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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『吉祥のデザイン―鶴と亀―』 能装束

2009年01月24日 | 博物館展示
今回も細かい部分が出てきますので大きい画像でアップさせていただきます。

『吉祥のデザイン―鶴と亀―』では、能装束も4領展示されています。
写真の物は「紅白段向鶴菱花菱亀甲文様」という大正から昭和時代に作られた物です。

能は江戸時代の武士にとって嗜みとなっていましたので各藩で多くの能役者が召抱えられ、能装束も収集されました。
彦根藩でも四代藩主直興や十二代藩主直亮は文化に対して深い造詣がありましたのでこれらの時代を中心に能装束が収集されたのです。

しかし、今の彦根城博物館に残っているのは藩政時代の物は少ないです。


井伊家では十五代当主の井伊直忠が能好きで知られた人物で、後に彼がモデルになった人物を登場させた『迷路』という小説を野上弥生子が『迷路』が描いていますし、井伊直弼の『茶湯一会集』が世に知られるようになったのも明治45年に直忠が井伊邸で催した演能会に高橋箒庵(数寄者・三井の大番頭と呼ばれた実業家)が招かれて、屋敷内の茶道具コレクションの中に直弼の著書を見つけた事がきっかけでした。

そんな当代きっての文化人であった井伊直忠は住まいであった東京に大好きな能装束を集めていたのです、そして関東大震災によって灰となったのでした。


ですから、博物館の能装束はこの後に直忠が再び収集した物です。

そんな中でこの「紅白段向鶴菱花菱亀甲文様」をじっくり見ていただくと、紅白の色分けだけではなく、紅の色の中には向かい合っているつがいの鶴が菱形に白の色の中には亀甲文様と細かい細工がなされています。
しかもこの上にまだ着物を重ねるので、この模様は能を演じる時にほとんど目にすることは無いのです。
ちらっと見えた時に、本当に気が付く数寄者だけが満足する仕事。
能装束にはそんな奥深い、そして贅沢な細工が施されてるんですね。
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『吉祥のデザイン―鶴と亀―』 張子和図

2009年01月18日 | 博物館展示
今回の展示で管理人が個人的に一番うれしかったのは、この絵に出会えた事かも知れません。

「張子和図」
張志和という仙人を描いた絵です。
仙人は不老長寿の象徴としてよく描かれるお目出度い図柄の一つですが、この張志和という仙人は水の上に敷き物を敷いて座し、その上を鶴が旋回してやがて天に昇る図柄です。
鶴は、亀と違い飛べることから好まれて描かれていたようですね。

さて管理人は別に張志和に信仰がある訳ではありません、問題はこれを描いた人物です。
絵の右上に“直恒 筆”と書かれています。

直恒とは、彦根藩六代藩主・井伊直恒です。
何者?と思われる方の為に少し説明するなら…


“井伊直恒”
井伊直興の十男

兄で五代藩主でもある井伊直通は自分が病弱だった事を憂いて、自分に何かあった時は弟の主計頭(直恒)を次の藩主に据えるように言っていました。
しかし、そんな事は杞憂に過ぎないと家臣は当然の事、直恒もそう信じていたに違いありません。
ましてや、江戸生まれで江戸で育った直恒に彦根の責任を負う事は夢にも思わなかった事でしょう。


しかし、直通の不吉な憂いから4ヵ月後の宝永7年7月25日に直通は22歳で亡くなったのです。

こうして同年閏8月12日に直恒の藩主相続が幕府から許されたのです。
しかし10月5日、直恒は彦根藩主でありながら一度も彦根城を見る事もなく18歳で亡くなります。

直恒の藩主在任期間は約50日、 後継ぎを弟の直惟に定めますが幼少であったために父の直興が再び藩主に就任するという異例の処置がとられたのです。

こうして直恒の人生は、突然の藩主就任から突然の死と何もかもがあっと言う間に過ぎてしまい、その人柄も知られないままに彦根藩の中で最も期間が短かった藩主としてのみ歴史に名が残ったのです。


たったこれだけです。
あとは精々どんな官位を与えられたかの記録くらいしかないと思っていました。

それがこの絵に直恒の名が記されているのです。
これ以外にも数点はあるようですが、絵を見る限りではプロとまではいかなくてもセミプロに近い腕はあった様に思えるとの事でした。

また署名の字を簡単な筆跡診断で見てみると…
「精神的にはとても安定していて論理性が高く生真面目だった」と思えます。

藩主就任の話も無い頃に狩野派で学んだ絵だと思うのですが、管理人としてはメール友に初めて対面した時と同じような感激がありました。
本来なら好きな絵を楽しんで、文化人として名を残したかもしれないのに、藩主の重責からか?(管理人は別の説を主張しますが…)たった18年の人生を終えた青年の数少ない生きた証をご覧になってはいかがですか?


