晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 真継家と近世の鋳物師(2) 1/30

2012-01-30 | 雨読

2012.1.30(月)雪

 第二章各地の鋳物師と真継家、第三章各国の鋳物師組織では美濃、三河、高岡、甲斐、近江、信濃、尾張、遠江などの鋳物師についてその出自や実態についてかなり詳しく述べられている。本来は丹波の鋳物師について知りたかったのだが、それはなくて残念である。わたしの近隣の鋳物師居住地は上林清水村、胡麻新町、田辺引土村、福知山鋳物師などである。郷土史研究会などの論文で見ることも出来るが、今ひとつ核心に迫ったものに当たらない。
 本書の中では真継家文書にあるものが少し紹介されているだけである。上林清水村の鋳物師については以下の文のみであった。
 
 元文元年(一七三六)十月には丹波国何鹿郡八代村へ同国柿芝村の鋳物師の中から出職を企てた者があった。その時、小出伊勢守の領分の上林清水村の鋳物師たちが、古格をもとに願い出たので柿芝の領主に座法の趣を申し入れて出職を差し止めた。

 柿芝村とは現丹波市氷上町柿柴のことであり、何鹿郡八代村は綾部市八代町。出職とは出張製作のようなことで、一郡一鋳物師が原則であり、郡内の仕事は独占していたため上記のような事件が持ち上がり、その調停役が真継家の重要な役割だった。独占であったため、鋳物師というのはかなり儲かるものであったそうだ。Img_3053
上林川で採取した鉄滓(下左四個、上右から二番目)は清水村のたたらからでた可能性が高い。



  鋳物師の居住地については河内国日置庄の鋳物師が全国に散らばって定住したように言われているが、そればかりではないだろう。むしろ鍋釜、鋤鍬などの鉄製品が大衆の間に普及するまでは鍛冶師、鋳物師などは各地を流浪していたのではないかと考える。鉄製品の普及と共に、或いは戦国領主や封建領主との結びつきなどの要素で定着し、いわゆる居職となるようになったのではないだろうか。
 わたしが着目しているのはその居所である。例えば福知山鋳物師や田辺引土村などは城下町に存在し、領主のかかわるところ大であるという風に考えられる。ところが上林清水村や胡麻新町などは山間部であり、清水村などは河川を使った交通の便とも縁がないところである。Img_2696
 
清水村のある畑口川流域こそ金工の谷であると想像している。

Img_3904
胡麻新町は鋳物師勝田家の居所である。近隣に大河はないが由良川から畑川などの支流を使い船運があった。

 本書には近世真継家配下鋳物師人名録という真継家の配下の鋳物師の人名と居所や文書などの一覧があり、実に百四十ページにわたっている。その一つひとつを拾い上げて地図と対照し、どのような場所であるかを調べている。城下町、商業地、郊外、山間地などの分類の他に近隣の河川の様子、寺社、金工地名、鉱山などをデータ化しているところである。鋳物師の居住地が鋳物業がしやすい場所というだけでなく、中世以前の金工、産鉄の地ではないかということを証明してみたいのである。

【作業日誌 1/30】
雪かき、野菜は雪の中で元気している。でも掘り出すのが大変。

今日のじょん:連日の雪景色になると人間も飽きてくるが、じょんも飽きてきたようだ。今朝など散歩から帰ってきたらさっさとベランダに帰ってしまった。うーむなんかさみしい。P1000907
 

今朝の積雪22cm、雪の中のおしっこも大変。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雨読 真継家と近世の鋳物師... | トップ | 上林雪譜 1/31 »

コメントを投稿