ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「奇跡のリンゴ」

2013年06月30日 | 感じたこと
 先週日曜日、大阪の母に会いに行った帰りに、少し時間があったので天王寺のシネコンで、少し気になっていた映画「奇跡のリンゴ」を観た。

 私が無農薬の農産物や無添加食品に出会ってから、約30年が経ち、自らが縁あって始めたささやかな有機農産物と無添加食品の移動宅配八百屋ガリバーをはじめて、今年の秋で丸20年目を迎える年月が、いつのまにか過ぎてしまうのである。

 やはり気になる「無農薬リンゴ」を青森県の現在の弘前市で栽培する「木村秋則さん」という変哲なおやじの話は、それとなく聞いていたのだが、数年前にNHKのプロフェッショナル仕事の流儀で紹介されて以来は、多くの人が知るにいたり、この「奇跡のリンゴ」は、インターネットを通じても全てすぐに完売してしまうほどの人気商品となっているらしい。

 しかし、この映画のモデルとなった「木村秋則さん」の、無農薬栽培のリンゴを栽培するという、とてつもない夢の実現には10年以上の苦悩と努力と共に、周辺農家をはじめ町の人々からの誹謗中傷も交えて、過酷かつ意気消沈してしまうほどの歴史があったのである。

 映画でも描かれている様に、リンゴ農家の娘と結婚したことで、リンゴ栽培の跡取りとして、それまで弘前の商業高校を卒業後、関東の電機メーカーに集団就職していた主人公が郷里の弘前にユーターンし、それまで全く興味のなかった農業に従事することとなり、新妻が農園の手伝いをしたり日常生活でも体調を壊すことが多い原因が「農薬」にあると気づいて、彼は彼女のためにも「無農薬リンゴ」の栽培をすると決心したのであった。

 しかし、初年度の約三ヶ月だけが順調に思えた「リンゴ畑」だったが、それから多種多様な農薬に替替わる有害虫などに対する対応、絶滅にお酢をはじめ、あらゆる無害な食品や調味料で対応を試みながら、リンゴの木の成長を見守ったのだが、失敗の連続で毎年、毎年花もつけないむなしいりんご畑での早朝から深夜までの格闘がつづいたのであった。

 今年こそはと、来年こそはと毎年、春から秋にかけて努力を惜しまなかったが、残念ながら花もつけず実は当然ならないという現実が続き、
冬は出稼ぎに東京へと単身で赴き、なんとか家計を維持するための現金収入を得たりし、子供たちも学校で「あの変わり者のリンゴ畑の娘」としていじめや寂しい思いをさせられたり、遂には努力がむくいられることも無い日々に疲れ果てて、主人公自身が自らの命を絶とうとまで追い詰められていくのでった。

 しかし、わが子の父の無農薬リンゴのために奮闘する父への作文や、「何のために貧乏を我慢してきたのか」という父への諦めるなという叫び、そして最愛の妻の支えで何とか乗り越えた彼が、10年目に「リンゴ園の白い花」が満開なのを知り、忘れていた笑顔を取り戻して歓喜するのであった。

 主人公「木村秋則」さんの実際の笑顔も最高に素敵なのだが、演ずる阿部サダヲの好演と妻役の菅野美穂の演技も秀逸なのだが、一番は子供たちの笑顔と演技であった気がするのである。

 すがすがしい気持ちで映画を観終わって外に出ると、次回の多様な映画のチケットを求める列が目に留まり、その中に十数年も会ってはいなかった年賀状だけの付き合いとなっていた先輩Wさん夫妻を偶然にも発見し、声をかけるとなんと、彼も木村さんの原作本を読んで「奇跡のリンゴ」を観に来たというのであった。

 「偶然」と思ったのだが、彼はここでこの時間に会うのは「奇跡」だと笑ったのであった。

 数日後の金曜日、突然に携帯電話に彼からの電話があり、ゴルフで君の住む町へ来たから、ちょっと寄ってできれば僕が自営する有機八百屋の食品を買って帰りたいと立ち寄ってくれたのである。

 そして翌朝、再び彼からの電話があり、「奇跡のリンゴ」ではないが、パンも豆腐もおあげさんにとても美味しかったから、今から娘のところに「おっそわけ」に届けに行くとの感謝と「奇跡や」という言葉が再びあったのだが、私には、尊敬する先生の名文句の「全ての出会いは歴史的た。ぱいであっ必然性」なのだという思いでいっぱいであった。

 

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