晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

峠越し文化論(5) 9/1

2011-09-02 | 歴史・民俗

2011.9.1(木)曇、雨

 青谷上寺地遺跡出土の木製品は、船はスギ、高坏や椀などはヤマグワやケヤキが、弓や網枠にはカヤ、鋤や鍬の農具にはカシ類などが使われているそうだ。最も多く使用されているのが溝などの土木資材としてのスギで、弥生中期に遺跡周辺に豊富にあったスギ林が後期には減少していることが確認されているそうだ。Img_3621_2
 
青谷上寺地遺跡を訪れたのは2007年5月である。よくぞ発掘ノートを買っていたことか。

  世界各地の古代文明が栄えた地はいまや砂漠と化している、木材の大量消費の結果である。同様に古代の集落においても木材の供給というのは最大の課題だったのではないだろうか。海辺で供給できる木材は、量的にも質的にも限度がある、やはり潤沢な木材資源は山に入る必要があったのだろう。
 山の開拓、つまり猟や用材の調達で山に入る場合は、谷筋に始まるという。ブッシュのない谷筋は未開の地に踏み込むには最も容易いルートである。そして谷筋は石や岩が露出しているために鉱石を発見する確率も高い。そうやって稜線を越えて仮泊を繰り返しながら、新天地に定住することとなったのではないだろうか。
 奥上林村誌に明治初期の話としてくれ屋根の記事が載っている。
 
「くれ屋根は現在の杉皮葺きの代りに、栗板の薄いのを数枚、釘で打ち止めて葺くと云う屋根の仕法で明治中期まで当村では屋根葺の主流であった。
 古和木は此くれ屋根のくれ材の主産地で、くれは当代古和木の名産品であった。
 くれ屋根葺の名手は老富方面に多く、於見の久保氏は代表的なものであったと伝へられる。」
とある。Img_3619_2

於見も過疎化が進んでいる。久保氏の末裔はおられるのだろうか。


 くれは榑と書き、薄板、へぎ板の意であるが、船板を表すものだそうだ。呉市の”くれ”は安芸の榑(船材)が語源になっているそうだ。高知県の久礼(中土佐町)も同様である。いずれも海人族の活躍した地域である。
くれを加工して船を造るのは、漁撈、航海の民である海人族ならではの技術だと考えられるし、それらの材料を求めて若狭湾沿岸から丹波の山中に分け入ったのだろう。峠を越えて奥上林に定着した彼らは船を造る必要は無くなったが、その技術を屋根葺きに使い、明治の代まで引き継がれたのだろう。くれ屋根葺きというのは、奥上林に海人族が定着したひとつの証左ではないだろうか。
 渡辺(綱)さんがくれ屋根葺きについて語ってくれた。
くれは目の通った栗の木を包丁のような刃物で数センチの薄さに割って板にする。長さは一尺ぐらい、巾は手のひらぐらいかな。それを釘で打ち止めるのだが、母屋は茅葺きで別棟、つまり木屋などに使われていた。
 思うに鋸を使わないで割るのだから、そうとう古い技術であること、包丁様の刃物ということは多分鉈の様な道具なんだろうけど、鉈では刃が厚くて上手く割れないので薄い刃になっているのだろう。
 母屋が茅葺きというのは、豪雪に耐えられる構造と傾斜がくれ葺きでは不可能なためと思うが、より以前の時代にはくれ葺きばかりだったのかもしれない。丁度漁村の風景のように。

【作業日誌 9/1】
草刈り(7-7)

昨日のじょん:またじょんカレの報告を忘れていた。8月のカレンダー、若狭三松海岸の勇姿である。Img_3606_2

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