(今回は署名を見てほしいので大きいサイズで写真を掲載しました)
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『吉祥のデザイン―鶴と亀―』

2009年01月10日 | 博物館展示
2009年1月1日より2月3日まで彦根城博物館では『吉祥のデザイン―鶴と亀―』というテーマ展が行われています。
今回は1月10日に行われたギャラリートークで聞いてきた概要の簡単な紹介と展示物を一つ紹介します。
この展示でも前回同様注目している物が数点ありますので、何回かに分けてご紹介します。


まずは概要…
鶴と亀は、「鶴は千年亀は万年(最初は1200年くらいだった)」と言われるように長寿の証ですが、これは古代中国の鶴や亀を神格化した思想だったそうです。
それを日本風にアレンジされているのです。

中国では長生きすることが基本でこれは中国が現世を大切にする為だったようです。
鶴と亀はその代表でした。
特に鶴は鳥の中では長生きで、しかもつがいの仲が良く、片方を喪うともう片方はその後もずっと一人で過ごすことからつがいで描かれることが多いのです。
日本では現世よりも来世を大切にしていました。
また中国では仙人も長生きの象徴とされ多く描かれ、これも日本に入ってきたのです。

中国と日本では感覚の違いもあります。
たとえば牡丹の花
中国では富貴でおめでたい象徴ですが、日本では鑑賞の対象であり現実の美しさが愛でられるのです。

鶴も『万葉集』では、鳴き声が物悲しい感情に訴える生き物として歌が作られていました。


そんな鶴と亀を使った物は圧倒的に鶴が多く、亀の場合は鶴と一緒に描かれることが多いのです。
また松竹梅などの縁起物と一緒に描かれることもあります。


「中啓金地浜松白鶴図」
展示を見に行きますと、確かに鶴が多く、鶴は現実の物であるのに対し亀は四神思想に出てくる玄武のようなイメージが付いたデザインの方が多いのが特徴です。
亀に関しては尾の辺りに毛が付いている物が描かれますが、これは「蓑亀」といって、あまり動かない亀の背中に苔が付いてしっぽのように見える現象で非常に縁起がいい物がったそうです。

中啓とは能などで使う扇の事ですが、これは消耗品の為に残る事はほとんどありません。そしてこの展示物のデザインは亀が岩を背負っていてその上に松竹梅が生えている、亀自体がお目出度い島になっている物なのです。
これは『翁』専用で使われたものでした。
能は戦国期末期辺りの豊臣秀吉や徳川家康といった武将に愛され、江戸時代に入ってから徳川秀忠も能を好んだために幕府の式楽となり諸大名もこぞって学び能役者を抱えたり能道具を揃え、その頃のストーリー性がある能がイメージとして浮かびますが、元々は神に捧げる神事であった為にストーリー性はありませんでした。
『翁』はそんな古い形を残した能なのです。
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『新収蔵の資料』 慶雲院屋敷図

2008年12月14日 | 博物館展示
今回も『新収蔵の資料』からご紹介します。

「慶雲院屋敷図」
今回の展示で管理人が一番興味を持ったのはこの屋敷図かもしれません。
慶雲院は彦根藩四代藩主井伊直興の娘で鉄姫(かねひめ)という名でした。


鉄姫は4歳の時に井伊家筆頭家老木俣家の男子と婚約するのですが、その婚約者が早世したために婚約者の従兄弟でだった守嘉に嫁ぐこととなったのです。
木俣守嘉は現在「旧近江高校跡地」として彦根城内で臨時の駐車場として使われている大手門前の空き地の半分を屋敷として与えられ、木俣家とは別の千石の知行を与えられて家を興しました。
木俣家の記録によると、この家は「井伊」姓を称し、家紋は井伊橘のアレンジ版、守嘉が鉄姫の婿として井伊家一門に列した形になったと記されているそうです。
こうして井伊家一門の待遇を与えられた姫は、この鉄姫しかいませんでした。それは当時の井伊家では男子の早世が多く、いざという時に井伊家を継げる一族を残すための緊急処置だったとの考え方もあるようです。(『広報ひこね』2008年12月1日号6ページより)


