彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「虎徹の井戸」

2006年10月11日 | 史跡
剣・剣・サーベル・刀など、我々人類が有史以来一番ポピュラーに携帯してきた武器である刀剣類には、色々な呼び方があり、その分だけ意味合いも少しずつですが違ってきます。
そんな中、刀剣類で実用性・美しさ共に最高の評価を受けているのが私たちが知っている日本刀なのです。

中世ヨーロッパでは日本刀の事を“サムライソード”と呼び恐れました。

では、日本刀は諸外国の刀剣類とどう違うのか? といえば、斬る事ができるのです。
「何、言ってんの~、刀なんだから斬れて当たり前じゃん!」と思う方も多いかもしれませんが、それは私達が日本刀を見慣れているからなんです。
例えば中国の歴史物語によく登場する青龍刀。これは、金属を剣の形をした型に流して作っただけの武器で、その用法は重さに任せて相手を叩き潰す物でした、また、西洋のサーベルは突く物で、どちらも斬った事にはならないのです。
日本刀の切れ味を目の当たりにしたヨーロッパ人の驚きが“サムライソード”という言葉の全てに込められているとは思いませんか?

それに、日本刀はどの金属よりも硬い人工の鋼とも言われています。
これは江戸時代中期の話ですが、林子平という仙台藩士の学者が長崎で事件に巻き込まれた時、中国人の振り回す青龍刀や門の閂を一刀両断。その噂を聞いて興味を持ったオランダの長崎商館長ヘイトの前でサーベル7振の束を難なく斬ったりもしています。

では何故、日本刀はその様に強いのか? といえば、やはりその構造でしょうか?

材料は砂鉄で、他の刀剣とそれ程違いはありません。

スタジオジブリの作品『もののけ姫』に、タタラと呼ばれる集団が大きな炉を使って何かを作っていたのを目にした方もおられると思います。あれは砂鉄や隕鉄(鉄を含んだ隕石)を高度の熱で燃やして純度の高い鋼を作る作業を作る作業で、その作業で完成する純度の高い鋼を“玉鋼(たまがね)”と言います。
この玉鋼は日本刀にするしか使い道がありません。そして刀鍛冶の手に渡った玉鋼は再び炉に入れられて、一度細かく砕かれます。
砕いた物をバラバラに組み立てて打ち馴らす事によって繊維の方向が違う鋼が出来上がります。
後はこれを炉で柔らかくし、半分に折って重ね打ち延ばす。
1回目に1枚が2枚重ねに、2回目に4枚に…と繰り返し、5回ずつ3日で15回打つと32,768枚重ねの硬い鋼が出来上がります。
これがどれほど凄いかは、手元にある新聞紙を重ねていってみてください。6回か7回目ぐらいには凄く折り難くなると思うのですが、これを鋼でやるとなれば相当ですよね。

しかし、この硬い鋼をそのまま刀にすると、硬すぎて使うとすぐ折れてしまうので、芯に少し柔らかい鉄を使い、その周りを硬い鋼で重ねる事によって強度もあり折れ難い日本刀が出来上がるのです。
あの独特の反りも切れ易さを求めた結果です。
そこまで手の込んだ作品だからこそ、強くそして美しい物が出来上がるのです。

ちなみに、そこまで工夫された日本刀ですが、戦いの主流として使われるようになったのは明治時代になってからでした。
戦国時代やそれ以前にも戦いに参戦する兵や武将は全員が刀を差しているドラマを目にしますが、これは史実です、しかし刀を使った斬り合いは殆んど皆無に近かったのです。
江戸時代以前の武器は弓や槍でしたが、江戸時代には刀以外の武器の携帯が禁止された為に刀の文化が発展し、大名達によって収集されたのです。

こうして、大名家に残った名刀は彦根城博物館でも目にする事ができます。
展示室の中でライトの光を受けながら輝く日本刀には、冷たい静寂のイメージが良く似合います。その形の見事さや刃紋の美しさも大切ですが、中に籠もった刀匠たちの魂をその美しさから感じ取って貰えたら幸いです。

最後彦根にも有名な刀匠が居ました。その名は長曽根虎徹。
新撰組局長の近藤勇が愛用したのも虎徹と言われていて、歴史に残る有名な刀匠の一人です。
虎徹はこの名の示す通り今の長曽根町で学び、55歳で一念発起して江戸に出て名を上げました。
その虎徹の使った井戸が湖周道路の白山神社近くにある長曽根町民会館前にあります。
今は小さな井戸と、碑が残されているだけですが、日本史の1ページに確実に影響を残した郷土の刀匠が伝えた息吹を感じてみてはいかがですか?