東京都大田区西馬込に建つ萬福寺に梶原景時の墓があります。
梶原景時は、鎌倉殿の十三人の合議制に名前を連ねた人物ですが、合議制が始まった翌年に討たれてしまいます。
歴史的には、源平合戦において源義経の軍監を行なっていて義経に対抗し続けた嫌なキャラ付けをされています。
しかし、坂東武者には珍しく教養高い常識人景時と枠にはまらない義経ではウマが合うとは思えないので、景時が可哀相にもなります。
萬福寺は、景時が品川に建てた寺でしたが、火災で焼けてしまい、もともと景時の墓があった西馬込に移転されたとされています。
この地に景時の墓があるのは、戦国時代まで領主が梶原氏だったからと考えられます。
この縁からか、山門近くには源平合戦の宇治川の戦いで佐々木高綱と先陣を競った景時の息子景季に源頼朝から与えられた名馬磨墨(するすみ)像を見ることもできます。
また、萬福寺には木原義久一族之墓もあります。
木原義久は、尾張出身の大工頭で徳川家康に従って江戸に行き江戸幕府に置いて頭領を務めた木原一族の祖になる人物です。
東照宮建立に貢献していて、
尾崎神社(金沢東照宮)
鳳来寺山東照宮
などの建立にも関わっているとのことです。
その木原氏の墓に向かう途中では、松旭斎天勝の墓も見ることができます。
○御朱印