残菊に我が来し方を括るなり 本田久子
まだ咲き残っている菊を括りながら、残菊に自分の来し方を投影している作者である。最も美しい時を過ぎてなお、咲きつぐ菊を括るということは、「我が来し方」を括ることに似ているという一つの諦観。「括る」に二つの意味が込められた詩情高い一句である。「阿蘇」2月号より抄出。(Midori)
まだ咲き残っている菊を括りながら、残菊に自分の来し方を投影している作者である。最も美しい時を過ぎてなお、咲きつぐ菊を括るということは、「我が来し方」を括ることに似ているという一つの諦観。「括る」に二つの意味が込められた詩情高い一句である。「阿蘇」2月号より抄出。(Midori)
括りながら、ふと紐の一本、一本が家族の顔、近所の人、語り部の人達、そして俳句の方々に思えて来た。 何かしら、明日開く蕾があれば、たとえ小さくても、見守って下さる方々のお陰あってこその自分では。
句評をありがとうございます。
あるがままに、でも精一杯前向きに・・・・と思っての、ちょっと恥ずかしい一句です。。、
人生は、ずっと続いているのだな~と思うこの頃です。
掲句は、確か、南関句会で、一番に頂いた句です。
>あるがままに、でも精一杯前向きに・・・
そうですね♪
残菊や枯菊にさえ心を寄せる、こんな繊細で深い情緒を持つ日本人っていいですねー。
私も行く末を“あるがままに、でも精一杯前向きに”生きたいと思います。
見つめる心、すごいですね!