中で、同じ人物の墓が2基も建立されることを考えると、今川義元は尾張にとってただの侵略者というだけではなかったように感じます。もしくは、徳川家が源氏を称するうえで、新田系の徳川氏とは敵となる足利系とはいえ、源氏の名門だった今川家に対する敬意があったのかもしれませんね。
所在地 豊明市栄町
まずは、自然石を使った墓石の墓で、江戸時代の早い時期から桶狭間伝承地とされていて、明和8年に討死の地の七石表が建てられた場所の隣です。もともと塚があったのを明治期に墓が建立されました。
もう1基は仏式の墓で三百回忌の万延元年(1860)に建立されたそうです。
ただ、三百回忌なら前の年になると思うので、三百周忌の誤りではないか?とは思います。
ほぼ同じ範囲の中で、同じ人物の墓が2基も建立されることを考えると、今川義元は尾張にとってただの侵略者というだけではなかったように感じます。もしくは、徳川家が源氏を称するうえで、新田系の徳川氏とは敵となる足利系とはいえ、源氏の名門だった今川家に対する敬意があったのかもしれませんね。
所在地 豊明市栄町