夫の井伊(木俣)守嘉よりも慶雲院の屋敷図との命名をされただけでも、この屋敷の主を示していそうな気もしますが、決してそれだけで付けられた名前ではありません。
絵図は2色に分けられて描かれていますが、向って右下を中心に描かれた狭い方が木俣家の屋敷で残りの広い方が慶雲院の屋敷だったのです。
慶雲院の死後、この屋敷は2つに仕切られ、木俣家の屋敷はそのまま木俣家所有となり慶雲院の屋敷は彦根藩に戻された後に他の藩士の屋敷として下げ渡されたのでした。

ちなみに井伊家を残すための処置として井伊家一門に組み込まれた鉄姫と守嘉には嘉久治守次(後に鉄之助・直寛)という名の男の子が誕生しました。
この子は享保17年に井伊家分家の与板藩主で従兄弟になる井伊直陽の養子として迎えられ、直員と名を改めて与板井伊家を継いだのですが2年半弱の在位で20歳で没してしまったのです。
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『新収蔵の資料』 岡見太郎右衛門・太郎介袖標

2008年12月08日 | 博物館展示
今回も『新収蔵の資料』から展示をご紹介します。

「岡見太郎右衛門・太郎介袖標」
(管理人の私見)
前回書きました青木秀好の写真と同じように戊辰戦争の頃の彦根藩士資料となります。
慶応4年(1868)2月21日、太政官代は討幕の為に従軍している士卒へ錦の肩印を下賜することを決め、これを官軍の合印としたのです。

岡見太郎右衛門・太郎介袖標にはそれぞれこの錦の肩印がありました。
展示では、太郎介の方は表の錦模様を見せ、太郎右衛門の方は裏に「彦藩士 岡見太郎右衛門正弘」と名前が書かれた部分を展示しています。
これは、盗難されないようにする為の処置ではないか?とのお話でした。
ちなみに官軍の間ではこの肩印を「錦の御旗の布れ」にちなみ「錦裂(きんぎれ)」と呼ばれ、江戸に入った後は徳川びいきの人々が官軍からこれを奪う「錦裂取り」が流行ったそうです。

さて、この錦の肩印の他に自分の名前を示した名札のようなものと、朱の角印を押印した布もあります。
この角印は「御印鑑」と呼ばれていて、錦の肩印と共に付ける事が義務付けられていました。これは、偽の錦の肩印を付ける偽官軍が現れたためにその対策として作られたもので、御印鑑の偽物を作ったことが発覚すればその場で処刑される決まりまであったのです。
この「御印鑑」には官軍の総督府によって違う物が用いられていました。

岡見家の例では、
太郎右衛門が「東山道総督印」
太郎介が「大総督府印」
を身に付けていますので、この二人は別の総督の管轄にあったことが示されますが、奥州の三春城攻略(無血開城)に彦根藩が参戦した時にこの二人は同じ軍にいましたので、もしかしたら官軍に中でも統括が混合していたのかもしれませんね。

ちなみに岡見太郎右衛門と太郎介は親子で、太郎右衛門が父親です。


また、太郎右衛門の方にもう一つ白い布が付いていますが、これはメモを一緒に纏めていたようです。
必ず使う大切な物にメモを付けておく…現代人も幕末維新の人も考える事は一緒のようですね。
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『新収蔵の資料』 青木秀好写真

2008年12月06日 | 博物館展示
まずは、管理人宅のPC不良によりしばらく更新があまりできなかったことをお詫びいたします。

さて2008年12月6日に彦根城博物館ではテーマ展『新収蔵の資料』にちなんだギャラリートークが行われました。
今回は平成13年から今までの間に彦根城博物館に新たに収蔵された資料が展示されています。

