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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

プレイベント『元禄の大老 井伊直興』

2006年10月29日 | 博物館展示
彦根城博物館が発行していた図録


400年祭の開催中、彦根城博物館では『百花繚乱―彦根歴史絵巻―』と題して、井伊家伝来の名宝が展示されます。
そんな彦根城博物館で平成18年10月27日から11月28日まで開催されている400年祭のプレイベントが『元禄の大老 井伊直興』です。
今までずっと読んで下さっている方の中には、井伊直興という名前に聞き覚えがある方も居られるのではないでしょうか?
実は以前、大洞弁財天と玄宮園のお話を書いた時に、この二ヶ所を作らせた藩主としてご紹介していますよね。

今回はそんな、直興の人生を簡単に紹介してみましょう。

直興は、井伊直孝が二代藩主として藩政に就いていた時に、直孝の四男・直時の嫡男として誕生しました。この時、三代藩主になるのは、直孝の嫡男・直滋だと思われていたので、本当なら直興が藩主になる可能性は薄かった筈なのです。
しかし、直滋は直孝が亡くなる前の年に急に百済寺で出家してしまいます、後継者を失った直孝は、五男・直澄を三代藩主に指名して「直澄が縁談をする事は無用、跡目を直興に譲るように」との遺言を残したのです。

直澄の死後、祖父・直孝によって作られた道に乗って、四代藩主に就いた直興は、今は楽々園と呼ばれている下屋敷・槻御殿や先ほどもお話した大洞弁財天と玄宮園、そして松原港などの建造に力を注ぎ、彦根藩の文化推進と経済発展に力を注いだのです。
そして、後に井伊家の重要な資料の一つとなる『侍中由緒帳』によって家臣の管理体制も確立しました。

また幕府に中でも、『生類憐れみの令』で有名な五代将軍・徳川綱吉の治世に大老に就任しています。
この大老就任については、綱吉の寵愛を受けた側近として有名な・柳沢吉保(後に大老格まで出世)との間に政治的なやり取りがあったとも思われていますが、詳細は調べきれていません。

藩内でも幕閣でも活躍した直興ですが、やがて、八男・直通に家督を譲って、何処にでもある藩主としての一生を終えるはずだったのです。
しかし、五代藩主・直通と六代藩主・直恒(十男)が早死にしてしまった為に、再び藩主に就任し、そして六代将軍・家宣と七代将軍・家継の治世にかけて大老となっているのです。

生涯において2度も藩主と大老を経験した忙しい人生を送るという稀な人生を送った直興は、直政・直孝に続く名君と謳われています。
そんな、直興の多くの痕跡が観れるのが、今回のプレイベント『元禄の大老 井伊直興』です。綱吉の描いた絵や書なども展示してありますので、覗かれてみてはいかがですか?

この展示を観に行った時に、市内の方と思われるご夫婦が「この人って直弼とは別の人?」「さぁ、でも同じじゃないかな・・・」
という会話をされて居るのを耳にしました。
井伊家は、直政と直弼が有名で、直政が戦国時代の人、直弼が江戸時代のお殿様という漠然とした思いがあるようですね。
でも、井伊家は直弼以外にも名君が居る事をここで知って下さると嬉しいです。
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彦根屏風

2006年07月12日 | 博物館展示
彦根屏風は正式名称を『紙本金地著色風俗図(しほん・きんじ・ちゃくしょく・ふうぞくず)』といい6面の屏風で構成されています。

寛永年間と言いますから、江戸幕府三代将軍・徳川家光の時代に描かれた当時の風俗を知る文化資料ともなっています。作者は狩野派の画家と言われていますが誰の作品なのかは確定されていません。

しかし、向かって左側は室内の様子が描かれ、右側が室外の様子を描かれる構図や、登場する人物達の生き生きとした表情・三味線や双六を楽しむ様子・恋文を書く女性などの個々にしつこすぎず、全てを含めて一服の絵となっているんですよ。
そして、じっくり見るとタバコや西洋犬も登場していて、鎖国政策の下でも外来品が生活の一部だった事実までを教えてくれるんですよ。

ちなみに、彦根屏風と言う俗称が付いている事から、彦根の風景だと思われがちですが、これは代々井伊家に伝わった事からこの呼び名が付いただけで、京都の遊里・六条三筋町の様子だという説が有力視されています。

また、この作品一枚で、少女が持つかしわ椿が春・着物の芭蕉の柄が夏・若い侍の着物の桔梗が秋・犬を連れた女性の着物の雪模様が冬と四季も表しているんです。

彦根屏風と呼ばれながらも、実は今は屏風から外されているんです、そこで、2006年から本来の屏風の姿に戻し修復する作業が行われ国宝彦根城築城400年祭で公開されるんです。

ちなみに、彦根屏風も国宝なんですよ。
コメント (2)
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余談:『ひこにゃん』

2006年04月20日 | 博物館展示
国宝彦根城築城400年蔡のマスコットキャラの名前が「ひこにゃん」に決定しました。
関連HPを訪れるとご覧になる事が出来ると思いますが、キャラクターのデザインとしてはシロネコが井伊の赤備えの兜を被っています。

流石に勝手に拝借する訳にはいきませんので、ここでその絵を載せる事は控えさせて頂きますが(後日撮影したイベント用ひこにゃんアップしました)、ここで一つ疑問になるのは、なぜ彦根でネコなんでしょうか?

