![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/4b/b73dd7a6b8362a953e34cb4c55c141e7.jpg)
今夜、久しぶりに妻と映画を観に行った。
是枝監督作品で、福山雅治と尾野真知子、真木ようことリリーフランキーの夫婦の子供が、病院で取り違えられていたことが判明し、両夫婦にとって、六年間もの間「我が子」として育ててきた最愛の息子を、果たして半年かけて交流しながら、取り替えることができるのだろうかという、非常に稀なる事例を題材にした家族の物語である。
是枝監督は今までもとても日本人の機微に迫る家族間の問題などをテーマに映画を撮り続けてきた人なので、今回の映画の題材をも、巧みな脚本と演出で約2時間近くの物語を、観衆に飽きさせることもなく演出し、真の主人公ともいえるお互いの六歳になる男児の好演もあって、カンヌ映画祭では「審査員特別賞」を受賞したらしい作品である。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/d8/dab8e51fc129774bc2a8625ff06633c6.jpg)
仕事終わりに毎週木曜日は、体育館のジムで約二時間汗をかきかき、歩いたりストレッチをしたりをする木曜日の夕刻だったので、体の疲れも感じていたので、映画の上映中に眠たくなるのではないかと危惧していたのだが、あいにく映画のストーリー展開に魅せられて、眠りもせずに最後まで観ることができたのは、やはり出演者の演技が秀逸であったせいかもしれない。
そんな中で、やはり気になったのが群馬・前橋で小さな電気屋を営む、一方の親父であるリリーフランキーが演ずる役の、変な関西弁であり、何処の出身という想定かは知らないが、たぶん九州出身の彼にとって、いくら方言指導があったとしても、私たち大阪人にとっては、可笑しな関西弁であり、なんとも歯がゆい感じで、最後まで違和感があった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/32/d92ce424b9f8527089757f2924b8d5dd.jpg)
映画のテーマ自体は、ありえない想定ではあるし、その原因が出産した病院の女性看護士の「いたづら」的犯行の結果だとする原作か脚本の想定もありえない感じで、ちょっと甘い構成だとも思うのだが、誰にとっても我が子とむ信じて育てていた男の子が小学校に進学、入学するという時期に、「実はその子はあなたの子ではなく、他人の子と取り違えました」という事実を突きつけられれば、動揺もするだろうし、取替え事件をどのように解決すべきかは、大変な苦悩と選択が待っていて困ることになるだろうとは、誰もが想像できることである。
こういう重くて暗いテーマを、脚本では出来るだけ明るく描こうとしている工夫があり、子供たちの好演によっていずれの夫婦もいろいろと悩みつつ、子供たちと遊んだり押し問答したりと、お互いにちがった子供と父、母の関係を取り戻そうと躍起になるのである。
しかし、福山雅治を父として育った少年は、父から人間として強くなるためのミッションだと告げられ、気が進まないままに相手方のリリーフランキー、真木よう子夫妻の田舎の電気店に行くのであるが、結局は育ての父である福山雅治と尾野真知子夫婦が六年間育てた他人の子供を見捨てることが出来ず、前橋まで会いに行き、少年に「ミッションの終わり」を告げたのであった。
『産みの母より、育ての母」と昔から言われるように、この映画ではその後のお互いの生活や子供の気持ちなどは、まったく描かれてはいないのだが、たぶん作品を通じて、観客には結論は各々が出されたらいいと暗示していると感じられる結末であった。
もし、自分の子として育てていた我が子が、他人の子供だと年月が経って告げられたとしても、人間の情はやはり永い付き合いと関係性が重要であり、簡単に血の繋がりだけでは、親しくなったり、一緒にすぐには暮らすという形は取れても、親子や肉親、身内としての情愛は簡単には生まれないだろうと痛感した次第である。
是枝監督作品で、福山雅治と尾野真知子、真木ようことリリーフランキーの夫婦の子供が、病院で取り違えられていたことが判明し、両夫婦にとって、六年間もの間「我が子」として育ててきた最愛の息子を、果たして半年かけて交流しながら、取り替えることができるのだろうかという、非常に稀なる事例を題材にした家族の物語である。
是枝監督は今までもとても日本人の機微に迫る家族間の問題などをテーマに映画を撮り続けてきた人なので、今回の映画の題材をも、巧みな脚本と演出で約2時間近くの物語を、観衆に飽きさせることもなく演出し、真の主人公ともいえるお互いの六歳になる男児の好演もあって、カンヌ映画祭では「審査員特別賞」を受賞したらしい作品である。
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仕事終わりに毎週木曜日は、体育館のジムで約二時間汗をかきかき、歩いたりストレッチをしたりをする木曜日の夕刻だったので、体の疲れも感じていたので、映画の上映中に眠たくなるのではないかと危惧していたのだが、あいにく映画のストーリー展開に魅せられて、眠りもせずに最後まで観ることができたのは、やはり出演者の演技が秀逸であったせいかもしれない。
そんな中で、やはり気になったのが群馬・前橋で小さな電気屋を営む、一方の親父であるリリーフランキーが演ずる役の、変な関西弁であり、何処の出身という想定かは知らないが、たぶん九州出身の彼にとって、いくら方言指導があったとしても、私たち大阪人にとっては、可笑しな関西弁であり、なんとも歯がゆい感じで、最後まで違和感があった。
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映画のテーマ自体は、ありえない想定ではあるし、その原因が出産した病院の女性看護士の「いたづら」的犯行の結果だとする原作か脚本の想定もありえない感じで、ちょっと甘い構成だとも思うのだが、誰にとっても我が子とむ信じて育てていた男の子が小学校に進学、入学するという時期に、「実はその子はあなたの子ではなく、他人の子と取り違えました」という事実を突きつけられれば、動揺もするだろうし、取替え事件をどのように解決すべきかは、大変な苦悩と選択が待っていて困ることになるだろうとは、誰もが想像できることである。
こういう重くて暗いテーマを、脚本では出来るだけ明るく描こうとしている工夫があり、子供たちの好演によっていずれの夫婦もいろいろと悩みつつ、子供たちと遊んだり押し問答したりと、お互いにちがった子供と父、母の関係を取り戻そうと躍起になるのである。
しかし、福山雅治を父として育った少年は、父から人間として強くなるためのミッションだと告げられ、気が進まないままに相手方のリリーフランキー、真木よう子夫妻の田舎の電気店に行くのであるが、結局は育ての父である福山雅治と尾野真知子夫婦が六年間育てた他人の子供を見捨てることが出来ず、前橋まで会いに行き、少年に「ミッションの終わり」を告げたのであった。
『産みの母より、育ての母」と昔から言われるように、この映画ではその後のお互いの生活や子供の気持ちなどは、まったく描かれてはいないのだが、たぶん作品を通じて、観客には結論は各々が出されたらいいと暗示していると感じられる結末であった。
もし、自分の子として育てていた我が子が、他人の子供だと年月が経って告げられたとしても、人間の情はやはり永い付き合いと関係性が重要であり、簡単に血の繋がりだけでは、親しくなったり、一緒にすぐには暮らすという形は取れても、親子や肉親、身内としての情愛は簡単には生まれないだろうと痛感した次第である。
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