本来なら一度にご紹介するのですが、今回は面白い資料も多くいくつかを分けてご紹介します。

まず1つ目は「青木秀好写真」
(以降、管理人の感想)
これは2008年11月11日に中日新聞で紹介され、一部の歴史ファンから注目された写真です。
この青木秀好という人物は、幕末の彦根藩士で銃隊の小隊長だった人物でした。
人物としては彦根藩藩士の一人というだけなのですが問題は見つかった写真です。

彦根藩が鳥羽伏見の戦いでいち早く官軍に味方して、東北まで官軍として旧幕府軍と戦ったことはあまり知られていませんが、その理由の一つとしては戊辰戦争に関わる軍編成の資料の中に彦根藩士の装備に関した資料が一切現れていないことも考えらえます。

今までは「資料が無い」とも思われていたのですが、青木秀好の写真が日の目を見るようになり新たな期待も生まれたのです。


写真を見ると、江戸幕府では外様の地位にあった大名家で官軍にいた隊が装備するような雰囲気の洋装で、しかし他の藩は左腕に付けていた合印を右腕に付けています。
帽子はシルクハットに似ているように思うのですが、手元の資料にはこの帽子で戦いの加わった他藩の隊の記載が見つからず、洋装に合わせたのか、それとも戊辰戦争で使用したのかが謎です。
胴乱は写真を見る限りでは当時もっとも使われた「米式胴乱」ではないでしょうか?胴乱とは弾薬携帯用の鞄の事で、銃隊の小隊長ならば必須アイテムだったように思われます。

手には日本刀を持っていますが、下緒(刀が落ちないように鞘元に巻いた紐)がしっかりあることから背負った物ではなく腰に差していたと考えた方が良いと思います。


維新前夜を知る事ができる珍しい資料ですよ。
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『江戸時代の医療』

2008年09月06日 | 博物館展示
『江戸時代の医療』

彦根城博物館学芸員 渡辺恒一さん

9月4日~29日まで彦根城博物館では【人権学習シリーズ9 『江戸時代の医療』】の展示が行われています。


これに際して、博物館学芸員さんによるギャラリートークが行われましたので、その内容の一部をご紹介します。

人権学習シリーズは平成2年から行われていて今回で9回目になります。このシリーズは歴史を材料に人権の問題を考えようという試みです。
では、医療と人権はどういう風に繋がるのでしょうか?

あまり繋がるようには思えませんよね。
近年は医療技術が発達して延命治療などができるわけで、心臓が動いていても脳死など臓器移植の問題にもなるような話もあります。それを巡ってお医者さんと患者さんとの関係や家族との関係、そして例えば死に直面している人の人権をどう考えるか?などの問題があると思います。
また、患者さんが病気になったときに自分の病気についてどこまで知れるか?お医者さんがどこまで告知するのか?
なども権利の問題になりますね。
そんな現代医療の問題につきましては人権の問題も結びつきますね。

ただ今回の江戸時代の医療とした時には、今のように医療が発達していない時の人権問題というのは現代のような問題ではなく少し違った問題になります。

今回の展示で取り上げた問題は「人の生存権」
生存権は憲法でも「文化的で最低限度の生活」を国民は法律で保障されています。その重要な物として安心で安全な生活があり、それの一つに医療があります。
これは基本的な生存権を支えている部分です。

今回の展示で医療技術がどういう風に発達してきたかをもう一度確認します。
医療は今は社会的地位もお医者さんの信頼も高いですが、江戸時代はそれ程高くありませんでした。
それ程高くないという事は「医者に行けば何とかなる」という発想も無かったことになります。今の医術が科学的で客観性を帯びて居ますが、そうではない時代は極端に言えば医学もお祈りも変わらないという事もあります。ですから医学が高い信頼に上っていく行程があるのです。
その辺りが江戸時代においてどうなっているのかも考えます。


また江戸時代の衣料の発展において、お医者さんと患者さんの相互の関わりも重要になります。
江戸時代は現代にあうような医療制度もありませんし、飛躍的に医療が発展する事もありませんが、江戸時代の最初と終わりを比べれば確実にステップアップしています。
そんな時間は掛かったが頑張った人々の鋭意も紹介しています。