実はこのネコは「招き猫」なんです。
彦根と招き猫がどんな関係があるのか? 今回はそんなお話を書いてみます。

招き猫のルーツを調べるとその発祥の地は豪徳寺(ごうとくじ)というお寺だという説が有力視されています、では、この豪徳寺が彦根のお寺なのか? と期待してみると、残念ながらこれは東京世田谷のお寺でした…
何だぁ、じゃあ招き猫って彦根とは何の関係も無かったのかな? って少し諦めながらもう少し詳しく調べてみると、何と豪徳寺が井伊家の江戸での菩提所だというのです。
 
“1615年と言いますから、ちょうど大坂夏の陣の年のこと、貧しいお寺だった弘徳庵(こうとくあん)の和尚は、とても大切にしている猫がいたそうです。
和尚は自分の食事を削ってまで猫に与えていましたが、ある日その猫に「お前、恩を感じているなら何か福を招いてくれないか?」と言って聞かせました。
多分、貧しさによる冗談だった筈です、しかし夏の日のこと、急に門前が騒がしくなり和尚が不審に思って表に出ると狩の中途と思える立派な武士が居ました。
その武士は「何やらこの猫がしきりに手招きするので尋ねてみた、休憩させてもらう」と言いました。
和尚が武士を茶でもてなしていると突然雷が鳴り響き、辺りは豪雨となったのです、和尚はその中でも整然と仏の教えについて説きました、これを見た武士は「我は、近江彦根城主・井伊直孝だ、猫に招かれ雷雨を逃れ、その上、ありがたい話まで聞けた、これからもよろしく頼む」と言ったそうです。
井伊直孝は、この後、4代将軍・家綱の頃まで幕府の重鎮として活躍し、江戸前期の幕府を築き上げた「寛永の遺臣」の一人にも挙げられていますし、井伊家は江戸時代を通して七人の大老を輩出するほどの名門でしたから弘徳庵は、江戸における井伊家の菩提所として多くの田畑を寄進され、大きなお寺へとなったのでした。
そして、後に直孝の戒名を取って『豪徳寺』と改名したのです。
和尚は、猫の恩返しに感謝し、その後も大切にし、亡くなった後は墓を作って「まねきねこ」と称して家内安全、営業繁盛、心願成就のご利益があると公伝しました。
こうして招き猫が誕生し、彦根も招き猫をシンボルにするようになったのです。”

ここでは、彦根城近くの招き猫専門店「招福本舗」さんで教えていただいた招き猫のこだわりをご紹介しましょう。

まず、「手の高さ」
手が高く上がっていれば居るほど、大きな福、遠くの人を招くそうです。逆に低い時は小さな福や近くの人の福を招くと言われています。

次に「挙がっている手について」
右手が挙がっている時はお金を招きます、昼の商売に向いているという説もあります。
左手が挙がっている時は人を招きます、夜の商売に向いているという説もあります。
そして、欲張りにも両手が挙がっている時は、願い事は何でもござれだそうです。
う~ん、じゃあ、井伊直孝を招いた猫は左手か両手を挙げていたことになりますね、でも、流石に両手を挙げた本物の猫には寄りたくないから、左手説に勝手に決めちゃいましょう(ちなみに歴史的根拠はありません)。

最後に「色」
白色のネコは幸運や開運
黒色は、厄除け
赤色は、無病息災
金色は、金運上昇
青色は、安全
緑色は、合格
黄色は、縁結び

これを見ると一番凄いのは白色で両手を高々と挙げている招き猫のような感じがしますが、用途に応じてピンポイントを決める方が効果が大きいかもしれませんし…
どれが良いのか、皆さんの判断にお任せしましょう。


捕捉:「この話をどこかで聞いて事があるなぁ」と思った彦根市近辺の方がおられましたら、それは平成17年11月に管理人が書いた某ラジオ局での放送原稿から必要部分を抜粋したからです。
この先もこういう使用済み原稿からアップする話もあるかもしれませんからその辺りは気にしないで下さいね(^^)
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