・ゲゲゲの鬼太郎 [第5作] 第22話「ニセ鬼太郎現る!!」
(脚本/吉田玲子、演出/西沢信孝、作画監督/仲條久美)
アバンタイトルの語りが、「あの日の僕は、まるでついていなかったんです」で始まったので、第2作の「釜なり」を、思い出してしまった。
「釜なり」のエピソードでは、鬼太郎が「ついていない」と言う要素は原作でも描かれていたものだが、鬼太郎の回想による語りから始まる趣向は、明らかに第2作を意識したものだろう。第2作にも参加していたベテラン・西沢信孝らしい趣向の演出だ(ただし、第2作「釜なり」の演出は西沢氏ではない)。
話として、鬼太郎が釜なりに吸い込まれて、髪の毛やチャンチャンコを奪われて無力化するのはお馴染みの展開だが、今回の釜なりは捨てられた「釜」としての恨みをそのまま持っており、まるで「もったいないお化け」のように物を粗末にする人間に復讐する妖怪となり、何でも構わず吸い込む強引なところは面白かった。釜が家を吸い込む様は、一歩間違えればギャグになってしまう場面だろう。
今回は鬼太郎が妖力を失った上、釜なりの中に吸い込まれており、目玉親父の奮闘が目立った。
女子高生につかまって「キモカワイイ」と言われるあたりはご愛敬か。その後、女子高生に指図していたのには笑ってしまった。
妖怪横丁にたどり着くまでは非常に苦労していた目玉親父だったが、チャンチャンコを操って釜なりを倒す場面は格好よく、鬼太郎の父親としての貫禄を見せつけられた。チャンチャンコは、鬼太郎だけでなく目玉親父にとっても御先祖から受け継いだ物なのだから、当然操る事も出来るのだろう。目玉声で「髪の毛針ー!」が聞けたのは、嬉しい展開だった。
また、目玉親父とは逆に、助けを待つしかない鬼太郎の情けなさも印象的だった。
更に、釜なりの内部で裸にされて布にくるまっている様には不気味さもあり、吸い込まれた他の人間たちとの違いが上手く描かれていた。
ともかく、ようやく「強い目玉親父」が観られたと言う点で、嬉しい話だった。
(脚本/吉田玲子、演出/西沢信孝、作画監督/仲條久美)
アバンタイトルの語りが、「あの日の僕は、まるでついていなかったんです」で始まったので、第2作の「釜なり」を、思い出してしまった。
「釜なり」のエピソードでは、鬼太郎が「ついていない」と言う要素は原作でも描かれていたものだが、鬼太郎の回想による語りから始まる趣向は、明らかに第2作を意識したものだろう。第2作にも参加していたベテラン・西沢信孝らしい趣向の演出だ(ただし、第2作「釜なり」の演出は西沢氏ではない)。
話として、鬼太郎が釜なりに吸い込まれて、髪の毛やチャンチャンコを奪われて無力化するのはお馴染みの展開だが、今回の釜なりは捨てられた「釜」としての恨みをそのまま持っており、まるで「もったいないお化け」のように物を粗末にする人間に復讐する妖怪となり、何でも構わず吸い込む強引なところは面白かった。釜が家を吸い込む様は、一歩間違えればギャグになってしまう場面だろう。
今回は鬼太郎が妖力を失った上、釜なりの中に吸い込まれており、目玉親父の奮闘が目立った。
女子高生につかまって「キモカワイイ」と言われるあたりはご愛敬か。その後、女子高生に指図していたのには笑ってしまった。
妖怪横丁にたどり着くまでは非常に苦労していた目玉親父だったが、チャンチャンコを操って釜なりを倒す場面は格好よく、鬼太郎の父親としての貫禄を見せつけられた。チャンチャンコは、鬼太郎だけでなく目玉親父にとっても御先祖から受け継いだ物なのだから、当然操る事も出来るのだろう。目玉声で「髪の毛針ー!」が聞けたのは、嬉しい展開だった。
また、目玉親父とは逆に、助けを待つしかない鬼太郎の情けなさも印象的だった。
更に、釜なりの内部で裸にされて布にくるまっている様には不気味さもあり、吸い込まれた他の人間たちとの違いが上手く描かれていた。
ともかく、ようやく「強い目玉親父」が観られたと言う点で、嬉しい話だった。