あと患者さんの視線から見れば、江戸時代は民間の世界が成熟していく時代で、近代の市民社会が準備されていて近代に繋がる町社会が成熟されていきます。
医療の事を考えると、それもよくわかります。
彦根藩領ではお医者さんは村(大字くらい)の単位で考えると5~6ヶ村に一人くらいのお医者さんが居ました。だから材村のお医者さんがかなり居たのですが、江戸時代の記録を見ると、患者がお医者さんを選んでいるという意外な事が分ってきます。
長浜の辺りに居ると思われるお医者さんの診断記録では余呉・浅井・坂田からも患者さんが日々きていた事も読み取れます。

これはどういうことかといえば、患者側がより腕の良いお医者さんや名声などの情報によって、お医者さんを求めて努力していたのがわかります。これは医療発展の上でとても大切だと思います。

医療の発展で、現在はまた複雑な問題が起こったりもして居ますが、江戸時代の医療の発展を裏付け、またどういう人々によって起こったかという事。
今は様々な制度問題で大変な事になって居ますが、社会の制度に限らずより良い物を作るには当事者がいかに関わっていくか?
それをどう解決し、作り上げていくか?というそれぞれの人々の主体的な鋭意にかかっていると思うので、江戸時代の医療のあり方を見る事によって今後の我々の社会をどう作っていくかを考える機会にしていただければ・・・と思います。


35件の展示のうちの一部をご紹介します。
江戸時代は初期に中国の漢方が中心で一部オランダから外科の技術が入ってきました。中期になると西洋医術が発展しますが、それで和漢漢方が無くなった訳ではなく、ベースは和漢が大きかったのです。
幕末でも漢方医の方が多かったくらいです。

江戸時代は、印刷技術によって医学書が広がりました。これは社会機能が潤滑に作用しているという江戸時代の特徴を顕著にあらわしています。
『傷寒論』
古くは中国の後漢時代に張仲景が書いた熱病の臨床書が江戸時代でも広がっていました。
『薬徴』
薬の特徴が書かれています。
『大和本草』
貝原益軒が記した本草学(今の博物学)の本、植物の図と薬としての効用が書かれています。
『解体新書』
杉田玄白らが訳した歴史的にも有名な本の印刷物です。
『蘭訳手引草』
西洋の薬が紹介されていますが、キツイので飲み過ぎないようにとの注意がされています。
『産論翼』
彦根藩士の子どもとして生まれた賀川玄悦は、産科の医者となり、妊娠中は赤ちゃんの頭が下にある事が正常な位置だということを初めて証明した人でした。
この玄悦の養子が記した書です。
『医者由緒書』
彦根藩に抱えられた医者は幕末に31家、平均的に30家があったそうで、その藩医となる彦根藩士たちの由緒をまとめた本。
石高ごとに並べられるので、時代によって順番が変わったりしてその度に並び替えられました。
『稽古館古記』
藩校・稽古館に医学寮を創り、藩医の子に医学を教えていました。
民間からここには居る人は居ませんが、政治機関が医療に携わっていた大切な証拠となる資料。
『こころの茎』
彦根藩領に住む者が日々のいろんな事を書いています、ここには妙薬や薬の情報が多く、民間でも薬が作られていました。
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『開国の時代と彦根藩』

2008年07月26日 | 博物館展示
7月26日~9月1日まで彦根城博物館では【テーマ展 シリーズ「直弼発見!」 巻の2『開国の時代と彦根藩』】の展示が行われています。


これに際して、博物館学芸員さんによるギャラリートークが行われましたので、その内容の一部をご紹介します。

7月29日には「井伊直弼と開国150年祭」のイベントとして日米修好通商条約締結150年記念式典が行われますが博物館でも『日米修好通商条約』に関係するものを展示しています。
しかしこの調印の時の大老はもちろん井伊直弼ですが、それ以外に彦根が深く関わる事は殆どありませんので、それ以外に彦根藩が開国に大きく関わった点がありそちらをメインに展示される事となりました。

今回の展示をはじめ彦根藩の黒船関連の資料でよく目にする物が『ペリー浦賀来航図』です。ここには彦根藩の侍が描かれていて、それも1人や2人ではありません。
ペリー来航時には彦根藩士は軍勢として約2000人(2168人とも・・・)が現地で警備をして居て、その様子が描かれているのです。

ではなぜ浦賀に彦根藩士が居たのか?という事ですが・・・
彦根藩は譜代の筆頭といわれますが、徳川家の中でも赤備えで言われる勇猛な軍勢を控えておいて、徳川の軍事を守る家だったからです。
例えば、京都に西国にと軍勢を派遣できるようになっていました。

幕末にはペリー来航前に既に何度も外国船が来航していて、ペリーがやって来る事も幕府は事前に知っていました。ですので幕府としては将軍に居る江戸を守る為に江戸湾の入り口となる三浦半島や房総半島に“軍事を守る家”である彦根藩に警備を命じたのでした。これは弘化4年(1847)の事でした。
時の彦根藩主は12代の井伊直亮。
この地域は相模国でこれを相州というので、この警備の事を“相州警備(相州警衛)”との言い方をしています。
彦根藩は人数的にも費用的に長期間の警備で様々な苦労をしたといえるのです。

特に現地で何をするかといえば・・・
異国船は大きな大砲を積んでやってきますので、日本としても大砲を準備して沿岸部の岬ごとに砲台を築きました。大砲はここに設置します。
東京に「お台場」が地名として残っていますが、これは元々「大砲を設置する場所」という意味で、お台場と呼ばれる物は神奈川県から千葉県の岬ごとにと言っていいほどあったのです。

当時、この警備を任された藩が彦根藩を含めて4藩が担当しました。彦根以外では会津藩・川越藩・忍藩、いずれも徳川の軍事を守る家としてこの地域の警備に就いたのです。


『ペリー浦賀来航図』は2方向から描かれた2枚の絵が存在しますが、いずれも井伊家の赤備えが細かく描かれています。赤備えといえば甲冑が有名ですがペリー来航の時に彦根藩士たちは甲冑は着ていませんでしたが陣羽織を着用していて、その陣羽織が茜色だったのです。またこの時の彦根藩の警備には2部隊が居て、この絵にも前列と後列の2部隊の存在が確認できます。

展示室の後半の展示では、大砲の技術を基に西洋流の大砲を作るために、西洋の学問や技術を江戸中期から徐々に学び始めていて、その関係の辞書は翻訳書、あるいは大砲を作る時の型紙なども見る事ができます。
こういった外国の学問をドンドン学ぶ事は、皮肉ですが日本の国の中として鎖国している状態では無くなります。そうした時に世の中としては開国の方向に向かっていく・・・
もちろんペリーが来航してかなり強引に開国を迫りましたが、時代の流れとして日本の国としては鎖国から開国に動いていたのではないか?と展示物から読み取る事ができると思います。


《展示物(全21点)の一部》
『江戸幕府老中奉書』
井伊直亮が老中より相模警備を命じられた書状
『三崎陣屋絵図』
現地で藩士が駐屯した拠点の図面。陣屋は“三崎”ともう一つ“上宮田”があり、それぞれ藩士数十人、足軽まで含むと2、300人近い人数が駐屯していました。
『千駄崎岬御台場図』『安房崎御台場図』
彦根藩だけで江戸湾に7ヶ所近い砲台場を築いていて、そんな砲台場の絵図
『風聞書写』
嘉永元年(1848)の彦根藩の警備の実態を紹介した資料
彦根藩は海が無く沿岸警備には慣れていないなどの警備での芳しくない様子の分析が書かれているが、幕府の大砲担当役人から技術を学ぶなどの努力を行う意欲も書かれている。
『直弼公相州御備場巡見私記』
今回は直弼関係の展示が少ないのですが、そんな数少ない直弼が関わる資料。
直弼が藩主になった翌年である嘉永4年3月に現地を巡見した記録。

『ペリー浦賀来航図』
彦根での黒船関係の資料ではよく目にするので大きな物だと思われがちですが、実は小さい絵です。別の方向から描かれた2枚の絵に彦根藩士が描かれています。
この時の現地での交渉役は宇津木六之丞で、宇津木は部隊の先頭に描かれ交渉役の仕事をしていた事実が確認できます。
ペリーの記録を紐解くと軍艦から望遠鏡で海岸を見ると、赤い服を着て警備をしていた部隊の事が記されているので、ペリーが彦根藩士を見ていた事がわかります。
『異船渡来につき明細書』
宇津木が記した記録で、ペリー来航や久里浜上陸の様子が書かれていて。展示ではこの久里浜上陸があった6月9日の記述が見れます。
同じページの後ろの方に、ペリーが上陸した時に引き連れた楽奏隊の音を聴き「はなはだ卑しい」と記されている事が面白いです。
『安政の5か国条約写』
アメリカが有名ですが、同時期にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約が締結されていてイギリス以外の4冊の調印した物の写しが展示されています。

『ハルマ和解』
蘭日辞典。オランダ語を日本語に翻訳する辞典。
『海上砲術全書』
オランダから日本に伝わった書籍を幕府が日本語に訳したもので、海の上での大砲を使うための本。
こういう砲術の本を学んだ上で警備の任に当ったのかもしれません。
『反射望遠鏡』
西洋の技術を学んだ上でとの意味で展示されています。
長浜の国友村で鉄砲が作られていて、そこから技術を発展させ国友藤兵衛が作った物。
『西洋大砲器械図』
砲台を作るのに参考にしたと思われる資料で全8巻
西洋の書物を見て写してあるが、中には「何かよくわからないけど描いてあるので取り合えず写す」と意味もわからず写してある物もあります。
『スループ形帆船図』
幕末に外国の技術を学んで幕府が作ろうとした船の見取り図。横からと上からの2種類があります。
大きさは長さ55尺(約16.7m)幅13尺(約4m)
帆が3本あると外国船に見えるからダメとの指摘もあったために1本マストになっています。この船はおそらく幕府によって作られて浦賀で活躍したと思われます。
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特別展『最強の軍団~井伊の赤備え~』

2007年03月25日 | 博物館展示
彦根城博物館で3月21日~4月20日まで行われている展示が『最強の軍団~井伊の赤備え~』です。
写真はそこで売られていたクリアファイル。

井伊家といえば赤備えと言う風に思いつく方もたくさん居られる事だと思いますが、一概に赤備えと言っても同じ彦根藩主の中でも色々違います。

そんな違いは勿論の事、世子のまま藩主になる事が無かった井伊直滋・直清・直元の甲冑も見る事ができ、且つ有力な家臣の甲冑も目にする事ができるんですよ。

さて、赤備えの話
最初に赤備えを使ったのが甲斐(山梨県)の武田信玄の家臣・飯富虎昌(通称:飯富兵部)で、虎昌の死後に弟の山県昌景に受け継がれたのです。
1582年、武田家が織田信長によって滅ぼされ、その前に長篠の戦いで戦死していた昌景の赤備え軍団も解散を余儀なくされます。しかし、同じ年に起った本能寺の変で信長が亡くなり、甲斐は徳川家康の支配下となりました。

ここで武田軍が再雇用され、家康の直臣・木俣守勝を総大将として井伊直政に預けられたのでした。
この時点では『井伊軍の木俣の赤備え』だったのです。しかし、やがて井伊軍全てが赤で統一されるようになりました。
この事に敬意を表して、井伊直政は“兵部少輔”を私称しています。
赤備えは戦場で目立つ為に、卑怯な行為ができず勇気を試され、大将が戦場で傷を負っても血が目立たないので部下の士気を下げないと言う利点があったのです。

1600年、関ヶ原の戦いでは少数の兵で敵に攻め込んで戦いの口火を切った井伊軍は赤備えに恥じない働きをし、直政自身も命に関わる鉄砲傷を負ってまで戦ったのです。
1614~1615年の2回の大坂の陣では直政の息子・直孝が活躍し“夜叉掃部”という異名まで付けられ、以降、井伊家は『赤鬼』と呼ばれるようになったのです。

ちなみに、戦国時代にはもう1つ有名な赤備えがあります。
直孝が活躍した大坂の陣で敵方として戦った真田幸村の赤備えです。幸村はこの戦いで2度も徳川家康を追い詰めて、『真田は日本一の兵(つわもの) 古よりの物語にもこれなき由』と賞賛されたほどでした。

赤備えは本当にそれに相応しい軍しか使えないモノだったんですよ。
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テーマ展『雛と雛道具』

2007年02月08日 | 博物館展示
今回は、彦根城博物館でこの時期になると展示される、毎年恒例のテーマ展『雛と雛道具』についてご紹介します。

以前、NHKで「美術館にはその場所でしか味わえない物語がある」という印象的な冒頭のナレーションで始まる美術館紹介番組がありました。
お雛様の季節に彦根城博物館で展示される雛道具のメインとなる展示物には、このナレーションこそが相応しい物語が残っています。

物語の主人公は井伊弥千代。
弥千代は、幕末の彦根藩主・井伊直弼がまだ埋木舎で藩主となる自分の運命をも想像ができない時に直弼の次女として誕生しました。
しかし、弥千代より先に誕生した直弼の子どもは夭折していたため、実質的には直弼が最初に育てた子どもとなったのです。弥千代はそんな直弼の愛情を一身に受けて育ったのです。

やがて、運命の悪戯から彦根藩主に就任した直弼は譜代大名筆頭として江戸城に詰める事が多くなりました、この時に直弼と共に勤めていたのが会津藩主・松平容保と高松藩主・松平胤だったのです。
この三家はそれぞれの江戸屋敷に家族ぐるみで出入りする程に仲良く交流していたと言われています。
そこで、弥千代は高松藩主の跡取となる聰(よりとし)と出会い二人は恋に落ちたのです。
参勤交代で高松への往復の途中で聰が弥千代を訪ねて彦根城に寄ったという記録も残っていますので、その交際ぶりが目に浮かぶようですね。

そして弥千代は聰に嫁ぐことになりました。
安政5(1858)年4月21日、二人の婚礼は行われました。
普通、彦根藩井伊家と高松藩松平家の婚礼と聞くと政略結婚のような印象を受けますが、もし、政略結婚なら、深い交流のある家に娘を嫁がせたりすることもありませんので、この二人は政治的な意味が全くない恋愛結婚だったのです。
そんな幸福な結婚をした最愛の娘の為に直弼が揃えた婚礼調度の雛形85件が博物館で展示される雛道具なのです。
婚礼当時、聰25歳・弥千代13歳と年の差がある夫婦でしたが、二人にとっては幸せな日々の始まりとなる筈でした。しかし、時代はこの若い夫婦に平穏な日々を許しませんでした。
婚礼の2日後に弥千代が里帰りとして彦根藩邸に戻る日、父・直弼が大老に任命されたのです。
この後、直弼は幕府最高責任者として厳しい政治を行いました、その中には弥千代の義父となった松平胤に対して、「身内である水戸藩への監督ができていなかった」という理由の厳重注意も行われたのです。

そして、婚礼の2年後に桜田門外の変が起こり直弼が暗殺されると、井伊家に対する幕府の風当たりが強くなったのでした。
彦根藩はこの後、10万石が減俸され、直弼の罪を償い続けたのです。

そんな実家の影響が弥千代の生活にも響きました高松藩士達に追い出されたのか、自ら「高松藩や聰に迷惑がかかる」と口にしたのかは想像の域を出ませんが、弥千代は彦根に戻ってきたのです。
この時、雛道具も弥千代と共に彦根にやってきたのでした。
桜田門外の変で離れ離れになった若い夫婦をよそ目に、世の中は大きな革新の時代を迎えます。

やがて明治維新が起こり、江戸幕府そのものが無くなりました。そして、離縁から9年後、聰はもう一度弥千代を妻に迎えたのです。
二人はその間お互いの事を想い続けていたのでした。
伯爵夫人として迎えられた弥千代でしたが、その再嫁道具の中に雛道具は含まれず、彦根に残されたのです。

昭和41年8月15日、この話が縁で彦根市と高松市は姉妹城都市の提携が行われ、以後深い交流が続いているのです。

毎年、彦根城博物館で行われるテーマ展『雛と雛道具』では、彦根に残された井伊弥千代の雛道具が展示されます。
優雅で繊細な大名文化を楽しむと共に、婚家ではなく実家に残された婚礼調度が見つめた歴史にも思いを馳せてはいかがですか?


平成19年は2月9日~3月18日までです。
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